2024(令和6)年3月末の西国遠征よりも前にアップすることを意図してまとめていた記事になります。
妙吉祥龍穴の激流が印象的でしたので、その記事の更新を先にしてしまいましたが、本来はこの記事のあとに妙吉祥龍穴の激流が更新される予定でした。
以下の画像は2022(令和4)年末に撮影されたものです。
この時は数日前に降雪がありまして、所々に雪が残っていました。
室生龍穴神社と妙吉祥龍穴に立ち寄ったあと、その流れで室生寺を参詣しました。
だいたい朝9時過ぎだったと記憶しています。
「(梵字)女人高野室生山」と刻まれています。
普段は観光客の姿が多い人気スポットなのですが、年末の平日・朝早でしたからね。
人気(ひとけ)はありませんでした。
太鼓橋の滑り止めに雪が残っていますね。
太鼓橋から室生川沿いの「三宝杉」(さんぽうすぎ)を見ています。
樹齢は700年だそですよ。
「三宝杉」 と謂いますからね、3本立ち並んでいたのですよ。
でも、画像には2本しか写っていませんよね。
2022(令和4)年6月8日未明、1本が倒れているのが発見されたそうです。
以前から根っこが浮き上がっていたことが懸念されていたとのこと。
まさか倒れてしまうとはね・・・。
表門が〝初詣仕様〟となっていますね。
室生龍穴神社もそうですが、野生動物・野鳥に荒らされない様にという措置なのでしょう。
角度を変えての表門です。
魔除けの南天が映えていますね。
石柱の上部には「九目結紋」(ここのつめゆいもん)。
江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん:家光側室の光子)実家・本庄氏の家紋ですよ。
参道脇に「三宝杉」が見えています。
竹で柵が組まれているのは、2022(令和4)年の夏に「三宝杉」の1本が室生川に向けて倒れてしまいました。
観光客の安全を期しての措置ですよ。
残念なことですが、現在は「三宝杉」と言っても2本しかありません。
でもね、大和国室生は大木が彼方此方に生えています。
神木とされているもいるものは勿論、そうではなくとも〝龍に見えちゃう〟木が多いのですよ。
受付で拝観料を納め、仁王門に向かっていきます。
因みに、室生龍穴神社の社務所はほとんど開いていませんので、室生寺の仁王門手前「納経所」で
「龍穴神社の朱印をお願いします」
と申し出れば、室生龍穴神社の朱印を頂戴することができますよ。
室生龍穴神社の社務所が閉まっていて落胆していた皆様、帰りに室生寺に立ち寄って朱印をもらってくださいな。
仁王門を潜って直進すると手水所がありまして、そこに「龍」が居りますの。
笹の葉と南天を差した、初詣仕様となっていました。
装飾は年によって違うらしいですよ。
自然石を組み合わせた「鎧坂」。
しゃがんで見上げております。
坂を上りきった先に位置する金堂の屋根に雪が残っています。
立ち上がって左端に視点を合わせています。
雪を纏った金堂、大和国に居住していないのでレアです。
それ程急な勾配ではありませんが、運動をしていないのでまぁまぁ息切れしてしまいました。
でも、屋根に雪が残っている金堂が〝輝いている〟様に見えています。
金堂の正面に立っています。
扉が開けられていますね。
参拝時間が早かったので、観光客の姿はありません。
寶物殿が新設され、金堂から寶物殿に仏たちが何体かが移動しています。
現在、金堂に居るのは
国宝「釈迦如来立像」
重要文化財「薬師如来立像」
重要文化財「文殊菩薩立像」
そして十二神将のうち、子・丑・午・申・戌・亥の6体です。
並んでいた仏たちの中心に居た国宝「釈迦如来立像」は、移動しない様ですね。
パワー・バランスを考慮してでしょうか?(笑)
金堂前に立つと、どうしても右側から観たくなってしまいます。
何時もです。
何故かは判らなかったのですが、
振り返ると、岩に刻まれているのが軍荼利明王。
・・・でも引き寄せているのは明王ぢゃなく、軍荼利明王の後ろにちらっと見えている
「天神社」
なのだと気付きました。
この「天神社」、龍神が祀られているそうです。
神木なのではないかと思える程の杉の大木に囲まれています。
残念ながら、この「天神社」のところまで立ち入ることができないのですが、ここの龍に引っ張られているのでしょう(笑)。
また、金堂の前に戻ってきました。
画像には表現されていませんが、金堂の周辺をかなりの時間ウロウロしていましたのでね。
屋根の雪が〝天照大神の恵み〟によって溶けてきていました。
江戸時代に増築された「礼堂」の下から「金堂」の額を見上げています。
江戸時代に増築された「礼堂」部分に注目しています。
緻密に組み合わされた石垣の上に「縁」が立っていますね。
屋根から雪が間もなく落ちてきそうでした。
創建当初の金堂の足場です。
塗りが施されていますが、物質的に傷んでいますね。
