かつて鎮守府が置かれた陸奥国胆沢城に行ってきました。
まず「奥州市埋蔵文化調査センター」に立ち寄り、そこから2019(令和元)年6月にオープンした胆沢城跡歴史公園に向かいました。
復元された南大路の一部と外郭南門の両脇築地塀ができてから、初めての胆沢城訪問でした。
東北地方に存在した古代城柵は遺跡としての保存が決定したとしても〝どこまで復元するか〟は難しい問題で、多くの場合は予算の都合上、主要な建造物が再現されるのは稀で、建造物の基壇や掘立柱跡が造られることの方が一般的です。そうした意味では、志波城古代公園は驚異的なのです。
時節柄、アマビエが3体立てられていました。
築地塀は継ぎ目など外観から、埋蔵文化調査センターの2階に展示されている築地塀造営模型(1/2スケール:志波城の様式)で再現されている手法で造られたかのように見えます・・・
・・・が、現代的な技術、すなわち電源などを供給する設備が築地塀内部に備えられているようです。それはこの扉と点在するライトに繋がるコードから推測できます。
今後、他の建造物も再現されるのか?がとても気になったので、センターの職員さんに聞いてみようと思っていたのですが、機会を逸してしまいました。
しかしながら「AR胆沢城~坂上田村麻呂と阿弖流為~」という、平安時代初期の胆沢城外郭南門を現地で復元・体感できるスマートフォン・タブレット端末向けアプリケーションがあるので、予算の件も重ね合わせると今後の更なる建造物再現は難しいのではないかと思いました。胆沢城敷地に該当するエリアに個人宅+私有地&田圃が存在することも、胆沢城再現に立ちはだかる問題です(これが最も解決困難な問題でしょう)。
さて、公園内に設置されているベンチには「鬼瓦」のデザインが用いられています。こうした〝遊び心〟が素敵です。杭の後ろは道路(県道270号線)に面していますが、〝危ない〟感じはありません(ちびっ子の放置は除きます)。
城内南大路の延長先に胆沢城跡があります。
個人宅がありますので、城内南大路は縮小されて、道路で途切れています。この道路を渡ると胆沢城跡に立ち入ることになります。
横断しようと車の流れが途切れるのを待っていると、だいたい車が止まってくれます。岩手県の皆さんの県民性に感謝です。
道路沿いに「史跡胆沢城跡」の石碑が建てられています。
すぐ側に、発掘調査で判明した胆沢城の施設復元配置の案内板が設置されており、建造物の再現こそありませんが、簡単な案内板が各箇所に設けられています。
この様に、重ねられた段の上に建造物が存在していたことが推測できるように整備されています。
田圃になっていた土地を買い上げて遺跡整備をしたことから、灌漑施設(用水路)となっているところがあります。こうして水路を設けていかないと水捌けが悪くなり、雨の多い季節になると史跡内は泥濘んでしまうことになります。
「政庁・厨地区」の標識の先は、ちょうど稲刈りのシーズンでしたので、農家の皆さんが稲の収穫をされていました。
この様に本来胆沢城の区画内に私有地(田圃)・個人宅が存在するのが現状です。
今回の鎮守府巡察は、時間的な余裕がじゅうぶんありましたので、いつも看板を見ても素通りしていた「鎮守府八幡宮」に立ち寄ることにしました。
胆沢城から、この画像の道路を直進して突き当たりに「鎮守府八幡宮」があります。
収穫シーズンでしたので稲の穂首は大きく垂れ、この農道を歩んでいる間、たくさんの蜻蛉や蝶などが飛び交っていました。彼らは人見知りしないというか、ぶつかってはこないものの、スレスレで飛んでいます。蜻蛉の羽音が聞こえるくらいです。蜻蛉の中を歩いている感じでした。また黄色と白い蝶がダンスをしているかのように舞っているのが彼方此方で見ることができたのが印象的でした。来訪を歓迎してくれているかの様で、とても心地良かったです。
「鎮守府八幡宮」前に到着しました。
田圃の中にある小さな祠ぐらいにしか考えてきませんでしたが、なかなか立派で堂々とした神社(八幡宮)でした。
凜とした佇まいを感じましたので、鳥居を正面から見てみました。素敵な印象の鳥居ですね。
境内の二の鳥居と、「鎮守府八幡宮」の額です。この額が〝八幡大菩薩パワー〟を発していてカッコイイのです。
本殿向かって左側に「鎮守府八幡宮境内社 若木(若気)社の神木」が立っており、
この神木には独自のパワーが漲っている感じです。
