大和国橘寺(奈良県)

『古事記』によれば倭建命(やまとたけるのみこと)が
  「大和は 国の真秀ろば ・・・ 」
と大和国を讃えて詠んだいう歌に象徴される如く、大和国飛鳥地方およびその周辺には古くから国の都が置かれていたと伝わっています。

時間に余裕があったら、ゆっくりと大和国飛鳥地方(明日香村)を探訪したいと考えていますが、今回は部分的に訪れたうちの「橘寺」を2023(令和5)年末に訪れた時のお話です。

「橘寺」は聖徳太子(厩戸皇子)の生誕地とも、彼が勝鬘経を講じた場所とも伝わっています。
飛鳥寺から車でほんの数分、道路沿いに位置する天台宗の寺院です。
奈良県道155号多武峰見瀬線を挟んで反対側に川原寺(弘福寺)が位置していますね。
基壇が整備されている川原寺の方が存在感を主張していました(笑)。

奈良県道155号から「橘寺」を望んでいます。
高台に位置しており、防御態勢が備わっている様に見えますね。

田圃の中野、緩やかな上り道を歩んでいきます。

寺院は古くから有力者の権威・権力の象徴として構築されたこともあり、戦時においては軍事拠点へと変貌することもありました。
田圃と段々の奥にある伽藍の高低差、軍事的な配慮を読み取ることができます。
とは言っても、時代や状況によって焼かれたり(焼けたり)攻め落とされちゃうこともあるのですがね。
諸行無常なり。

この上り道の右側に駐車場がございます、

この時の参詣は、西門から入りました。
西門正面の様子を取り忘れていましたよ。、また次回の参詣時に撮影しておきます。
参詣の手続きを済ませ、境内へと立ち入ります。

橘寺の「橘」は、三宅氏の祖/菓子の神として祀られる田道間守(たじ まもり)が垂仁天皇の命を受けて「常世国」(とこよのくに:異世界の理想郷)に派遣され、「非時香菓」(柑橘類か?)を持って帰還したという故事により、この値に橘の実を植えたことに因むのだそうです。

 

橘寺(正式名称「佛頭山上宮皇院菩提寺」)
 〒634-0142 奈良県高市郡明日香村橘532番地
 TEL 0744-54-2026

 

572(敏達天皇元)年、欽明天皇の別宮だった橘宮(現・橘寺)で、聖徳太子(厩戸皇子)は生まれたのだと伝わっています。
聖徳太子の生誕地には諸説ありますがね。
寺院としての創建時期は解っていません。

記録上で最初に「橘寺」が確認できるのは『日本書紀』680(天武天皇9)年四月条「乙卯(十一日)、橘寺尼房失火、以焚十房」であると謂います。
「尼房」(あまむろ)での失火が十房を焼く事態となった様です。

手水舎ですよ。

龍(ドラゴン)が身を乗り出しています。

水流は・・・緩やかでしたよ。

こちら、ちょいと痩せ過ぎぢゃね?と心配してしまうお馬さんの造。

聖徳太子(厩戸皇子)の愛馬「黒駒」(くろこま)といい、聖徳太子を乗せて富士山頂まで飛んだという伝説がございます。
飛鳥時代の平均身長は160㎝だったといわれており、その中で聖徳太子は180㎝あったと推測されています。
もっと太らんと聖徳太子を乗せることが辛・・・、想像の上で造られた銅像に大してねぇ・・・。

「講堂跡」だそうです。

1864(元治元)年に再建された本堂(太子堂/太子殿)を正面から撮ろうとして失念していました。

横っちょに居たのは「二面石」。
飛鳥時代の石造物なのだそうですよ。

 「右善面」
 「左悪面」
と称されております。

二面石の全体像を把握するため、

石の周りをまわりました。
何時もの如しですな。

事前に調べることなく訪れたので、「五重塔心礎」の画像も撮り忘れていました。
また参詣する理由ができました(笑)。

こちらは「観音堂」です。

 

橘寺は〝聖徳太子建立七寺〟のひとつとして発展、奈良時代には聖徳太子好みの四天王寺式伽藍配置だったそうです。
発掘調査により大化の改新の最中、天智天皇の治世で創建されたことが有力視されています。
道を挟んで反対側の川原寺(弘福寺)と対を為す尼寺として建立されたと考えられています。

明日香村は徒歩圏内で歴史的に著名な神社仏閣・遺跡が集中していますからね。
〝明日香村を楽しむ〟為の時間的余裕をもって訪れると、素晴らしい遊び場となります。
聖徳太子に関連する寺院を訪れることも、また楽しいのです。
次に明日香村を訪れる際には、もう少し色々と調べて行きますよ(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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