何とも痛ましいことでしょう。
室生寺金堂の画像といえば、この角度からのものが最も知られていますね。
「懸造」の様子が判り易いからでしょう。
何時もですと観光客の姿が絶えないのですが、営業開始間もなくの拝観でしたので建物に集中できています。
現在は金堂内に立ち入ることはできず、礼堂の縁を行き来して堂内の様子を拝観するスタイルになっています。
ですから、日にち・時間帯によっては縁に多くの観光客の姿があるという状況も覚悟せねばなりません。
湿っぽくて暗い感じがする金堂周辺に〝天照大神の恵み〟が差してきました。
残っていた雪が、どんどん溶けています。
この画像は、嘗て堂内に立ち入ることができていた時の入口前です。
壁の板、丹塗も剥げて虫食いが目立っています。
丹塗は見た目が美しいというだけでなく、虫食い防止の効果もあるのですよ。
だからといって、この状態に丹塗をしてしまうのは建物の持つ趣が損なわれてしまいます。
何とも痛ましい状況です。
金堂・前側の縁に立っています。
履き物のまま、江戸時代の増築部分に立ち入る様になっています。
靴底に金属が装着されていたり、ハイヒールなどは避けましょう。
江戸時代の増築部分とはいえ文化財ですので、人為的に傷めない様に留意すべきです。
「河越御所」は材質の柔らかい底の平らなサンダル履きで行動しているので、床板には優しいのです(笑)。
金堂・縁の真ん中に立ち、「金堂」の額を見上げています。
江戸時代の増築時のものでしょうかね。
情報がありませんので、推測です。
こうして縁の部分に立ち入りが可能となったことで、江戸時代の増築部分の造り(木組み)は勿論、彩色の様子も間近で観察することができています。
何と有り難いことでしょう。
見上げると時間の経過だけでなく、この室生の地・特有の湿気の力を痛感します。
正面からすると、金堂の右手側です。
手前が懸造となっている江戸時代の増築部分、欄干の辺りから向こう側が平安時代に造られた部分です。
ただ、後世の修復の手が入っているかもしれませんが。
重要文化財「弥勒堂」の屋根に雪が残っていました。
〝天照大神の恵み〟によって、この日の午後までには消えてしまったことでしょう。
「弥勒堂」には国宝「釈迦如来坐像」が居たのですが、現在は寶物殿に納められ、同じく国宝「十一面観音立像」の隣に座っていますよ。
元々は大和国興福寺の伝法院を移築したもので、方向を変えられたり、江戸時代に手を加えられたりと大変な思いをしています。
金堂の前庭に立ち、
右手に金堂
左手に弥勒堂
奥の正面に灌頂堂
を見ています。
何れも屋根に雪が残っています。
雪で真っ白になっている室生寺も素敵なのでしょうが、降雪・積雪の状態で大和国室生に行けませんよ。
だって、夏タイヤだもん。
何時か、公共交通機関を使って、室生に宿泊して、雪に塗れている大和国室生を楽しみたいと考えています。
金堂の前庭から石段を上がっていきます。
左手に向かうと灌頂堂なのですが、その前に右手側へと進みます。
こちら、本庄氏の供養塔。
江戸時代に室生寺の修築をおこなった桂昌院(本庄光子)の実家の人びとです。
そして、こちらが桂昌院(本庄光子:徳川綱吉の生母)の供養塔にございます。
このおばちゃんのお陰で、現在の室生寺があると言っても過言ではありますまいて。
境内には北畠親房や北畠信雄(織田信雄)も居るらしい(墓?供養塔?)のですが、彼らには気付きませなんだ。
五重塔の横っちょに、どちらかが居るらしい・・・です。
次、記憶に残っていれば捜索してみます。
こちらは国宝「灌頂堂」(本堂)です。
鎌倉時代後期、北条貞時の治世であった1308(延慶元)年に建立されました。
この灌頂堂では「如意輪観音」の朱印を頂戴しました。
〝日本三如意輪〟のひとつが居るということでね。
横からみて五間のうち前方二間が扉になっています。
奥三間が仏たちの居る区域ですね。
屋根に残っている雪が〝天照大神の恵み〟で溶け・・・
いやいや、転がり落ちているのですよ。
屋根の急勾配が前庭ですが、天照大神を味方にした檜皮葺の逞しさですよね(笑)。
こんなんしていますのでね、五重塔に到達するのは午前11時過ぎでしたわ。
室生寺五重塔は、法隆寺五重塔に次いで古い五重塔で、室生寺伽藍の内で最も古い建造物だそうです。
階段下から見上げることを前庭にして造られているので、五層の屋根の大きさはほぼ同じとなっています。
古(いのしえ)の人びとの感性って、物凄いですよね。
石段を上ることで五重塔の姿が徐々に露わとなる、この遊びが堪らんのです。
この五重塔の右手側に
修圓の廟があります。
五重塔の相輪上、宝瓶に龍を封じ込めた坊さんです。
修圓によって五重塔の宝瓶に封じ込められた龍
暴れていた龍を五重塔の宝瓶に封じた修圓
どちらに肩入れしようか?
