大和国圓成寺(奈良県)

2021(令和3)年末の駆足初詣において訪問する場所として、薬師寺と唐招提寺は半日以上をかけることとし、他に何処を訪れようかと思案しました。奈良駅前に宿をとったのですが、奈良国立博物館は年末休館でしたし、東大寺・興福寺は交通の便が良く何時でも参詣可能ということで、せっかく車で大和国まで出向いたことから「圓成寺」参詣を決定しました。運慶のメジャー・デビュー作「大日如来坐像」も居るということで。

地図で場所を確認したところポツンと山中に位置していたため、まず圓成寺(赤枠内)に行き、その後に岩船寺・浄瑠璃寺(共に黄枠内)をハシゴしようというプランを立てました。あと人気(ひとけ)の無いことも期待してです。

                                       (Googleマップより作成)

カーナビに「円成寺」を入力し、案内されるがままに進んで行きました。

国道369号線(柳生街道)沿いにありますが道路から見ると木々に覆われていて、スピードを出していると見過ごしてしまいそうな場所です。469号線沿い随一の古刹(こさつ)なのだそうです。
この様に「円成寺拝観者用」と「お食事処 里」様用の駐車場案内表示が立っています。手前側が駐車場で、そこから撮った画像です。道路沿いの駐車場ですが、舗装されている訳でも無く、線が引かれている訳でもありません。そういった駐車場であることを踏まえて向かわれるのがよろしいでしょう。

 

車を停め、道路を渡って圓成寺の入口に向かいます。
・・・判りづらいですなぁ。助手席の方が様子を注意していないと、通り過ぎてしまいます。観光地にあるビシッとした駐車場がある訳でもなく、先ほどの小さき案内板があるだけですから。

 

道路を渡って、碑が立っている入口の様子です。
碑の正面には「忍辱山 圓成寺」(にんにくせん えんじょうじ)の文字が、向かって左側面には何を意味しているのか判りませんが梵字が、裏面には「平成十一年八月」(1999年)に建てられた旨が刻まれています。意外と若い碑ですな。

大和国奈良の東郊は古くから修験者(しゅげんじゃ)たちの修行の場として認識され、平安時代初期~中期にかけて「北大和五山」(きたやまとござん)と総称される山寺が創建されたといいます。
 忍辱山 圓成寺(にんにくせん えんじょうじ)
 菩提山 正暦寺(ぼだいせん  しょうりゃくじ)
 鹿野園 梵福寺(ろくやおん  ぼんぷくじ)
 誓多林 万福寺(せたりん   まんぷくじ)
 大慈山 薬師寺(だいじせん  やくしじ)
いずれも釈迦の苦行修練の物語に由来するインド仏教聖地に見立てた名称だといいます。
5山のうち、忍辱山圓成寺と菩提山正暦寺のみが現存、廃絶した3寺は地名として残っているそうです。

圓成寺の山号にある「忍辱」(にんにく)とは、勿論仏教用語ですよ。
「六波羅蜜」(ろくはらみつ)と総称される、大乗仏教の求道者(ぐどうしゃ)が悟りの彼岸(ひがん)に到達するために実践すべき6種の完全なる徳目・菩薩行のひとつだそうです。
 ① 布施波羅蜜(ふせはらみつ)   …恵み・施し
 ② 持戒波羅蜜(じかいはらみつ)  …戒律を守る、自己反省
 ③ 忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ) …如何なる苦悩をも耐え忍ぶ
 ④ 精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)…努力の実践
 ⑤ 禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)…心身統一
 ⑥ 般若波羅蜜(はんにゃはらみつ) …真実の開現、命そのものの把握
・・・いやいや、仏門の求道者ではありませんのでね。言葉の意味を調べただけです。

