予想していなかった休ヶ岡八幡宮に参拝し、いよいよ「白鳳伽藍」を擁する薬師寺に足を踏み入れたお話をしましょう。
薬師寺の始まりは、680(天武天皇9)年11月に病を発した鸕野讃良皇后(うののさららこうごう:後の持統天皇)のため、天武天皇が病気平癒を祈願して発願したことによります。皇后の病は間もなく快復した様ですが、藤原京に薬師寺造営はそのまま進められたといいます。現在の奈良県橿原市城殿町(きどのちょう)に位置する本薬師寺(もとやくしじ)が、最初の薬師寺でした。
1165(永万元)年書写『七大寺年表』に「薬師寺を造る」と記されていることは、薬師寺が藤原京造営と一体化した事業であったと考えられています。発掘によって、藤原京の地割(じわり)完成よりも以前から造営が始まっていたことが判っています。
686(天武天皇15)年9月に天武天皇が病没したことをうけ、鸕野讃良皇后が薬師寺造営を継承しました。
『日本書紀』によれば、688年1月には薬師寺で天武天皇の無遮大会(むしゃだいえ)が執り行われ(「設無遮大會於藥師寺」)、寺院として機能していたことが推測されます。
697(持統天皇11)年6月、公卿たちが持統天皇の病気平癒を願って仏像造立を発願し(「公卿百寮、始造爲天皇病所願佛像」)、8月に持統天皇は珂瑠皇子(かるのおうじ:文武天皇)に譲位しています(「天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子」)。
698(文武天皇2)年10月には薬師寺の造営はほぼ終わり、僧たちに詔が下され寺に住まわせたといいます(「以藥師寺構作略了。詔衆僧令住其寺。」)。
702(大宝2)年12月に持統太上天皇は没し、薬師寺をはじめ大安寺・元興寺・弘福寺において供養法会がおこなわれました(「設齋於四大寺」)。
本薬師寺の寺域は、藤原京の右京八条三坊の全域を占めていました。
本薬師寺跡は特別史跡に指定され、医王院(白鳳山醫王院)の境内に15個の礎石が並んでいるのが金堂跡、その南に位置する水田中に東西に並んだ2つの土壇が東西塔跡となっています。
710(和銅3)年に平城京遷都がなされたことで、飛鳥地方や藤原京にあった寺院が新都に移転することになりました。
『薬師寺縁起』によれば薬師寺は718(養老2)年に平城京へ伽藍を移したといいます。本薬師寺は、そのまま寺院として機能していた様で、考古学的発掘成果によって平安時代の10世紀頃までは修理を施しながらも伽藍は存続していたことが推測されています。
こちら薬師寺の正門にあたる南門で、重要文化財に指定されております。
1512(永正9)年に建立されたといいます。もとは薬師寺西院の門でしたが、後に現在のこの場所(南大門跡地)に移築されたそうです。
ちらっと東塔(とうとう)・西塔(さいとう)が見えていますな。
法相宗大本山 薬師寺
〒630-8563
奈良県奈良市西ノ京町457
℡0742-33-6001
1998(平成10)年、「古都奈良の文化財」ということで東大寺・興福寺・春日大社・春日山原始林・元興寺・薬師寺・唐招提寺・平城宮跡が世界文化遺産に登録されました。
離れて撮影したため、世界遺産の碑がわかりにくくなってしまいました。
南門越しに中門、そしてその先に金堂の柱がチラリと見えています。
2019(令和元)年にも訪れたのですが、東塔が解体修理中ということで、また遅い時間の参詣でしたので、思う存分楽しむことができませんでした。
でも今回は大丈夫。工事も完了していましたし、薬師寺のあとにも予定を入れていましたが、2時間超ほどかけて「白鳳伽藍」を満喫しましたよ。
このまま境内へと突入・・・をしませんよ。だって南門の向かって右側を見ると
築地塀がこんなんなってましたもの。
何時の時代に造られた築地塀かは判りませんが、これも薬師寺の一部ですからね。
美しく綺麗に整備された「白鳳伽藍」を楽しみに訪れていますが、こうしたヒビ割れや瓦の割れ・崩れもまた風流よのぉ、と楽しみました。
激しく瓦が崩れているところを正面から見てみました。
・・・んっ?