・・・現時点では保留ですね。
両方に〝いい顔〟しておくことにします。
室生寺には何度も足を運んでいますが、観る度毎に、この五重塔が有する独特の美しさに惹かれていきます。
龍が封じられていることも理由?でしょうかね。
どの角度から観ても、素敵なのですよ。
柔らかく温かな〝天照大神の恵み〟を受ける室生寺五重塔です。
向こう側に修圓が居ますよ。
塔の頂上には龍(封印)が居ますからね。
案外、素敵な記念撮影になっていますね(笑)。
正面から見て右側、修圓に向いている面に消火器が設置されています。
塔の扉は閉まっていますが、塔内には5体の仏たちが祀られていますからね。
石製の基壇は、近代修理(1900:明治33年)のものでしょうか。
不揃いの礎石ですが、それぞれがしっかりと柱を支えていますね。
1998(平成10)年の台風・倒木による損傷の修復で塗り直された朱色部分に苔?が生しています。
身長の関係で、初層の様子しか目視できませんが、二層以上は大丈夫なのでしょうか。
龍を封じているから、湿気の影響をモロに受けていますよ(笑)。
いやいや、塔の歴史的価値を鑑みれば笑っている場合ぢゃないのです。
五重塔・三重塔・多宝塔は落雷による焼損の危険性がありますので、この様に避雷針を設置しています。
室生寺五重塔は山中に建てられていますからね。
美観を損なわない様に目立ちませんが、こうした対策は必須なのですよ。
この角っこが1998(平成10)年の倒木によって破壊され、見事に修復されたところです。
1998(平成10)年9月22日(火)の昼過ぎ、台風7号により森の木々が数本薙ぎ倒され、その内の杉の木1本(樹齢およそ650年)が、この西北側の庇に襲い掛かったのです。
室生寺五重塔が受けた損傷の様子は、ネットで画像検索をしてみてくださいな。
1998(平成10)~2000(平成12)年にわたる平成の修理では、五重・四重が解体され、三重・二重をジャッキで持ち上げて初重(しょじゅう:一階)の屋根が修復され、その次に二重を降ろして三重をジャッキで持ち上げ・・・と初重・二重・三重を解体せずに修理したそうです。
修理の過程で
創建当初の五重塔は板葺の屋根だったことが判明しました。
桂昌院(徳川綱吉の生母)の頃まで室生寺五重塔は杮葺(こけらぶき)だった様ですが、桂昌院の時代に「女人高野」と呼ばれる様になり、この「女人高野」の称に相応しい柔和な曲線を形づくる檜皮葺に変えられたと考えられています。
簡潔に、室生寺五重塔の修理の歴史をみていきましょうか。
< 室生寺五重塔 1度目の修理 >
鎌倉時代、最初の本格的な修理がおこなわれました。
五重だけ解体し、垂木を全て新たなものに取り替えたそうです。
相輪も修理され、使用銅の分析により現在の相輪は鎌倉時代に関西で産出された銅で新造されたものだということが判りました。
< 室生寺五重塔 2度目の修理 >
明治時代、室生寺五重塔の創建以来の大修理となりました。
1900(明治33)~1901(明治34)年で、心柱と四天柱は倒さずに全面解体修理がなされたのです。
この時の修理で、心柱は3本継ぎだったことが判りました。
明治時代の修理では3本継ぎの内、いちばん上の柱がかなり傷んでいた様で五重の屋根の下のところで切断し、その上に金輪継ぎの技法で新しい柱を継いだのだそうです。
< 室生寺五重塔 3度目の修理 >
台風での倒木による平成の大修理です。
ジャッキで部分的に持ち上げた修理でした。
この時の修理で初重の四天柱、二重より上の四天の束柱・側柱、何れも太く、そして短い柱であることが判りました。
更に、短い柱の高さを補うために組物「斗栱」(ときょう)を高くしていたことが判明しました。
その上、鎌倉時代から用いられたと思われていた補強部材「筋違」(すじかい)が創建時の平安時代に二重から上の階に使われていたことも判明したそうです。
損傷が激しかった相輪は、下の利用できる部分以外は新造したそうです。
屋根に葺く檜皮は、室生の森の檜から取ったものを使ったそうです。
先のダメージを受けた角っこの画像の位置から後退りして撮ったものです。
逆光になっていますが、宝瓶の龍が水気(雲)を発している様にも見えます。
封じられていても、このコ、こうしたことができるのですよ。
それにしても相輪とその周辺を修理された時、もしくは1998(平成10)年の損傷の時に〝龍の封印〟って健在だったのでしょうかね?
案外、居心地が良いのかも知れませんな。
室生寺のお話、一旦ここで区切りますね。
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