江戸時代(1669・寛文9年4月、澄然による)成立の『和州忍辱山円成寺縁起』によれば、圓成寺は756(天平勝宝8)年に聖武太上天皇・孝謙天皇の勅願をうけ、鑑真の弟子虚瀧(ころう)によって開創されたといいます・・・が、歴史的にはこの説を容れることは困難です。圓成寺の寺号は、益信(えきしん)が延喜年間(901~923)に圓成寺に滞在したことに始まるとされています。
しかし後冷泉天皇の1026(万寿3)年、命禅(みょうぜん)が十一面観音菩薩立像を祀ったことに始まるというのが歴史事実と考えられています。この十一面観音立像は檜の一木造で、圓成寺において最古の仏像かつ最初の本尊だったといいます。
歴史的に、翌1027(万寿4)年には藤原道長が病没しており、さらにその翌年(1028・長元元年)には坂東において平忠常(たいらのただつね)が朝廷に反乱を起こしています。
1112(天永3)年には迎接(こうしょう)が阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来坐像を安置し、1153(仁平3)年には寛遍(かんぺん)が真言密教の一派として忍辱山流を始めたといいます。

 

階段を下りていくと、池が見えてきました。
「どんなん、なってるんだろう」とワクワク感が高まってきます。

 

真ん中の木を避(よ)けて右側に進みました。池に中島がある。これはもしかして浄土式庭園かっ?

そして左手側の視界が開けた先には・・

大和国圓成寺
〒630-1244
 奈良市忍辱山町1273
 ℡:0742-93-0353
 fax:0742-93-0357

真言宗御室派(おむろは)の寺院ですよ。
圓成寺の建物が。しかも綺麗に池の面に反射しています。いやぁ、感動ですなぁ。
天照大神の恵みの当たり方も、イイ感じ。

寺の景観は寛遍(かんぺん)によって整備されたと考えられており、この池庭も彼の時代に造られたと推定されているそうです。

方向転換して、左手側の通路に沿って、圓成寺の中枢に向かって行きます。

木々の陰に、建物の姿が見えます。どんな伽藍配置になっているんだろうと更に期待が昂揚します。

 

先ほどの場所から、池の反対側に到達しました。
池のことを「池泉」(ちせん)と呼ぶそうです。
この浄土式庭園は、平安時代末期に寛遍(かんぺん)が真言密教の教義「バン」字をもとに造り上げたと伝わっています。
しかし江戸時代末期いわゆる幕末の動乱から、明治維新期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の混乱の最中、寺は衰退し、庭園も荒廃したといいます。明治時代には圓成寺の伽藍と池泉の間に県道が通っていたそうですよ。寺のど真ん中を道路が通っているとは、何たる所行でしょう。
1882(明治15)年になると漸く復興作業が始まり、その事業は以降の住職に継承されていきます。1961(昭和36)年に県道移設整備が実現し、1976(昭和51)年には復興事業・整備が完了しました。

池泉の中島にはかつて南北からそれぞれの岸へ朱塗の橋が架けられていたそうです。
 道路側から中島へは弧を描いた「反橋」(そりばし)が、
 中島から楼門下のたもとへは「平橋」(ひらばし)が
架かっていた、奈良県に遺っている唯一の浄土式庭園といいます。
「復元すれば良いのにィ・・・」と思ってしまうのですが、金が掛かりますからね。

この位置から、左手を見上げると

「多宝塔」がっ。
階段を上りたい欲望を抑え込み、そのまま池泉にそった参道を進みます。

だって、先ほど池泉の反対側から見た楼門から参詣したいじゃないですか。

さぁ、階段を上ろうと思うと、

 

立入禁止かいっ!
この木柵は、間違い無く〝ここから入ってはならない〟というメッセージ。

更に、現地には下調べをしないまま出向いてしまうので現場では気付きませんでしたが、帰還してから色々と調べて知ることがあります。
そのうちのひとつ。

赤枠内は「花肘木」(はなひじき)という意匠で、圓成寺本堂の本尊・阿弥陀如来を示す梵字が彫られた宝珠(ほうじゅ)が牡丹の花の上に乗っかっている装飾が施されています。
次回参詣の際は、しっかりと拡大画像を撮ろうと思っています。

道を引き返し、先ほどの「多宝塔」横の階段を上りました。
「多宝塔」の反対側(左手側)に受付があり、拝観手続きをして真っ先に向かいましたよ。
こちらに。

参詣者用の休憩所か?と思われるかもしれませんが、そうではないのですよ。
この新しい建物は収蔵庫も兼ねた「相應殿」(そうおうでん)と呼ばれ、多宝塔本尊・国宝「大日如来坐像」が2017(平成29)年末に移されたものです。
この玄関で履物を脱ぎ、扉を開けると・・

