大和国本薬師寺跡(奈良県)

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館を訪れたあと、距離的に近いことから「本薬師寺跡」に足を伸ばしてみました。

公共交通機関だと、近鉄橿原線・畝傍御陵前駅(うねびごりょうまええき)からほぼ直進したところにあります。

車が交差できるかギリギリの道幅でした。
駐車場など、ありません。空き地の道路側には杭が打たれロープが張られていました。イベントの時は駐車場になるみたいですね。
舗装されていない路肩に停車し、駆け足で史跡に向かいました。

自動販売機の裏側から、画像右斜めに伸びていくのが史跡への通路です。
意識していないと、素通りしてしまうような状態です。

通路を進んで行くと、進行方向・右手側に案内板が立てられています。
でも、案内板の文字は通路からではなく、通路の外側から見る様になっています。

藤原京内に建立された「本薬師寺」の解説が、解り易くまとめられています。

特別史跡「本薬師寺跡」
〒634-0033 橿原市城殿町279

藤原京内でも畝傍山(うねびやま)寄りの右京八条三坊に建てられました。

「薬師寺」は、天武天皇(大海人皇子:おおあまのおうじ)が、その皇后であった鸕野讃良皇后(うののさららこうごう:後の持統天皇)の病気平癒を祈願して建立したと謂われています。鸕野讃良皇后が病気になった天武天皇の病気平癒を祈願して建立したという説もあります。

『日本書紀』巻第二十九 天渟中原瀛真人天皇 下
  癸未、皇后體不豫。則爲皇后誓願之、初興藥師寺、仍度一百僧。由是、得安平。是日、赦罪。

  癸未(天武天皇九年十一月十二日)、皇后の體不豫。則ち皇后のために誓願いて、初めて薬師寺を興つ。仍て一百僧を度せしむ。是によりて安平たまうことを得たまえり。是の日、赦罪あり。

『日本書紀』によれば天武天皇九年(680年)に天武天皇が鸕野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺建立を発願したということです。

実際に薬師寺建立の工事が始まったのは682年からですが、天武天皇が686(朱鳥元)年に亡くなり、称制を経て即位した持統天皇(鸕野讃良皇后)が697(持統天皇11)年に開眼仏会を執り行い、その孫・文武天皇の698(文武天皇2)年に薬師寺はほぼ完成したといいます。

 

通路を進むと、左手側に礎石群(そせきぐん)が見えてきます。
書籍・写真などでは目にしていましたが、やはり肉眼で礎石群を見ると現地ならではの雰囲気に感動しましたね。

もうちょい、旧境内の内側に入って行きます。
大きな石が綺麗に礎石として整えられています。

 

こうして半分は草に埋もれていますがね、しっかりと柱が安定する様に形が整えられています。

飛鳥周辺の丘陵で採取された花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)・石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)を総称して「飛鳥石」(あすかいし)と呼ばれ、寺院の地覆石(じふくいし)に用いられました。

この画像の如く、加工されたのは礎石として使用されるにあたり露出する外表面だけです。その部分を除けば未加工、つまり自然の石の形状をそのまま留めています。
岩盤から割り取ったり分割加工ということはせず、自然に崩落した転石などを使用していたらしいのです。

礎石として使用される部分だけを、徹底的な鑿(のみ)の敲打(こうだ)によって整形したのだといいます。

 

本薬師寺金堂跡に立っています。
この左手側に「白鳳山醫王院」(はくほうざんいおういん)があります。
醫王院の右手側、この画像では左斜め上は民家となっているので、ここから先に進むことを憚ってしまいました。

金堂が建っていた土壇は、周りの水田よりも高さ1m程の高さで遺っており、現状は東西36m・南北29mの規模です。
この境内に19個の礎石が遺っていますが、そのうちの4個は醫王院の本堂・庫裏(くり)に使用されているとのこと。

 

醫王院の左脇にも礎石が並んでいます。
醫王院と礎石の間が通路になっており、そこを直進すると

こちらの「史蹟元藥師寺阯」と彫られた碑が立っています。

 

醫王院の様子を・・・と思い撮影したのですが、余り奥の方へ行くと私有地に踏み込むのではないかという呵責があり、手前で撮ったため、この様な画像になりました。
次回は、心を落ち着かせて撮影をしようと思います。

自家用車を路肩に停めていたという後ろめたさを感じていたので、慌てた本薬師寺跡の見学になってしまいました。
なので、そこそこ駆け足で移動していました。

事前にチョコッと調べていた、「本薬師寺東塔跡」に向かいます。
畦道を走って進みました。

 

〝おぉっ、東塔跡に近付いていくっ〟と気分を高揚させながら向かって行きます。

 

この様に四面のうちのひとつが入口の様になっています。
こちらの礎石は加工面以外は土中に埋まっている状態でした。
金堂跡の加工よりも手間が掛かっていますね。
これを鑿の敲打だけで為したというのですから、先人の〝ものづくり〟に注ぎ込まれた熱意・心意気と技術力の高さに敬服です。

中央には心礎には柱穴(水が溜まっている)があり、その周囲に四天王柱礎(してんのうちゅうそ)が4個が見えますね。
側柱礎が9個も遺っているそうですが、そこまで見てきませんでしたよ、残念。

路肩駐車をしていたものですから、そこそこに切り上げて車に戻りました。

事前にしっかりと調べることもせず、現地での〝思い付き〟で「あっこ行こう」ってやっているものですから、「西塔跡」に寄ってくるのを忘れてしまいました。

                                            ( Googleマップより )

上(空)から見ていれば気付いたのでしょうけれどね。
でも、また訪れる理由ができたので、それは善しとしましょう。

奈良文化財研究所の発掘調査および研究によれば、本薬師寺西塔の完成が奈良時代という可能性が浮上してきたそうです。

今回は土壇・礎石に注目し、〝下ばかり〟見ていました。
次は、失われてしまった〝上〟にも想いを馳せようと考えています。

 

 

 

 

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