活動の覚書(ブログ)

河越御所およびエンターテイメント研究所の活動覚書です。

探究三分野の更新記録はもちろん、その他関連することがらや雑多なものごとに関する情報を気ままに書き記していきます。

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活動の覚書(ブログ)一覧

実際に討ち取られた場所は、ここより北らしいですよ。

摂津国四天王寺から徒歩圏内でしたので、足を伸ばしましたよ。未だ大阪の地が馴染んでいませんのでね、ちょいと迷い乍ら裏側より安居神社の境内へと入りました。社殿の前からいったん正面入口まで戻り、境内に入り直しました。知り合いが「雰囲気があって凄く良かったです」と力説していたので、行ってみました。・・・何も感じませんでしたよ。だって鈍感なんだもん。諸説ある様ですが、真田信繁が討死した場所は生國魂神社と勝鬘院の間あたりらしいですよ。近年、新造された真田信繁銅像のところで遊びました。次に参拝することがありましたなら永楽銭を持参しますよ。

2024年04月20日

羽柴秀吉へ逢いに行ってきました。

2023(令和5)年秋、「織田信長へ逢いに行ってきました。」の連動企画です。秀吉のところには何度か出向いていますのでね。豊国廟の位置も、現地の雰囲気も見知っております。初めのうちは印象が悪かったのですが(笑)、段々と馴染んできました。この時の訪問は良き天気にございました。明るい環境でしたよ。誰も居ないと思いきや、先客で凜々しいお爺ちゃんが居りましてな。ずっ~と豊国廟にて佇んで居られるのです。まるで羽柴秀吉が現世に姿を現したかの如きでした。思い込みでしょうがね(笑)。豊国廟に行く前、新日吉神宮に立ち寄り、売店で猿(秀吉)グッズを購入して向かったのが良かったのかと感じています。また京(みやこ)に行く機会がありますのでね、混同されやすい豊国神社と豊国廟のことを取り扱ってみたいと考えていますよ。

2024年04月16日

東京国立博物館で古墳時代の武装を学んできました。

〝ある用〟を扨措き、久方振りに訪れた上野の東京国立博物館「常設展」を続けますね。
実際には1年ぐらい東京国立博物館には出向いていなかったのですが、以前撮影した画像を整理していたり、公式HPを閲覧していたことで脳が東京国立博物館に行った(入った)と誤認識していましたよ。

最近、出向いたところの博物館に立ち寄っていましたからね。
〝武人埴輪〟と思っていたら、甲冑の埴輪であったことは驚きでした。
・・・なので、東京国立博物館でも古墳時代の甲冑を観察してみました。

肥後国(熊本県)江田船山古墳から出土した
 国宝「帯金式甲冑」
です。

頭部を守るのが「衝角付冑」(しょうかくつきかぶと)。
首元を守るのが「頸甲」(あかべよろい)、
胴体を守るのが「横矧板鋲留短甲」(よこはぎいたびょうどめたんこう)
です。

復元されてギラッギラッしている甲冑も格好良いのですが、錆びた古墳時代の甲冑も歴史の重みを感じることができ素敵です。

そして、こちらも肥後国江田船山古墳から出土したは
 国宝「横矧板革綴短甲」(よこはぎいたかわとじたんこう)
です。

背面を前にして展示していますね。
復元修理がなされていて右脇に金色の金具があり、そこで開閉できる様になっています。

この2例は、摂津国の今城塚古代歴史館で観た復元された挂甲(けいこう)とは異なり、鉄板を鋲(びょう)で固定するものになっています。

こちらは、補修・復元された甲冑の埴輪の全体像です。

庇(ひさし)が付いた甲(かぶと)ですね。

頸甲(あかべよろい)と肩甲(かたよろい)が一体化した状態で形づくられています。

胴体を守る短甲の部分です。
この画像で見ている箇所は、展示用として復元されたものですね。
背面に、この元となる箇所があるのでしょう。
次に行った時、確認してみますね。

誰しもが気になるであろう〝ブツブツ〟。
鉄板を固定している鋲(びょう)を表現しています。

腰元から傘の如く広がりを見せているのが草摺ですね。
発掘で出土した破片を組み合わせて補修、更に復元しています。
破片を組み合わせて復元するのは、かなり難儀な作業ですよ。
車線の向きで、鉄札を革紐で縅している様子を表しています。

