中世において守護の役割を果たしていた大和国興福寺に伝わり、〝白鳳の貴公子〟の異名を持つ「仏頭」がモデルとなっています。
頭部のみ伝わる破損仏でありながらも、白鳳期の仏像としての稀少さから国宝に指定されています。
2013(平成25)年2月~2014(平成26)年4月までの約1年間、短い間の販売でした。
発売予告が出た際、マニアックな選択だと思いつつも早々に購入しました。
TanaCOCORO[掌]サイズでしたが、Standardサイズでも発売されるのかと少々期待したのですが、どうも発売は無さそうですね。
意表を突くS-Classサイズでの販売があれば喜んで購入するのに・・・。
もとは奈良県桜井市に所在した山田寺の本尊・丈六薬師如来像であったと考えられています。
山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂(以下、石川麻呂)が一族のための氏寺として建立した寺院でした。
山田寺の歴史は641(舒明天皇13)年の整地工事から始まりました。
643(皇極天皇2)年には金堂の建立が始まり、648(大化4)年には金堂の完成を機にしてか僧侶の居住が始まったといいます。ところが649(大化5)年、蘇我石川麻呂が讒言によって自害に追い込まれたことにより造営事業は中断してしまいました。
663(天智天皇2)年に塔の建立が始まったといいますが中断してしまい、673(天武天皇2)年に塔の心礎が建てられたそうです。676(天武天皇5)年には塔の頂上に相輪をあげて五重塔が完成したといいます。678(天武天皇7)年には本尊としての丈六薬師如来像の鋳造が始まり、685(天武天皇14)年3/25、蘇我石川麻呂の命日に開眼供養が行われ、講堂に安置されたそうです。
蘇我石川麻呂の没後、中断等がありながらも山田寺の造営と薬師如来像の造像が実現した背景には、祖父・蘇我石川麻呂を想う鸕野讃良皇女(持統天皇)の存在があったと推測されています
『扶桑略記』第廿八(治安三年十月:1023年10月)に
十八日。(中略)・・・次御山田寺已以入夜。前常陸介維時參來。大僧都扶公、威儀師仁満等辨備飯膳。
(十八日。・・・次いで山田寺に御す、已に以て夜に入る。前常陸介維時参り来る。大僧都扶公、威儀師仁満等飯膳を弁備す。)
十九日。覧堂塔。堂中以奇偉莊嚴。言語云點。心眼不及。御馬一疋給權大僧都扶公。・・・
(十九日。堂塔を覧る。堂中奇異を以て荘厳す。言語ここに黙し、心眼及ばず。御馬一疋を権大僧都扶公に給ふ。・・・)
と山田寺に藤原道長らが訪れた記載があります。
道長らは10/17に平安京を出立し、この日は東大寺に宿泊しました。翌10/18には東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・法蓮寺を経由して山田寺に到着しました。具体的な記載はありませんが、道長らは山田寺に宿泊したと推測されています。明けて10/19に山田寺の堂塔を見学し、その堂中が道長らにより「奇偉荘厳」と高く評価されています。
『扶桑略記』の記載から藤原道長の晩年、山田寺は寺院として充分に機能していたことが想像できます。体調を崩しがちになっていた道長の眼には山田寺の本尊・丈六薬師如来像の全体像が神々しく映っていたことでしょう。
時は流れて1180(治承4)年のことです。
前年の平清盛による後白河法皇を幽閉したクーデタを機に、平氏政権に対する反感は高まりました。1180年8月に伊豆国で挙兵した源頼朝は、10月に清盛の孫・平維盛が率いる官軍(頼朝追討軍)を富士川の戦いで撃破しました。官軍の敗北は平安時代初期、789(延暦8)年の蝦夷征討以来のことで、この敗北は彼方此方の反平氏勢力の武装蜂起を誘発し全国規模の内乱に発展していったのです。清盛は11月26日に摂津国福原京から山城国平安京へ還ると、子息・平重衡を総大将として反平氏の態度・行動をとる東大寺・興福寺等の「大衆」(だいしゅ)の討伐を実行しました。平氏軍による「南都焼き討ち」です。