直接は手を触れずに、案内板の指示に従って祈願をされるのが宜しいかと存じます。
派手な飾り気の無い、質実な造りの本殿です。
まさかこの様な規模の八幡宮であるとは思ってもいませんでしたので朱印帳の持参をしていませんでした。今回の目的は〝鎮守府視察〟でしたから・・・。致し方無いので、次回の機会に朱印をいただくことにしました。
胆沢城跡の巡察時は雲の多い空模様でしたが、鎮守府八幡宮に向かう途中から雲が消えての晴天に変わりました。八幡宮から出る時、一の鳥居で〝天照の恵み〟を感じさせる陽の光を目にしました。
「次の来訪を楽しみに待っている」というメッセージの様な強い日射しでした。
折り返し、胆沢城跡を突き抜け、埋蔵文化調査センターに向かいました。
雲が多いのに、日射しが強いのです。
奥州市埋蔵文化調査センタ-の正面入口には、律令国家の建造物を意識した朱塗の柱(と白壁?)が再現されています。施設のすべてではなくても、こうした部分的な再現は訪問者の知的好奇心を掻き立ててくれるので大歓迎です。
受付で入館料を納め、1階のエントランスホ-ルに設置されている縮小模型を眺めます。
「これが原寸大で再現されるといいのに・・・」と思いながら写真を撮りました。
胆沢城の模型、右側には阿弖流為(アテルイ)の人形が立っています(「アテルイ没後千二百年記念~延暦八年の戦いに立つ勇姿~甦るアテルイ像」)。蝦夷の風俗考証をもとにした人形ですが、・・・何故か瞳の色がピンク。この阿弖流為像の写真を掲載しようとしたのですが、何度も失敗してしまい諦めました。阿弖流為は、あの風貌には異論があるみたいです。
さて、2階に上がると、律令国家に徴兵された兵士たちが出迎えてくれます。
関東地方から動員され鎮守府に配属された「鎮兵」の装備が表現されている像です。
平安時代初期の蝦夷征討軍の装備は指揮官級が挂甲、一般兵卒は木製・革製等の簡易な装備であったと推測されています。当時の軍制を考慮すれば、この鎮兵は冑、挂甲、膝・脛当を装備していることから幹部級の兵であったと判断した方が良いでしょう。
一般的に白鳳時代~平安時代前期の蝦夷征討に徴発された兵士は、班田農民の中から半ば強制的に兵役従事をさせられ軍団に配備されているため、体力を含めた戦闘力の面ではそれほど頑強とはいえませんでした。ただ各国の軍団での訓練の成果、更には桓武天皇の治世における健児制(こんでいせい)への転換と、関東地方での軍編成とその投入により、蝦夷たちとの戦闘を優位に展開できたと考えられています。
この鎮兵たちは、時間差をつけて赤い眼光を発します。画像を掲載しようとしたのですが、阿弖流為像と同様に何度も失敗して諦めています。それはさて置き、奥州市埋蔵文化調査センター様のこうした〝遊び心満載〟度合いには最大の敬意を表します。
展示施設内に入ると、ちょうど30分間の『古代東北蝦夷の世界』の影像上映時間にあたり、案内を受けたのでゆっくりとど真ん中の席で視聴しました(他に誰も居なかったので)。
これまで何度も視聴した映像ですが、時間が経過すると忘れてしまっているもので、初めて視るつもりで楽しみました。この『古代東北蝦夷の世界』のDVD、販売してくれませんかね?(ただ、戦闘シーンの映像加工は〝戦国時代のものを流用した〟ためのようで、販売用とするのであればそこは改善していただきたいです)
映像視聴後、各展示を楽しみました。
蕨手刀、蝦夷の甲、鬼瓦、漆紙文書・・・と。展示品の撮影可能というのは嬉しいですね。
今回は、いつもチラリとしか見ていなかった「悪路王」の顔を重点的に撮影してきました。
ちょっと上から、左から、右から。更に〝意外と鼻高〟ということで鼻を左右から撮影した画像を掲載しようとしたのですが、阿弖流為像・鎮兵像と同様にアップができず断念してしまいました。致し方ありません。
帰りがけに展示図録と「鬼瓦文鎮」を購入しました。今回は「蕨手刀ペーパーナイフ」は見合わせました。
「胆沢城跡歴史公園」→「胆沢城跡」→「鎮守府八幡宮」→「奥州市埋蔵文化調査センター」の順で、徒歩おおよそ2時間のコースでした。雨天時、「胆沢城跡」は長靴・傘が必要です。「鎮守府八幡宮」は県道270号線沿いにある朱色の鳥居を目印に曲がり、細い道を直進すると八幡宮横の駐車場に到着します。
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