おぉっ、薬師寺東塔の姿が見えるっ。
ちょいと横に移動してみました。
東塔は見えますが、生えている木々によって遮られていますな。
とすれば、穿った物の見方になってしまいますが、東塔の姿を見るために不届き者(何時の時代かは特定できませんが)によって築地塀が壊されたのではないかと思ってしまいました。
〝修復して綺麗にしてしまえ〟とは思いませんが、この築地塀がこれ以上損なわれないように維持してもらいたいと思います。
5枚しか画像を掲載していませんが、傷んだ築地塀はもっと撮影しています。
しっかり観察しながら築地塀を愛でること20分程。境内に入る前ですら、こんな感じです。入ったら、どうなってしまうのだろう・・・。
中門に向かっていきます。
手前が出口となっていますが、中門の向こう側が入口になっています。
南門をくぐることはできません。その横っちょに設けられた、この入口を通って境内へと進んでいきます。
左手側の受付で拝観料を納めて、
手水舎へ。大っきい割りに水はチョロチョロ。
垂れている水はチョロチョロに見えるのに、下を見るとボトボトと流れ落ちています。
中門の正面から、金堂の姿を見てニヤけてしましましたよ。
当初の「中門」は、室町末期・戦国時代の1528(享禄元)年に焼失してしまいました。この薬師寺伽藍の大部分を灰燼に帰させた戦闘は細川京兆家の内紛、将軍・足利義晴を擁立する細川高国(京兆家15代)方と足利義維を擁立する細川晴元(京兆家17代)方の抗争の一環でした。晴元方の柳本賢治(やなぎもとかたはる)が大和国に進撃し、高国方の畠山稙長に味方していた大和国の国人・筒井順興(つついじゅんこう)と衝突したのだといいます。よく〝筒井順興による兵火で〟伽藍が焼失したと言われていますが、この時薬師寺に布陣した(もしくは攻撃した)のが筒井順興なのか、柳本賢治なのかは記録が存在しないので断言はできません。高層建築(2階建の金堂、東西2塔)が回廊・築地塀で囲われていましたが、塔の内部は大勢の兵士が籠もることができるような広さがありません。高欄に出たり大屋根からの弓射は可能ですが、それほど大勢が配備できるかというと疑問です。金堂は2度の東大寺大仏殿(金堂)の焼き討ち事例がありますので、攻め手側が境内に乱入し、守り手が逃げ込んだ金堂に火が放たれた可能性があります(この時の金堂は2階建であったかどうかは不明ですが)。立地的に薬師寺自体が要塞として使われ、そして戦禍を被ってしまったのでしょう。
発掘調査の結果を踏まえ、現在の中門は1984(昭和59)年に再建されたものです。
ちょっと引いて右手を見ると、東塔の相輪と回廊が。
中門の右手側には・・・
〝口を開いている〟彼が居ました。
カメラのピントが網に合うという、痛恨のミス。
同じくちょっと引いて左手を見ると、西塔の相輪と回廊が。
中門の左手側には・・・
〝口を閉じている〟彼が居ました。
今度は、陽射しによって影が生じ、彼の顔が見えなくなるという、2度目の痛恨のミス。
彼らは「二王天像」ということで、1991(平成3)年に復興されたのだそうです。
中国・西安の大雁塔(だいがんとう)の仁王像、大和国法隆寺の橘夫人厨子の扉絵などが参考になったのだといいます。もとになった画を探してみたのですが残念、見つかりませんでした。
筒井・柳本の戦闘で中門と共に焼失してしまった二天王像ですが、発掘調査の結果、裸形仁王像ではなく、甲冑を装備した二天王像であることが判明したそうです。
中門向かって右側の阿形は、三鈷杵を持っているので「増長天」でしょうか。
中門向かって左側の吽形は、剣もしくは刀を持っているので「持国天」でしょうか。
中門から左手側に歩みを進めていきました。