ほとんどの堂塔が焼失してしまった興福寺ですが、焼討直後に別当職に就任した信円(藤原忠通9男)と解脱房貞慶らが再建のために奔走し、朝廷・藤氏長者・興福寺が再建費用を分担して復興事業がスタートしました。
1185(文治元)年時点で既に興福寺東金堂の建物は竣工していたのですが、東金堂内に納める本尊が1187(文治3)年になっても造像されることがなかったそうです。
一般的に知られているのは、興福寺の僧兵(「奈良法師」たち)が近隣の飛鳥山田寺講堂の本尊・薬師三尊像を強奪し、興福寺東金堂の本尊に据えたという話です。
因果応報・悪因悪果と言えるでしょう。自業自得という表現も当てはまることでしょう。
1411(応永18)年閏10月15日、落雷によって興福寺の五重塔・東金堂・大湯屋が焼失してしまいます。東金堂が炎上する中で、旧山田寺講堂本尊の薬師如来は焼かれ、熱によって頭部が落下してしまいました。頭頂部が大破しているのはこの時の衝撃によるものと考えられています。
1415(応永22)年6月26日に興福寺東金堂が再建され、新造の薬師如来像が堂内に安置されました。この時に本尊台座の内に焼け残った薬師如来頭部が納められたそうです。山田寺から強奪された日光・月光両菩薩は新造薬師如来の脇侍として据えられ、現在に至っています。
1937(昭和12)年10月30日、東金堂解体修理中に銅造仏頭が発見され、話題となりました。
前置きが長うなりました。造型の様子を観て参りましょう。
本物の仏頭の写真は全体的に黒っぽく見えるものが知られていますが、実際は箇所によって色合いが異なっています。
イSム「仏頭」は全体的に緑青で彩色しているため、本物よりも青味がかった印象が強くなっています。
まずは顔の左側を前方から。
ゆったりと伸びやかな美しい弧を描いた眉が、左右対称の長さで表現されています。
頬から顎にかけては白鳳仏の特徴である程良い肉付きの健康的な丸顔ラインを見せています。
特に頬は罹災による熔解で表面がザラついた様子が彩色等により、本物よりもデフォルメされながら見事に表現されています。
本物の左顳顬に見られる修繕箇所は再現されていません。
次いで顔の右側を前方から。
滑らかな眉のラインがそのまま鼻筋へと綺麗に繋がっています。仏顔の典型です。
右頬にも彩色等で熔解した表面の様子が表現されています。
本物は左頬よりも右頬の熔解が顕著なのですが、その現状を踏まえてのデフォルメがなされています。
右眉尻の上部にある修繕箇所は再現されていません。
顔の中心部に焦点を当てましょう。
飛鳥仏の杏仁形とは異なり、下瞼を直線とし弓形の弧を描く上瞼で人間味溢れる目元がこの仏頭の特徴です。
切れ長な目元ではありますが、瞳には艶が控えめとなるよう透明の塗料をやんわりと施している様です。本物も写真によっては瞳の存在が確認できる・できない画像がありますが、存在を強すぎず・弱すぎずという絶妙のバランスによる瞳の表現です。
しっかりとした鼻筋。小鼻の膨らみは本物よりも少々控えめになっています。
閉じた口元は本物に準じてふっくらとした唇と、唇左側の割れ傷がしっかりと再現されています。
この角度から観ると、輪郭は本物よりもシャープにデフォルメされており〝貴公子〟っぽさが強調されているように感じます。
左側からの顔面アップ画像です。
本物と同様に眼窩の表現は線刻ではなく隆起で自然と表現されています。
判り難いのですが、眉の上や鼻筋上部に見える〝かすり傷〟も再現されています。
本物の左頬はもっと滑らかな状態ですが、このデフォルメにより〝灼熱地獄から生還した〟逞しい生命力を有した像であるメッセージを感じ取ることができます。
この様に〝造型によるイメージの伝達〟が可能なイSム様の造型・彩色技術は素晴らしいと実感致します。
