大和国唐招提寺(奈良県)

やっと夏休みに入ったにもかかわらず、緊急時代宣言&蔓延防止等重点措置が発せられたことにより〝他県を跨ぐ移動は控える〟様にと政府等から呼び掛けられています。
大和国の古い神社・寺院を訪れ、仏像等の文化財を愛でようと計画していたのですが、こうした世上もありますので、宿泊施設まで確保していたのですがキャンセルしてしまいました。
対策などは充分施しておりますが、不可抗力に遭っては元も子もありませんからね。
接点はありませんが、近い所で感染・濃厚接触という話も聞きますので、大事をとっての遠征中止と相成りました。

・・・ということで、予定していた大和遠征が中止となった変わりとして以前、訪れた場所を対象に、探訪エンターテイメントの記事をアップします。

 

数年前の訪問でしたが、大和国・唐招提寺を訪れた時のお話です。
徒歩で向かい、この後に薬師寺へ立ち寄るということで、そこそこ駆け足的な訪問でした。
観光客の流れと案内板がありましたので、初めてでしたが無事に辿り着くことができました。

有名寺院であるにもかかわらず派手さが無い、落ち着いた佇まいの山門です。

 

「南大門」の前に辿り着きました。
1960(昭和36)年、天平様式の建築技術を用いて再建された、五間で中央に三扉が備えられた切妻造の門です。中央に扁額が掲げられていますが複製だそうです。扁額の写真を撮ることを失念していました。残念。

 

門の左側が拝観受付となっています。
木の生命を守ることを重視しているところからも、もともと在った道を舗装した感が強いですね。こうしたところは維持していただきたいものです。

 

1998(平成10)年、「古都奈良の文化財」として東大寺・興福寺・春日大社・春日大社原始林・元興寺・薬師寺・平城宮跡に加えて唐招提寺の8つの文化財群が世界文化遺産に登録されました。

 

さあ、金堂に向かって参道を歩み進めます。
夕方でしたが、人気観光スポットですから観光客はまぁまぁ居ましたね。

 

唐招提寺は、平城京・右京五条二坊に位置しており、藤原不比等没後に朝廷の軍事統括を担った新田部親王(にいたべしんのう)の旧宅を鑑真が賜って改築したことに始まったといいます。

ちょっとした瞬間に、観光客の姿が見えなくなりましたので金堂の全体像を撮影できました。

 

唐招提寺の金堂は、寄棟造(よせむねづくり)の技法で建てられた、唐招提寺創建時の姿を今に伝える建造物で、天平期に建てられた寺院金堂として唯一の遺構です(国宝)。
鑑真と共に来日した如宝(にょほう)により、9世紀初頭までには金堂の建立が成っていたと考えられています。
 平安時代後期:軒まわりの修理
 鎌 倉 時 代 :石造須弥壇の築造
 元 亨 年 間 :屋根瓦の葺き替え
 元 禄 年 間 :解体修理
 明治31~32年:解体修理
と、何度も修理が施されていますが、文化史的には貴重な奈良時代の建築物の象徴です。

 

正面間口は七間で、中央間が約4,7m、両端に向かうにと3.3mと狭くなっているそうです。
地震に強いと謂われている、中央に膨らみを持つエンタシスの柱といいますが、それほど顕著とは見えません。ただ、数世代にわたる幾多の参拝客が〝手を当てた〟ことにより、その部分は擦れて木の地肌が見えています。

 

奥行きは四間、うち前面一間通りは画像の様に「吹き放ち」となっています。

 

屋根の組物が規則正しく組み合わさっています。
鳥の巣対策でしっかりと金網が施されていますね。鳥巣は文化財を傷める原因ですから然るべき対応です。

 

金堂の裏には「講堂」が建っています。向かってみます。

 

唐招提寺の講堂は、入母屋造(いりもやづくり)の技法で建てられています。
この講堂は平城宮の改修に伴い760(天平宝字4)年頃、東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)をこちらに移築し、さらに改造を施したものになっています。
朝集殿であった時は切妻造(きりつまづくり)であったのですが、移築された時に入母屋造に改造、建具も入れられたと考えられています。現在の建物の姿は、鎌倉時代(1275・建治元年)の際の改修によるものと考えられています。

 

金堂の裏側に立って撮影したのですが、両端が途切れてしまいました。
次回の訪問では全体像が写るように工夫しようと思っています。

平城宮の朝集殿は朝堂の南側に位置しており、朝参の官人たちが朝堂南門が開くまで、身支度などをする控室として機能していました。壁や建具はほとんど無く、風通しも良い開放的な構造となっていたといいます。

だいぶ後世の手が加わっているとはいえ、失われてしまった平城宮の建物として現存する唯一の遺構としては極めて貴重な建造物となっています(国宝)。

 

講堂の横(西側)の通路から後ろ側にまわり、「開山堂」に向かいました。

築地塀に載せられた「瓦」。
見過ごしてしまいそうでしたが、至近距離で確認できたので注目してみました。

 

軒丸瓦には「唐律招提寺」の文字が。
現在は「唐招提寺」と呼ばれていますが、当初の寺名は「唐律招提」(とうりつしょうだい)といったそうです。
「招提」の語は、故・安藤更生(こうせい;本名は正輝)氏によると中国において官寺ではない寺院(私的な寺院)のことを指すのだといいます。
そして「唐律招提」は〝唐の律を学ぶ道場〟という意味なのだといいます。

 