西の回廊越しですが、西塔の姿が見えますよ。
西回廊に阻まれていますが、西塔に近付いてみました。
塔の上部だけがはっきりと見えていますが、それだけでも華麗さが伝わってきます。
中門から繋がっている西回廊の角っこに向かっていきます。
角っこのところから、中門の方向を見ている画像です。
朱色の柱、白壁、緑青の連子窓・・・まさに小野老(おののおゆ)が謳った「あをによし 寧楽の京師は」(『万葉集』3-328)を彷彿させる情景です。
角っこのところから金堂の横に向かっていく西回廊の様子です。
こうしたところには、まず観光客は居ませんのでね。
丁寧に再建されているのですから、白鳳時代に思いを馳せながら回廊を真っ直ぐ進んでいきます。
ほとんどの観光客は、回廊の内側に興味を示していますが、回廊の外側もしっかりと丁寧に美しく造られています。
寸法を測って見事に組み合わさっている部材たちが、白鳳期の雰囲気を感じさせてくれています。
白鳳の風を感じながら歩みを進めていくと、現時点での西回廊の端っこに到着しました。
境内側から光が溢れてきています。さぞや神々しき境内であろうと期待感が高まります。
防火設備が控え目ながらも配備されています。木造中心の寺院建築には万が一のために絶対必要ですからね。〝千年先の未来まで伝えるべき人類の遺産〟として護ってもらわねばなりません。
左手前の門は、開かない様になっています。
実際には開く構造になっている門でしょうが、いいんです、開かなくてもっ。
駐車場から休ヶ岡八幡宮、そして南門に繋がる築地塀で遊んでいた時は曇っていたのですが、こうして境内に入ると天照大神(あまてらすおおかみ)が薬師寺参詣を喜んでくれているのです。
この扉の左側で白壁の突き当たりになっており、回廊はここでおしまいです。
でも、ここを回り込むと反対側は、
こんな感じです。この様に門が開かぬ様に閂(かんぬき)が掛けられています。
この門を内側から見ている状態から、左手側に視線を移動させると・・・
・・・西回廊の内側です。
判ります?連子窓で仕切られている白壁を真ん中に、外側・内側に回廊が備えられている「複廊」(ふくろう)なのです。
因みに藤原京の薬師寺(本薬師寺)は単廊(たんろう)の構造だったとされており、現在の薬師寺(平城京の薬師寺)は発掘調査の結果、複廊だったことが判ったため、この構造が再現されたのだといいます。
うぉっ、チラッと西塔が見えているっ。
雨だれが流れる様に溝が施されています。
屋根の外側に出て、西回廊の内側を撮りました。天照大神の恵みが強く差し込んできます。
西塔が光り輝いている感じ。
天照大神のおかげで逆光になってしまった西塔+西回廊。
温かくなってきました。
西回廊の終点から境内に入って、西塔の全体像を見ています。
画像では逆光で見え辛いのですが、肉眼では鮮やかな西塔の姿がはっきりと見え、充分楽しんでいます。
「白鳳伽藍」を構成する、西塔の麗しき姿です。
金堂再建が成った後の1981(昭和56)年、完成しました。1528年に焼失してから453年ぶりに薬師寺に東西2塔が揃ったのです。
創建当初の姿を保っている東塔は修理された時に裳階(もこし)部分が白壁とされてしまいましたが、再建された西塔は本来の姿である連子窓としています。
金堂の横っちょから、西塔の正面に向かって行きます。
西塔の正面に立ちましたよ。
松の木が斜めに入ってくるのも一興ですな。
西塔に近付いていきます。
連子窓は回廊と同じく緑青で、扉・柱は朱色に塗られています。
やはり、ここでも小野老の政治的な立場や心情はさて置いて〝平城京の彩り〟を感じてしまいます。
東塔では失われてしまった風鐸(ふうたく)も配されています。