右側からの顔面アップ画像です。
この画像だと瞳の表現が判りやすいですね。
右頬造型では、本物は赤錆のように見える箇所や僅かながら金の残痕が確認できる箇所がありますが、それらは再現されていませんけれども、デフォルメにより激しく燃え盛る堂内で立ち尽くしていた様子が想像できる再現になっています。
本物の右頬損傷箇所に周囲より黒くなっている部分があり、その箇所に合わせて艶有りの塗料が施されています。
正面を上から見おろす角度で見た画像です。
白毫があった痕跡もしっかりと再現されています。
この画像だと、本物でも確認できる額と鼻筋の〝かすり傷〟が判りやすいです。
鼻筋が周りよりも黒っぽい彩色がなされていますね。
頭部の割れ具合もリアルな再現となっています。
実測断面では左頬が少々腫れたかように前方に出ているのですが、そこまでの再現はなされていません。バランスを意識したシルエットが優先されています。
真横から、左右の様子を観てみましょう。
東大寺盧舎那仏の事例でも知られていますが、建物が炎上することで内部の金銅像の表面は溶けていき、特に首は熔解して頭部の重量を支えることができず、頭が落ちてしまいます。東大寺大仏は下から見上げた時のバランスを考慮して頭部を大きく造っていましたので2度の焼き討ち(焼き打ち)では何れも頭部が崩落しています。
興福寺に奪われた旧山田寺の薬師如来像も同様で、首の部分が頭部の重量を支えることができなくなり、頭部が落下した様です。
左耳上部には落下の際の入ったであろう深い衝撃痕が、また耳たぶの損傷が忠実に再現されています。
頭部落下の衝撃により、熱で弱くなっていたであろう頭頂部が大破した様も本物に忠実な状態で再現されています。
頭部左側から落下したであろうことは、右側の耳たぶが原形を留めていることから判ります。
首元の破砕状態も丁寧に再現されています。
右の耳たぶの形状と比較すると、左の耳たぶがなかなか厚みのあるにもかかわらず衝撃で折れた(破損した)ことが明らかです。この箇所も本物に準じて再現されています。
首元の破砕状態も現存のデータに基づいて丁寧に再現されています。こうした箇所も一切の妥協無しで造り上げているのがイSム様の造像に対する姿勢の現れと感服致します。
後ろの正面から観ると、左側が落下した衝撃により大きく歪んでいることがよく判ります。
裂け目の凸凹のみならず、凄いコトに〝溶けた金銅〟が溜まっている「内側」までも丁寧に再現されているのです。
こうした造型を観ていると、頭頂部の上が最初に溶け落ちて穴があき、落下の衝撃で弱まった頭頂部が裂割けた(われさけた)のだろうと推測できます。
イSム様の現物に忠実な造型は、展示では見えない角度からのアプローチを可能とし、書籍に掲載されているデータ(写真・文章)以外にも新たな発見や、次回の本物との遭遇に向けての下調べができます。恐るべし、インテリア仏像・・・。
造像当時(685年3/25以前)から〝運命の落雷〟(1411年閏10月15日)まで、完全体で立っていた薬師如来像に手を合わせた人びとの目には、この様に映っていたことでしょう。
最後に、画像を選びながら文章入力作業をしている際に〝気付いて〟しまいました。
「仏頭の頬に仏頭」が見えるのです。
場所を指定するために枠線を施しましたが、この画像ですと該当箇所がぼやけてしまいました。
なので、
もとの写真がコチラです。この仏頭の周りには、何も置いてはいませんでした。
当方は写真加工技術を持ち合わせてはおりません。
何にもまして、仏頭の頬はザラつき加工が施されているので、反射して映り込むということは現実的に無い筈です。
さて、これは怪奇現象なのでしょうか?それとも瑞祥なのでしょうか?単に気のせいかも知れません。
まぁ、何れでも構わないのですけれどね。
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