大和国唐招提寺(奈良県) その弐

2022(令和4)年になって、もう半月が経過してしまいましたな。
恒例の年末駆足初詣の記事がまとめられないまま、時間が経っていることに少々気持ちがやさぐれ始めています。

さて、今回は律宗総本山「唐招提寺」(とうしょうだいじ)を参詣した時のお話です。
唐招提寺へは薬師寺から歩いて向かっていきます。

民家の間を通る細い道を進んでいきます。
そんな細い道の向こうから、何とバスがこちらに向かってきます。

京都・奈良で細道をバスが通る、えらく強引な場面を目の当たりにすることが屡々あります。早速、そのような光景に遭遇してしまいました。

 

普段は武蔵国を本拠として活動をしていますが、唐招提寺前のこの通りに来ると〝近所の寺に来た〟感を持ってしまいます。これまで訪れたのは数回なのですけれどね。

 

世界文化遺産にも指定されている、歴史の長い著名寺院なのですよ。
なのに、全く飾りっ気の無い参道。道路に樹木が斜めに出ているのです。

 

「史跡 唐招提寺旧境内」の碑。
そう、今でこそ道が通り、民家があるのですが、かつてはこの一帯は「境内」だったのですからね。

759(天平宝字3)年、鑑真は僧綱(そうごう)の職務から解放され、故新田部親王(にいたべ/にたべしんのう)旧宅を拝領して私寺としました。これが現在の唐招提寺の基となります。

鑑真は6度目の渡航で漸く日本の地を踏みました。753(天平勝宝5)年のことで、翌年(754)に大和国東大寺へ入りました。東大寺の大仏開眼供養会(かいげんくようえ)が孝謙天皇の752(天平勝宝4)年ですので、完成した毘廬舎那仏の姿を目の当たりにしていることになります。

唐招提寺は、当初「唐律招提」(とうりつしょうだい)と呼ばれ、戒律(かいりつ)を学ぶ宿院として発足し、堂宇は新田部親王の旧家屋等を転用していたと推測されています。次第に鑑真の支援者からの施入により僧房や食堂、講堂・金堂等が建立され、戒律研究学問所としての環境が整ったところで「唐招提寺」と称されるようになったといいます。

 

鑑真の私寺という扱いでしたが、官寺に準じた定額寺として位置付けられました。
1960(昭和35)年に五間三扉の切妻造、天平様式を意識して復元された南大門の正面に「唐招提寺」の額が掲げられています。
残念ながら本物ではない、忠実なレプリカですが、孝謙天皇宸筆(しんぴつ;直筆)で双鉤体(そうこうたい)という細身の行書を刻んだものになります。中央・左右と3材を矧(は)ぎ寄せており、中央大部分の材質は檜(ひのき)です。もともとは飾りの縁が付属していたといい、講堂もしくは中門に掲げられていたと伝わっています。現在、本物は境内奥に位置する新宝蔵に収蔵されています。
奈良時代の扁額(へんがく)で現存しているのは唐招提寺のこちらの額と、東大寺西大門の勅額の2つのみといいます。

 

真下から見上げてみました。

 

拡大してみました。

 

更に、もっと拡大して観ました。
レプリカですが、迫力がありますな。

 

 

 

南大門を潜り抜けると、左手側に世界遺産に指定されたことを示す石碑が据えられています。

この右手側を向くと、金堂の姿が見えるのです。

 

唐招提寺
〒630-8032
奈良市五条町13-46

この前日は近畿地方の彼方此方でも降雪があり、空には雲が多かったのですが、わざわざ坂東より南都を愛でに来ましたからね、急激に陽射しが強くなっていきました。

世界遺産の碑あたりで振り返ったら、天照大神が南都入りを喜んでくれています。

 

 