西塔の初層内部には、涅槃(ねはん)にいたった釈迦の後半生が表現されているそうです。
テンションが上がっているので、初層内部を覗くことをしませんでした。
ズンズン、西塔に接近していきます。
各部材の色合いが、鮮やかに目に入ってきます。
「白鳳伽藍」の復興に携わった宮大工の故・西岡常一(にしおかつねかず)氏は、西塔の再現にあたり鉄の使用は極力避けつつ、用材の乾燥収縮を想定して西塔再建時の東塔よりも約30㎝高く再建されたといいます。これは約500年経った頃、木材の撓み(たわみ)や基盤沈下によって西塔は東塔と同じ高さになるという計算によるのだそうです。
因みに〝鉄の使用は極力避けつつ〟といいましたが、鍛冶職人の白鷹幸伯(しらたかゆきのり)氏は西岡氏の依頼に対し、大手鉄鋼メーカーNKK(現JFEスチール)様が採算度外視で古代鉄に近い高純度鉄(SLCM材)を製造されたものの提供をうけ、薬師寺西塔用に「白鳳和釘」6990本を鍛造されたのだそうです。
薬師寺「白鳳伽藍」に関するDVDを視聴していると「薬師寺にとって失われた伽藍の復興は長年の悲願」ということがとても強調されています。
山崎佑次氏監督『鬼に訊け -宮大工 西岡常一の遺言-』(販売マクザム 2012年)の〝西塔復元〟に関する故・西岡常一氏のインタビュー・述懐がとても興味深い内容でした。
まず、西塔復元は薬師寺から頼まれた訳ではないそうです。薬師寺としては「金堂だけでたくさん」だったそうで、高田好胤管主(当時)も「西塔は次の世代に」というお考えだったそうです。当時の執事長さんが「少し金が余るから」と西岡氏と材木を購入したところ、管長(西岡氏曰く:高田好胤管主のこと)が「どないしはるねん」と言ってきたのに対し、西岡氏は「こんなえらい伽藍抱えてからに、法隆寺では檜の材木は保存してあって、いざ地震いざ火事があった時、直ぐに修繕できるように蓄えている。」と答えたそうです。すると高田管長は「そういうもんでっか。長い間えらい伽藍に仕えられて(法隆寺の宮大工)、よく知ってはりますな。どうぞ、よろしく頼んます。」と言われたそう。
この述懐に続けて西岡氏は悪戯っぽく「それ、だまされた。」と微笑みながら(西塔復元に)安心したことを語っています。Wikipediaに掲載されているエピソードと読み合わせると西岡・高田両氏の微笑ましい良好な関係をうかがい知ることができます。
こうして映像で西岡氏の仕事・しゃべり・考え方に触れながら、西岡氏の人間性に惹かれてしまいますな。
西塔はコンクリート材を排し、〝千年の命ある建物〟として竣工しました。
次は、いよいよ金堂に迫っていきます。
かつては「竜宮の様」といわれた復元「白鳳伽藍」の中心、正面から見た金堂の全体像です。『薬師寺縁起』には2階建てであったことが記されています。
国宝の本尊・薬師如来坐像、その脇侍として同じく国宝に指定された日光菩薩像・月光菩薩像(登録名称:銅造薬師如来及両脇侍像 3軀)が鎮座しています。
この3軀ですが、『日本書紀』によれば
・688(持統天皇2)年 無遮大会の実施→これまでに完成
・697(持統天皇11)年 仏像造立の発願→これを機に造立
とあり、この解釈に決着はついていません。
先にも触れました通り、1528(享禄元)年の筒井・柳本の戦闘によって東塔・東院堂以外は焼亡してしまいました。それでも不幸中の幸いで、日光・月光菩薩が中央に倒れ掛かっていたものの薬師三尊像はその姿を保っていたといいます。
