山城国六孫王神社(京都府) その弐

年末に東寺(教王護国寺)へ行くと、その足で六孫王神社に参拝します。そんな行動パターンがすっかりと板に付いてきましたよ。今回の記事は昨年末(2021年末)に立ち寄った六孫王神社のお話にございます。
源氏の子孫ではありませんが、もしかすると〝関係者〟かもしれませんのでね。

東寺・北大門をくぐり、洛南中・高校の横を直進して新幹線高架に突き当たります。
そこから左折して、ちょいとばかり歩くと、六孫王神社の入口に到着します。
年末ですと、参拝客はほとんど居ません。神社も初詣の準備をしている様でした。

 

六孫王神社
〒601-8471
京都府京都市南区壬生通八条角

ちゃんと「一の鳥居」から境内に入ります。

「一の鳥居」の向かって右側に建てられている「六孫王神社」の碑。
結構、下から見上げて撮りましたよ。

「さぁ、境内へ」と歩みを進めると、昼過ぎでしたがね〝天照大神の恵み〟が強めに射してきましたよ。
源経基(六孫王)とは、あまり相性が良いとは思っていませんが、この場所には何度も訪れるようになって愛着が湧いてきています。

晴れ晴れとしているのに人気(ひとけ)の無い、素敵な状況のもと「二の鳥居」に向かって行きます。

ただ真っ直ぐ唐門を目指すのも味気ないため、横道に逸れて神龍池越しに唐門を臨みます。
季節によっては花が咲き誇り、葉も蔽い茂っていて見えないのでしょうな。因みに手前には南天の実が生っていますね。

「二の鳥居」まで戻ってきましたよ。
いつもは〝急ぎ足〟で立ち寄ることが多いのですが、この時はゆっくりと余裕をもっての参拝でした。ですから素通り・気付かないものとも向き合うことができました。

例えば「二の鳥居」を潜ったところに居た阿吽の狛獅子。

 

左手側の狛獅子「吽形」、子どもの獅子に右前足を乗せていました。

やっぱり子獅子も「吽形」なのでした。

狛獅子のあいだを抜けて太鼓橋に向かっていく訳ですが、

いつもは、ここを何の躊躇も無く直進するのですよ。
でも、この時は右手側に寄り道してみました。

そこには「誕生水辨財天社」が。

そういえば、入口のところに「誕生水辨財天社」の碑がありましてな。
よーっく見ると「弘法大師御作」の文字も彫られていたのですよ。

「ほーぉ、空海が造った弁財天が居るのか」と思い、鳥居を潜るのです。

源満仲が誕生した際、その父・源経基が井戸に近江国竹生島の弁財天を勧請、安産祈願をして産湯としたことに始まると伝わっています。
原初の井戸は新幹線高架橋によって失われてしまい、現在の井戸は同じ水脈から引いているのだそうですよ。
この社に、空海(弘法大師)が造ったと伝わっている弁財天像が安置されているそうで、毎年6月13日に「弁財天御開帳祭」が執り行われるといいます。オトナの都合で参加できませんな。

純粋に「どんなん、なってるの?」と思い、近付いてみました。

金属の格子ではありませんが、姿を見せる気配が皆無な状況でした。
6月13日、都合が付くことがあったら参拝しましょうかね。

物理的に弁財天へ背を向け、太鼓橋を見ています。

陽射しも穏やかで、何せ慌てていませんからね。長閑な光景でしたよ。

ゆーったりとした気持ちで、ゆーっくりと太鼓橋を渡っていきます。
源経基は遺言で、ここに龍神として居るとのこと。
先にも触れた様に、源経基とは縁がありませんので何も起こりませんよ。

唐門に近付いていきます。

前回も見ておりますが朱塗りの灯籠が終わる所に、石碑がございましてな。

源経基が詠んだ、『拾遺和歌集』に収録されている2首が彫り込まれております。

碑には、
「 哀れとも 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに
                     拾遺和歌集 十一 恋   」

とあります。

小町谷照彦氏・倉田実氏 校注『拾遺和歌集』岩波文庫 黄二八‐一には
(686)                              源経基
「 あはれとし 君だに言はば 恋ひわびて 死なん命も惜しからなくに 」
とあり、
「〝あはれ〟とだけでも、あなたが言ってくれるならば、恋いあぐねて、死のうとする命も惜しくはないのに。」
という解釈がなされています。

もう1首。
「 雲井なる 人をはるかに 思ふには わが心さへ 空にこそなれ
                  拾遺和歌集 十四 恋   」
と彫られています。

小町谷照彦氏・倉田実氏 校注『拾遺和歌集』岩波文庫 黄二八‐一には
(909)                          源経基
「 雲居なる 人を遙に思ふには 我が心さへ 空にこそなれ 」
とあり、
「雲のたたずむ遠くに居る人を、遙か彼方に思い遣る時は、私の心までが上の空になることだ。」
という解釈がなされています。

この源経基が詠んだ2首が〝恋の歌〟ということで、六孫王神社は「縁結びの聖地」とされているのだそうです。

皇族とは謂いながら皇位なぞ望むべくもなく、地方に活路を見出した受領であった経基王。
子孫が〝武家の棟梁〟となったが故に、まるで武芸に秀でていた様に印象付けられますが、実際にはそんな猛者ではなかった様です。