 

写真撮影は禁止されていますのでね、こんなイメージです。
手摺りの下はガラスで覆われていますが、手摺りの上は遮る物はありません。
だからといって何をしてもいい訳ではありませんよ。監視カメラで視られていますからね。受付・奥の方のモニターにしっかりと映っています。「国宝」ですからね、大切に、そして有り難く拝観させていただきましょう。
さすがに東京上野・東京国立博物館「運慶展」での仕切り無し・目線がほぼ同じ高さという訳にはいきませんが、正面に座って大日如来坐像と目を合わせていると時間が過ぎることを忘れてしまいそうです。

運慶作の国宝「大日如来坐像」については、また別の機会に触れますね。
国宝「大日如来坐像」は1176(安元2)年に運慶が造立し、圓成寺多宝塔の本尊として伝来しました。1993(平成5)年に国宝の指定を受けました。

ということで、次に向かったのは圓成寺多宝塔です。

現在の多宝塔は1990(平成2)年に再建された、奈良市内唯一の新しい多宝塔建築だそうです。「日本第一の大天狗」(『玉葉』・『吾妻鏡』)と評された後白河法皇によって寄進されましたが、室町期の戦禍により焼失、再建された塔も1920(大正9)年に老朽化していたことで鎌倉へと移譲されたそうです。移譲されたのは足利尊氏が自邸跡に創建した鎌倉長寿寺でした。長寿寺では移築・改造された多宝塔を「観音堂」としています。一般的な多宝塔と、だいぶ趣を異にしていますけれどね。因みに鎌倉・長寿寺には足利尊氏の遺髪を納めた墓があるそうです。機会があれば参りたいと思います。

 

火焔形の装飾を付けた宝珠と相輪を拡大しています。
相輪の中にある請花(うけばな)から4方向に金色(?)の鎖が垂らされ、風鐸(ふうたく)が付けられています。

 

撮った画像で風鐸が判るものを選んでみましたが、ちょいと見え辛い。次回の課題としましょう。

 

初層内部には現在、合同会社藤白彫刻研究所代表/東京藝術大学大学院非常勤講師の藤曲隆哉(ふじまがりたかや)氏の復元研究によって模刻された、全身金箔の想定復元像が祀られています。
2017(平成29)年12月から、国宝「大日如来坐像」はこの多宝塔から相應殿に移されたそうです。最近の話ですな。

 

相應殿で本物「大日如来」を拝観した後でしたので、模刻「大日如来」を撮影することにあまり集中していませんでした。とても麗しく素敵な模刻像であることは知っているのですがね。

 

それほど広い訳ではない境内を散策しました。
ふと視界に入った光景です。水の流れを目で追っていると、日頃の喧噪を忘れてしまいそうです。何と心穏やかになっていることでしょう。

 

こちら、本堂の左隣に位置する「護摩堂」です。

「護摩堂」の前に立ってみました。
1994(平成6)年に改修されたもので、不動明王立像を安置しています。
ここでは毎月28日、不動明王護摩供養(ごまくよう)が執行されているそうですよ。

 

護摩堂と本堂の間に石仏が並んでいました。

 

重要文化財に指定されている「本堂」(阿弥陀堂)を正面から見ています。
1466(文正元)年閏二月九日戌刻(午後8時あたり)に戦禍で焼失、同年三月十一日午刻(正午あたり)に再建工事が始まったといいます。当時、圓成寺内の知恩院主であった栄弘(えいこう)の勧進によって再建されたのだそうです。

古い書籍には無いのですが、新しい書籍等には「応仁の乱の戦禍で焼失」と断言しています。
応仁の乱の〝本戦〟の前に、圓成寺で軍事衝突した連中は誰なのでしょうか?
しかも、大和国の山中で。ええぇんですけどね(笑)。

1953(昭和33)年からスタートした復元解体修理によって、現在の本堂は文正元(1466)年に焼失してしまった旧本堂と規模・様式をそのまま踏襲して再建されたものであることが判ったそうです。