1600(慶長5)年、豊臣政権・五奉行のひとりで当時の大和国郡山城主であった増田長盛(ましたながもり)が指揮して金堂の再建がなされました。しかしながら増田は同年9月に発生した美濃国関ヶ原の戦いで西軍に属し敗北してしまい、改易(かいえき:大名身分の剥奪)に処されました。豊臣家は畿内を中心に寺院復興事業に取り組んでいましたので、増田が薬師寺金堂再建事業から外れても、誰かしら代理の者が当たったことでしょう。再建された入母屋造の金堂が「仮堂」と呼ばれていたのはここら辺の政治情勢が理由なのかもしれませんな。
この「仮堂」も老朽破損が進み、屋根にも穴が空いていて堂内に納められていた薬師三尊像も雨漏りにさらされ、法会も傘をさしながら行われたといいます。
「薬師寺にとって失われた伽藍の復興は長年の悲願」ということで、1968(昭和43)年に高田好胤管主(当時)が写経勧進を始め「白鳳伽藍」復興事業が始まりました。般若心経・写経一巻の納経料千円(当時)を納めてもらい百万巻の写経勧進による金堂復興を目指したのです。
薬師寺の「白鳳伽藍」復興事業については、
・『鬼に訊け -宮大工 西岡常一の遺言-』(販売マクザム 2012年)
・『プロジェクトX 挑戦者たち 幻の金堂 ゼロからの挑戦 ~薬師寺・鬼の名工と若武者たち~』(NHKエンタープライズ 2015年)
の2作品を視聴されると参考になります。宮大工の故・西岡常一氏は1995(平成7)年4月11日に癌で亡くなられたそうです。
それでも映像に遺っている西岡氏のお話をうかがっていると日本の歴史・伝統的建造物に対する敬意・愛情がとても伝わってきて、尊敬の念と共に親近の念まで生まれてきました。年齢はかなり離れていますし接点は無くとも、チョコッとだけですが同じ時代を過ごすことができたのは嬉しい限りです。
再建された金堂の正面にたつ灯籠。
その竿(足の部分)には「發菩提心 莊嚴國土」(ほつぼだいしん しょうごんこくど)の文字が陽刻されています。
こちらは、高田好胤(たかだこういん)・元管主が経文中から選び組み合わせて信条とされた言葉で、高田・元管主ご自身の揮毫(きごう)だそうです。
「發菩提心」とは〝ひとりひとりが清らかな心に目覚めて生きるならば〟
「莊嚴國土」とは〝国全体が美しく安穏となる〟
という意味(直訳:菩提心を発すれば国は気高くなる)だといいます。
高田好胤・元管主は1998(平成10)年6月22日に亡くなられたそうです。薬師寺公式HPなどでは高僧への尊称「和上」号で呼ばれています。
「薬師寺の坊さんは話が面白い」と言われていますが、世代的に高田好胤・元管主の「青空法話」をいただくことができませなんだ。とても残念なことでござる。
しかしながら、先に紹介したDVD2作品に高田・元管主のお姿・お話が部分的に収録されています。薬師寺関連DVDを視聴してから、この「發菩提心 莊嚴國土」という言葉に触れると心が洗われていく気がします。
記録によれば薬師寺金堂は2階建で、東塔にみえる様な裳階が備え付けられていたといいます。989(永祚元)年、近畿地方を襲った「永祚の風」と称された猛烈な台風により金堂の上層部分が吹き落とされたそうです。1201(建仁元)~1241(仁治2)年のあたりに金堂や東塔の修造がなされましたが、1361(正平16)年に発生した正平地震(康安地震)によって金堂の上層が傾いたといいます。鎌倉時代の修造で金堂の2階は復元されていた様ですが、1445(文安2)年の大風で金堂は倒壊してしまいました。間もなく仮金堂が上棟したらしいです。1494(明応3)年の地震ではどの建造物がどのようにかは不明ですが破損したといいます。そして遂に1528(享禄元)年の柳本・筒井の戦闘で金堂・西塔他が焼失してしまいました。柳本・筒井のどちらが攻め手・守り手かは不明ですけれどね。