天照大神の恵みを背に、金堂に近づいていきます。雲も払われていますな。

国宝で世界文化遺産にもなった唐招提寺の金堂は、
 平安時代後期:軒まわりの修理
 鎌 倉 時 代 :石造須弥壇の築造
 元 亨 年 間 :屋根瓦の葺き替え
 元 禄 年 間 :解体修理
 明治31~32年:解体修理
と、何度も修理が施されていますが、文化史的には貴重な奈良時代の建築物の象徴です。
1995(平成7)年の阪神淡路大震災をきっかけに実施された現状調査により、柱の傾き、梁・垂木の撓みが顕著であり、速やかな修理が必要であることが判りました。
1998(平成10)年から2000(平成12)年にかけて調査が行われ、文化庁が主導して2000年から10年に及ぶ大修理が実施されました。2009(平成21)年に平成大修理事業は完成しました。

 

金堂前の石灯籠越しに金堂を覧ています。鴟尾が白い雲と青空を背景に映えています。

 

頭のところだけでなく、石灯籠の全体像を乗せておきました(とはいいながら基壇部分が欠けている画像になってしまいました)。

 

吹き放ち部分に立ち入り、柱に近付いていきます。
柱の中央を膨らませたエンタシスといいますが、法隆寺のエンタシスよりも膨らみがめだちませんな。
柱中央から下にかけては観光客のスリスリによって木の地肌が出てしまったために赤茶色になってしまっています。この画像、奥の柱の上部が白くなっているところが幾つもありますが、これは陽射しが当たっているためです。

 

もっと柱に近付いてみる。
強い陽射しが差し込んできました。

 

何時ぞやの大修理で接がれたり、補修されたりしたことが判ります。
継ぎ目の上が古い材、下が後世の修理ではめ込まれた材であることが判りますな。
画像中央部には、更に部材がはめ込まれています。
1本の柱の一部分を撮した1枚の画像で、唐招提寺金堂のおおよそ1200年の歴史の一端が伝わってきます。

 

別の柱の下方部分です。
樹の齢いをうかがわせる木目が何ともいえない味を醸し出しています。
創建時は、表面が鉇(やりがんな)で丁寧に表面を整えられいたのであろう柱が、こうして千年以上の時を超えてしっかりと屋根・梁・垂木等の重量を支えているということは驚異です。

 

吹き放ち部分の反対側に来てみました。
陽射しが更に強く差し込んできましたよ。

 

あらっ、反対側から観ているのに同じ柱の裏側を撮ってしまいましたかね?
何番目の柱か、を確認して撮影すべきでした。
・・・次に唐招提寺を参詣した時は、1本ずつ確認しながら撮影するようにします。

 

礎石に乗っかる根元が修復されている柱の様子です。
何として修復したのでしょうかね?
大工さんではないので勝手な想像になりますが、古い建造物に使用されている木材を最大限活かしながらの修復であることは判ります。
文化財ですから柱まるごと取り替えてしまうという訳にはいきませんからね。

 

ほらっ、陽射しが強過ぎるのですよ。
まるで雲を散らして〝光をいただいている〟感じ。
画像の雲の動きから、あながち思い込みではありません。

 

ょいと金堂から離れたところ(とはいってもこのくらいの距離)に、手水鉢(ちょうずばち)がありましたよ。
水はチョロチョロとしか出ていませんでしたけれどね。

 

青銅製の手水鉢は「吐水盤」(とすいばん)といい、よく観ると「蓮の葉っぱ」を組み合わせた形状になっています。
写ってはいませんが、水が溜まっているところに小銭が投げ込まれています。
誰が最初に投じたかは知りませんが、ケガレ・キヨメの考え方からすれば、貨幣を手水鉢に入れることはキヨメの妨げになります。
寺院関係者の方々、注意喚起表示をして小銭を撤去していただけませんかね?