屋根を正面の階段上に張り出させた部分を「向拝」(こうはい)といいます。
この向拝両端の間には高い舞台が備えられているのが、この本堂の特徴となっています。

復元解体修理の結果、迎接(こうしょう)によって1112(天永3)年に建てられた最初の阿弥陀堂の室町期ヴァージョンであるということなのだそうです。
後世の再建でも古式の形態を伝えていることは、たいそう貴重なことです。

明治時代中期の修理前、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)に復元がなされ、銅平板葺(どうひらいたぶき)が施されたのだといいます。妻の破風(はふ)、向拝(こうはい)の縋破風(すがるはふ)、拝懸魚(おがみげぎょ)・降懸魚(くだりげぎょ)、桁隠(けたかくし)をいずれも新たに考案したそうです。更に屋根の背後は、前妻と同様に入母屋造(いりもやづくり)へと改変したそうです。こうして妻入り入母屋造に両庇(りょうびさし)を備えた、全国でも稀な「春日造社殿両庇付寝殿造阿弥陀堂」(かすがづくりしゃでんりょうびさしつきしんでんづくりあみだどう)に改修されたそうです(笑)。

 

本堂前の石灯籠です。

本堂側にまわって

灯籠の穴から楼門を見ています。
この穴の向こう側に浄土式庭園が見えたらいいなっ、と思ったのですが位置的・距離的にコレが限界でした。
まぁ、次回のチャンスがあれば工夫してみますがね。

 

こんなんで遊んでいると、

鬼瓦と目が合う・・・。

 

そして本堂から振り返って目線を楼門に移すと、眩しい陽射しが。

大日如来からのメッセージでしょうか?
花弁が降ってきた様な光ですね。
何と言ってきているのかは判りませんが、とても心地良き空間でしたよ。

ちょいと移動して楼門を裏側(本堂側)の正面からみています。

〝眩しい〟ではなく、〝温かい〟光をいただきましたよ。

苑池を前に、高い石段の上に建っている三間一戸の楼門は、重要文化財に指定されているそうです。
入母屋造(いりもやづくり)で檜皮葺(ひわだぶき)、本堂の真正面にあって南面しています。
柱は全て円柱です。
初層は三手先組物(みてさきくみもの)を柱上に載せ、上層の廻縁(まわりぶち)をうけています。

1466(文正元)年に焼失したといわれています。色々なところで「応仁の兵火により焼失」とありますが、歴史的に応仁の乱は1467(応仁元)2月の上御霊社の戦いからスタートするのです。これは突っ込まん方がよろしいのでしょうかね。

二層の縁板に「応仁二年六月六日奈良宿院四良太良」という墨書があるそうです。見ること・確認することは叶いませんがね。

楼門を階段下から見上げたところでも触れましたが、楼門を潜ると正面に花肘木(はなひじき)の意匠があるそうです。天竺式斗(てんじくしきます)に乗っかる様に蓮唐草浮彫(はすからくさうきぼり)の中央には蓮華上の月輪に阿弥陀如来の梵字「キリク」が彫られ、その背後に牡丹唐草浮彫の真ん中の牡丹花上に宝珠を刻んでいるそうです。
この意匠のすぐ下に居たのに、門の屋根裏を見上げたのに・・・気付きませんでした。
また参詣するつもりでいるので、その時にはしっかりと観察しますよ。

ほら、天井を見上げて屋内の木組を撮っているのですよ。
チラリと花肘木が写っているのに、意識していなかったので、細やかな意匠が判らない画像になっています・・・。

扉も窓も備えておらず、木材に彩色を施すでもない楼門ですが、それが逆に〝渋み〟という味になっています。

1916(大正5)年の解体修理の際、上層の木組が原形をとどめないほど傷んでいたといい、下層を参考に修復がなされたのだそうです。

八脚門ですね。
潜ってはならないと、柵が設置されています。
こうしたメッセージは、遵守しますのでね。文化財におけるルールはしっかりと守りますよ。

 

礎石の上に柱が据えられていますね。
礎石建ちなので理屈上では、門を動かすことができるのですよ、重たくて実行はできませんけれど。

 