柳本賢治の居城は山城国亀岡の神尾山城(かんのおさんじょう)で、薬師寺に向かうと山城国から南下することになります。これに対し筒井順興の筒井城は薬師寺のほぼ真南に位置しているので、薬師寺に向かって北上したことになります。柳本軍・筒井軍が薬師寺で衝突するとなると、両軍の進路から薬師寺の西塔側が戦場になった可能性が高い様です。東塔・東院堂の東側には沼があり、薬師寺に向かう柳本軍と筒井軍の進路を勘案すれば東塔・東院堂側での衝突の可能性は低いと推測できます。1528年に薬師寺が戦場にはなったものの東塔・東院堂が戦禍に巻き込まれなかったのは地理的・位置的な理由によるのではないでしょうかね。
金堂の前に立って画像を撮ったら、偶然ですが本尊・薬師如来像、チラ見えですが脇侍の日光菩薩・月光菩薩の姿が見えました。
欲張って、もっと近くに寄ってシャッターを切ると・・・
薬師三尊像は闇に隠れてしまいました。いけずな仏さんたちですこと。
2019(令和元)年にも薬師寺を参詣していたのですが、いろいろと立ち寄って16:00過ぎに境内へと駆け込んだのでした。受付を済ませ、解体修理中の覆いを見ながら撮影し、さぁ金堂へ入ろうとしたら、目の前で扉が閉められてしまったのです。
今回(2021年末)は充分に時間がありましたので、金堂内に入って薬師三尊像と向き合うことができました。
本尊・薬師如来坐像の前に立つと、薬師如来から〝パワーがもらえる〟ポイントがあると何かで見たことがあったので、薬師如来坐像の前でちょっと動きながらポイント調整をしてみました。すると急に身体が温かくなったのです。一瞬驚くのですが、後頭部・背中が温かいので振り返って見ると、強い陽射しがさしてきたのでした。パワースポットでパワーをもらうのは難しいです。
金堂の内陣に入る前に、開かれた扉の様子を撮りました。
1976年(昭和51年)の落慶から45年が経過した金堂は、どっから見ても感動でした。
また近いうちに薬師寺を参詣し、隅から隅まで堪能し、いっぱい写真を撮りたいと思いました。
金堂の背面を見ている画像です。
故・西岡常一氏は2年かけて東塔の精密な実測調査をおこない、屋根の形・勾配・長さのデータを得、白鳳建築の様式・構造・木割り・修理痕などを復興の資料とし、金堂の高さは三重塔の屋根に合わせて決定されたそうです。また、樹齢千年以上の檜は日本国内で確保することができなかったので、台湾の山に4回立ち入って用材を選んだそうです。台湾では1992(平成4)年に原生林の伐採禁止令が出されてしまったため、薬師寺は既に伐採された木材を購入したのだそうです。西岡氏は金堂を檜によって〝千年の命ある建物〟にしようと考えたのですが、故・竹島卓一(たけしまたくいち)氏の「台風・地震・火災から文化財保護の観点から鉄筋コンクリート補強が望ましい」という主張と、内陣を鉄筋コンクリート造とし防火シャッターをつけなければ再建の許可をしないという行政側の意向によって、内陣に耐震耐火コンクリート製コアが造られました。復元金堂は、100年しかもたないコンクリートを、千年もつ木造で包んだ構造になったのです。見た感じではそうした事情は判りませんがね。
後方正面から見た金堂の姿です。
開いている扉の奥には、本尊・薬師如来坐像台座の模様を見ることができるようになっています。
前方から見ても、後方からみても、創建時の薬師寺金堂を彷彿させる美しき姿でした。とは言っても白鳳期の薬師寺を見たことはありませんけれどね。
薬師寺参詣の記事は、ここまでを前編としていったん区切ります。後編は解体修理を終えた東塔のお話から始まります。
(つづく)
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