源経基(経基王)について調べようと思ったのですが当御所には案外と関連書籍・史料が無く、詳細については次回の六孫王神社探訪の際までにまとめようと考えております。

 

唐門、向かって左手側にこんな感じで「龍」が居りましてな、

まるで屋根付きの井戸から身を乗り出してきたかの様です。

龍の口元に青竹が据えられていますね。
初詣仕様でしょうか、青竹が組まれています。
龍の左手側には〝魔除け〟でしょうかね、南天が添えられています。

意外と嶮しい表情をしていますね。
あら、角に修理の跡が見えまする。
イメージ的に勢い良く水を吐き出していると思ってしまいますが、この時は水が出ていませんでした。初詣用に霊水を貯めているのでしょう・・・多分。

水受けに石が据えられています。場合によっては水の勢いが強いからでしょうかね。
水が流れておりませんので、浄めることができませんでしたがね・・・。

 

唐門の正面に立ちましたよ。

左側から光のラインが入っていますね。肉眼では判りませんでしたが「瑞祥」です(笑)。

唐門の両脇に控える狛獅子の様子です。

一方向からしか撮っていませんでしたよ。
次回はグルッとまわりましょうかね。

唐門の向かって右側には「神馬」が居ります。

〝無表情〟なのですけれどね、愛着が湧いているのです。
探訪エンターテイメントで扱うのは2回目ですが、これまで六孫王神社には何度も訪れていますのでね。でも10回には達していないのですけれど。

左から、右からの表情を観ています。表情が違いますね。
あとフッサフサな鬣(たてがみ)っ。頸から肩にかけても豊かですなぁ。

 

唐門の正面、ちょっと引いて見上げてみました。空が不思議な色合いでしたよ。

唐門に掲げられた「六孫王神社」の社額です。

 

通常は唐門の柵は閉じられているのですが、この時は整備作業でしょうかね、作業の方々が出入りをされていて、柵が開いていました。その様子をとらえた画像は撮っていませんでした。

でも、柵内に入っていませんよ。奥の方から〝入ってこい〟というような誘いがありましたがね。

 

よく『将門記』の「経基未練兵道」(「経基いまだ兵の道になれず」)という評価が引用されます。ここだけですと〝経基王は武士として未熟だった〟ということになるのでしょう。
しかしながら時代背景と、この時の状況を正しく踏まえてこの評価をみなければなりません。

武蔵介であった経基王は武蔵権守の興世王と共に都から武蔵国へ下向、武蔵国の土豪だった武蔵武芝と揉めてしまいます。ここにこの件には無関係の平将門が親分気質を発揮して仲裁するのですが、この時に武蔵武芝の手の者が経基王の営所を包囲したため、経基王は平将門と武蔵武芝、更に興世王までが手を組んで自らを害しようと誤解し、都へ逃げ帰って彼等の〝謀反〟を朝廷に奏上するという話です。

経基王からすれば、共に武蔵国へ下向した興世王が平将門・武蔵武芝の陣営に加わったと誤解する情報に接し、実際に武蔵武芝の軍勢が経基王の営所を包囲したのであれば、手勢では太刀打ちできないと判断して撤退するのは当然のことでしょう。
経基王にとって武蔵国はアウェー(敵地に近い)です。
そこを地盤とする武蔵武芝、その後ろには下総国猿島(茨城県)を本拠に坂東で台頭していた平将門が控えている訳です。
更に武蔵国へ同行した興世王が加担したという情報(経基王の事実誤認)が加われば、経基王は営所を払って撤収するのは当然の判断だったでしょう。

『将門記』には「介経基はいまだ兵の道に練れずして、驚き愕いで分散す。」とあるのですが、これを〝敵地において孤立無援の状態に陥ることを避けるために「分散」(撤退)した〟と評価するのは経基王寄りの考えでしょうか?

史料などで確認はしておりませんが、平将門の乱でも藤原純友の乱でも掃討戦である程度の戦果を挙げているらしいので、『尊卑分脈』では「天性達弓馬長武略」という記載がなされているのだと考えます。当然、後世の清和源氏の猛者たちの業績の影響もあるでしょう。

別に源経基(経基王)を庇護しようという気はありませんよ。正直、あまり好きではありませんので。

 

この後、売店(授与所)に立ち寄りましたよ。
小さい神社ですからね、奥の方で何かしておられたのでしょう。宮司さんが不在でした。
こちらも朱印と干支の土鈴を貰わねばなりませんのでね、しつこくない程度に呼び鈴を鳴らしました。

朱印は〝通常〟のものでした(この件については、前回の「六孫王神社」の記事をご覧ください)。

干支の土鈴は、箱が少し大きめ。

 

箱の中から取り出した「寅」は、こんな感じでした。

横幅(体長)がありました。だから箱が大きめだったのです。
寅の割りに表情が嶮しくなく〝お茶目〟でした。
来年の干支「卯」(うさぎ)は、どんな表情なのでしょうかね。楽しみです。

 

 

 

 

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