さぁ、やっとこさ本堂に立ち入りますよ。

「圓成寺」の額と、鰐口(わにぐち)です。

履物を脱いで、堂内に入りました。
特徴的な舞台には足を踏み入れていませんよ。縁から撮った画像です。

本堂内、撮影禁止・・・ですよね。写真を撮っていませんよ。

イメージは、こんな感じ。
本堂内部には四天柱(してんばしら)が立てられていて、その内側に須弥壇(しゅみだん)が据えられています。中央には本尊・阿弥陀如来坐像が安置されています。

阿弥陀如来坐像が圓成寺の本尊です。
いわゆる〝定朝様〟(じょうちょうよう)の姿で、定印(じょういん)を結び、九重の蓮華台座に座しています。1112(天永3)年に経源(けいげん)が京都法成寺(ほうじょうじ)の本尊を移したと伝わっています。
周縁部の宝相華(ほうぞうげ)唐草文様(からくさもんよう)の透彫(すかしぼり)がほぼ完全な形で遺っている光背をもち、荘厳な蓮華座の上に安座しています。この光背の透彫は12世紀に入ってからの作とする推測がなされています。
幕が張られているので、肉眼でここまでを観察するのは極めて困難ですわ。

柱絵として菩薩像が描かれており、こうして堂内は阿弥陀如来が来迎した浄土に見立てられているのです。

実際の柱、菩薩の配置は記憶から薄れてしまいましたが、購入した絵葉書を入っていた順に2枚ずつ組んでみました。
実際の柱絵の組み合わせと違っていたらゴメンナサイ。

上:山海慧菩薩 / 下:光明王菩薩

 

上:観世音菩薩 / 下:三昧王菩薩

 

上:陀羅尼菩薩 / 下:薬王菩薩

 

上:無辺身菩薩 / 下:徳蔵菩薩

次の参詣時に、もっとしっかりと観察して、クッキリと記憶に刻み込んできます。

 

いやぁ、それにしても大和国(奈良県)・山城国(京都府)の山ん中の寺に遺る平安時代生まれの「阿弥陀如来像」たち、それぞれが個性豊かで、それぞれが独得の雰囲気を醸し出していて・・・凄いっ。
極楽往生を目指した人びとの想いが、時を超えて維持されている。
もの凄いですな、大和国・山城国の山の中っ。

須弥壇の四方に四天王が立っており、本尊・阿弥陀如来坐像を守護しています。持国天の台座框(かまち)の裏の墨書銘から1217(建保5)年の造立ということが判っています。

圓成寺の旧本尊・十一面観音立像は、平安時代中期~後期にかけての作と考えられ、檜の一木造(いちぼくづくり)で、内刳(うちぐり)は施されていません。命禅(みょうぜん)が1026(万寿3)年に祀ったことが始まりと伝わっています。
現・本尊の須弥壇の横に居ましたよ。左側・右側のどちらだったか失念してしまいました。
やはり次回の参詣時に、確認しておきますね。

 

本堂から出てきて周縁をまわってみました。

本堂の後ろ側、ゴッツゴツした岩場になっています。

 

あまり気にせずに周縁をまわっていたのですが、

案外、木材の傷みが顕著っ。

 

ほらっ、この柱はかなり傷んでいます。

 

ヒビ割れは、木材の特性としても、「虫喰い」は何とかしないとっ!

 

正面側の柱(本堂を正面から見て右側の柱の裏側)、虫喰い跡が深刻ですよっ。

 

本堂正面から見て左側、舞台の中央寄りの柱の裏側です。
虫喰い跡は〝天照大神の恵み〟でも隠しきれませんな。

 

白木造の柱は、出来上がった時は美しいのですけれどね。
こうして表面で目に見える穴だけではありませんのでね、中身がどれだけ喰われているか心配です。
このままですと、まだ先のことなのでしょうが柱の全取っ替えになってしまうのではないでしょうか?

 

圓成寺の鎮守として本堂の東側に南面している国宝「春日堂・白山堂」は、工事(修繕)中でしたので、見学することができませんでした。もうちょいと時間がかかる様です。
その関連で、宇賀神本殿や鎮守拝殿、鐘楼も次回のお楽しみとしてしまいました。

山の中ですからね。雪の降らない季節に、また参詣したいと考えています。

 

 

 

 

 

 

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