肉眼で幾つかの軒丸瓦を見ると、先にあげた画像とは趣の異なる字体の瓦もありました。
同じ「唐律招提寺」の文字を持つ瓦でも、こちらの方が古そうです。
破損してしまったものであれば致し方在りませんが、この様に健在であれば古い瓦も新しい瓦とともに屋根の上で現役続行していただきたいものです。

 

軒丸瓦の間に位置する平瓦には・・・んっ?「(唐)招提律寺」の文字が。
偶々1枚しか画像を撮っていなかったのですが、次回の訪問時には留意して複数枚の画像を撮っておこうと考えました。

 

「開山堂」の案内板に従って進みます。

 

 

講堂の横に出てきました。
正面に見えるのが「開山堂」です。

 

手前の柵のところから建物の中を覗き見ると・・・鑑真和上が居るっ!
とはいっても本物ではございません。
本物の国宝・鑑真和上像は御影堂に移されており、老朽化した御堂の改修工事がなされて2013(平成25)年に「御身代わり像」が製作されてここに納められているのだといいます。

 

この後、御影堂に向かいました。

途中に並んでいたコーン。
「唐招提寺」の文字が、特別に見えてしまいます。ココでしか見ることができませんからね。

 

御影堂は工事中でした。

「平成」は既に終わってしまいましたが、「二〇二二年」ということですので、来年には大修理の竣工となります。修理が済んで公開されたら、復た行きます。

 

ぐるっとまわり、この築地塀で囲われているところに到着しました。

 

緩やかな階段をあがり、

この先の門がある所に向かって行きます。
人が居て門の全体像を撮影できなかったのですが、そこはまた次回の課題ということで。
この門を潜ることはできませんが、築地塀に囲まれた中にあるものは・・・

 

唐招提寺の「戒壇」です。

そもそも鑑真の来日は、日本に〝戒律を授ける僧〟が居なかったことに起因しています。
遣唐使船で唐に渡った栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が10年に及ぶ在唐生活で漸く揚州・大明寺に居た鑑真の存在を知り〝戒律を授ける導師として〟の来日を要請しました。鑑真はこの要請に応じ、日本への渡航に挑みます。ご存知の様に鑑真は5度の渡航失敗の中で視力を失い、また栄叡は749(天平21・天平感宝元・天平勝宝元)年に中国で病死してしまいました。鑑真とその弟子たち、そして普照は753(天平勝宝5)年、遂に多褹国(たねこく:現・屋久島)に漂着、その後は薩摩国秋目に漂着、次いで大宰府に到着します。鑑真等が平城京に辿り着いたのは754(天平勝宝6)年のことでした。聖武太上天皇や孝謙天皇の歓待を受け、東大寺に住することになった鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を設置し、聖武太上天皇らに戒律(菩薩戒)を授けました。
鑑真は759(天平宝字3)年、新田部親王旧宅跡を授かり、ここを唐招提寺として戒壇も設置しました。
先ほどの画像は、759年に鑑真が設置した戒壇なのでございます。
鑑真和上が有した「戒律」に対する不屈の信念によって造られた戒壇なのです。
戒律を授かろう・守ろうという気はありませんが、感動で言葉を発することができませんでした。

 

鑑真和上は763(天平宝字7)年に唐招提寺で没しました(「遷化」と表現されます)。享年76歳でした。唐招提寺には鑑真廟がありますが、この時は時間の制限があったため、そこまで向かうことができませんでした。「また唐招提寺に行く」理由ができたので、これは善しとしています。

 

戒壇から、また講堂の横に戻ってきました。

創建時の唐招提寺において、鑑真の在世中に最も早く竣工したのは講堂だといいます。
講堂の本尊は、鎌倉時代作の重要文化財・弥勒如来坐像です。
他に、奈良時代作の重要文化財・持国天立像、同じく増長天立像などが居ます。

 

今度は金堂の横に来ました。

講堂も同様ですが、金堂の建物はこのくらいの高さを持つ石造の基壇の上に立てられています。

 

「吹き放ち」の手前の軒先に立ってみました。
柱の膨らみを見せている部分というよりも、観光客の背丈から手が伸ばせる範囲で柱の表面が〝削られている〟のが判ります。
触りたくなる気持ちも理解できますが、あまり強く〝スリスリ〟すると何百年後には細くなり過ぎて金堂が倒れてしまいますからね。自重しましょう。

 

近くで見ると、なかなか大きめな編み目の金網が張られています。
鳥巣よりも、文化財の維持・保護が大切ですからね。

 

機械ではなく職人の手によって整えられた柱です。
金堂創建の時期については研究者内でも諸説があったということですが、構成部材の年輪年代測定を行ったところ、781(宝亀12/天応元)年に伐採された木材が使用されていることが判明しました。ということで鑑真没(763)年よりも後の建立であったことが確実視されています。

この柱は下部を接木の要領で入替補修をしていますね。

 

縦に入っている罅割れは致し方無しと雖も、所々の傷んだ箇所は木材のはめ込みなどで補修が成されています。
こうした目立たないところにも、たくさんの人たちの手が加えられてきたという「歴史」を感じることができます。地味ですが、これも「歴史」なのです。

 

「竹中工務店」様HPの「平成の大修理 唐招提寺金堂」
(https://www.takenaka.co.jp/solution/purpose/traditional/service18/index.html)
に「構造調査・実験」「構造解析」「構造補強」の資料が公表されています。ご興味をお持ちの方はご参照ください。

 

 

 

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