古墳時代人の感性・表現力は、なかなか粋なのです。

最後に、こちらは下野国(栃木県真岡市)鶏塚古墳から出土した
 「挂甲を装着した武人埴輪」
です。

失われた部分が多い様ですが、出土した破片を見事に組み合わせて復元されています。

この武人埴輪は、上半身と下半身が別に造られており、スカートの様に広がりを見せる草摺の部分を上半身、大腿部からが下半身となっています。
上半身・下半身を別に造って差し込んでいるので、全体のバランスが微妙になっています。
この様に上半身・下半身を別に製作して合わせた例は他でも確認されているのだそうです。

顔の赤味がかっているのは単純に出土した粘土の色なのか、それとも彩色されたものなのか気になりますね。

製作時期・地域により甲冑の特色があって奥深いですね。

2024年04月15日

〝石上神宮の端っこ〟のひとつを体感してきました。

同じ場所を何度も訪れるのは、訪れる度毎に新たな発見があるからなのです。今回は、気になっていた石上神宮の〝奥の方〟に足を伸ばしてみました。場所によっては、土地が有する威圧感でたじろいでしまうところもあります。今回は偶々〝奥の方〟で関係者の方が整備作業をされておりましたので、威圧感がだいぶ和らいでいました。往復した奥の道も、この時の為に整備してくださった、と考えざるを得ないタイミングで綺麗になっていました。結果からすると「このエリアはこうなっているのだ」という石上大神からの教示だったとさえ思えるのです。この時は大神神社の後に石上神宮に立ち寄って武蔵国へと帰還しました。大神神社に次いで、石上神宮でも良い気持ちで朱印を頂戴することができました。石上神宮で朱印をもらう時、男の職員の対応・態度が悪いのでだいたい気分が悪くなります。参拝しても朱印をもらわない時もあるくらいです。今回はそれがありませんでした(朱印は巫女さんからいただきました)し、石上神宮の〝受け容れてくれた〟感が顕かでした。時間が掛かりましたがね。今後も石上神宮に参拝し続けますよ。

2024年04月13日

「朱筋溜塗打刀」が思いのほか、素敵でした。

上野の東京国立博物館、常設展の刀たちと戯れたお話の続きです。

何処を観ても人集りという状態で、なかなか刀剣・拵えに集中することが難しかったのですが、そんな中で赤い鞘が素敵な一振りが視界に入ってきました。

「朱筋溜塗打刀」(しゅすじためうるしうちがたな)です。
手前に拵え、向こう側に刀身が並んでいる展示でした。

解説として

 「重要文化財 伝当麻 刀(金象嵌
 銘)ゆきふかき・・・」に付属する刀装
 (拵)で、大久保一翁の好みでつくら
 れたと考えられます。鞘を鮮やかな朱
 筋溜塗とし、刀装具は鐔が鉄製でその
 他は赤銅製とします。幕末には栗形や
 返角がなく、足金物を一つだけ付けた
 本品のような拵が流行しました。
                    」
という文がありました。

人集りの中で撮ったので、正面には立てませんでした。

単なるベタの朱塗ではないのです。
この画像では判り辛いのですが、「朱筋」と言われる様に縦の筋ができています。
「溜塗」ですから漆を重ね塗りして、この美しさを生み出しています。

居合刀の特注で、この拵の再現は不可能でしょう。
特に塚前は断られてしまう要素が満載ですね。
鞘の溜塗も、この様な「朱筋溜塗」とするのは金をかけても同じにはならんでしょう。

拵と並んでいた刀身です。
重要文化財の刀で伝「当麻」だそうです。

幕末~明治期の武士・政治家であった大久保忠寛(一翁)の愛刀だったといいます。
太刀を磨上げたというのが気に食わないのですが、致し方ありません。
綺麗な直刃の刀身です。

茎(なかご)に金象嵌が見えます。

撮った画像の茎部分を拡大していますが、意識して撮ったものではないので、これが限界でした。

 「由起布かき山もか寿みて本能々あけ行く春乃
                 多まちのそ良 一翁
 (ゆきふかきやまもかすみてほのぼのとあけゆくはるのたまちのそら いちおう)

と、大久保忠寛(一翁)の詠歌が象嵌されています。

幕末以降の刀剣に興味は無いのですが、朱塗鞘の特注をする際の参考にしますよ。

2024年04月10日
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