 

手水鉢「吐水盤」は、金堂から見てこの辺りに位置しています。

 

金堂内の写真撮影は禁止となっていますが、内陣はこの様になっています。

                             (出典:ja.wikipedia.org/wiki/唐招提寺)

 

校倉造(あぜくらづくり)の高床式建物、「経蔵」(きょうぞう)です。
こちらは新田部親王の邸宅に建っていた米倉を改築したもので、唐招提寺境内で最古の建造物であり、更に日本最古の校倉建築でもあるといいます。

新田部親王は天武天皇の7番目の皇子で、719(養老3)年に元正天皇から舎人親王と共に首皇子(おびとのおうじ:後の聖武天皇)の補佐を命じられ、720(養老4)年の藤原不比等(ふひと)没を受けて朝廷軍事力の統括者の任に就き、知太政官事の舎人親王、右大臣の長屋王の3者で皇親政治を牽引した人物でした。735(天平7)年に没しているので、即位する前の聖武天皇を支え、長屋王の変・藤原四兄弟の相次ぐ病死、皇族出身の橘諸兄政権が発足するという激動の時代を生き抜いた皇族ですな。

因みに、斜めから経蔵を見た画像ですが、七色の光が差してきて神々しかったので掲載しました。唐招提寺に歓迎されている感が満載の参詣であったことを象徴する様子です。

 

そのすぐ隣りに似た様な建造物がありまして、こちらが「宝蔵」(ほうぞう)になります。
経蔵よりもおよそひとまわり大きい造りで、校倉造の高床式建物です。
唐招提寺創建に合わせて建立されたといわれています。

 

経蔵・宝蔵と高床式の校倉造が2棟並んでいるので、その真ん中に立ち、宝蔵を斜めから撮ってみました。

 

宝蔵の横側は通路になっているので、横から校倉の木組みの様子を観てみました。
軽い気持ちで撮ったので、〝校倉〟感が希薄になってしまいました。

 

目線を下げて床板と、その下の高床になっている柱の様子を撮ったのですが、こちらも構図が中途半端になっております。
次回の唐招提寺参詣の折り、〝校倉〟感が伝わる様に写真を撮ってきますね。

 

金堂の横に戻ってきて、「講堂」を愛でます。
平城宮の改修に伴い760(天平宝字4)年頃、東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)をこちらに移築し、さらに改造を施したものになっています。

 

前回の参詣での反省を踏まえ、それでも完全ではありませぬが左右からほぼ講堂の全体像を画像に納めました。
遠征に同行したメンバーが写真を撮ろうとした時、他の観光客の方の姿があるというで〝邪魔だ〟というような旨を内々に言っていました。確かに我々の反対側に高価なカメラを手に伽藍をバシバシと撮っている方がおいででしたので。「我々が独占しているのではないので、そういうことを言うな」と諭し、次の場所に移動しました。
神社仏閣において、自己中心な考えに則って言動すると希望・期待することが必ずできなくなってしまいます。タイミングをずらしたり、時間をおいてからまたその場所に来れば良いと思えれば、だいたい想定した状況に極めて近い感じになるものです(後述)。

現在の姿は鎌倉時代の改修によるものとはいえ、平城宮の名残りはプンプンしていますからね。また満喫しに来たいと考えています。

 

金堂と講堂の間、横っちょに伸びている通路を進んでいきます。
以前の参詣でもとった経路ですな。

 

はい、どんどん歩みを進めていきます。
この築地塀に囲まれているのは・・・

 

更に歩みを進めていきます。
門が近付いてきましたね。

 

門の手前まで来ましたよ。
ここは・・

 

そう、唐招提寺境内の「戒壇」(かいだん)です。
鑑真が759(天平宝字3)年、戒律を授けるために設置した儀式の場なのです。
残念ながら建物は失われてしまいましたし、3段構造の石壇が残るのみ。

 

前回は門の先の戒壇を除いて引き返してしまいましたが、今回は門を反対側からも撮ってみました。せっかくなので、前回と違うことをしなければ楽しくありませんからね。

 

強い光が差しているのがお判りいただけるでしょう。
門を潜って内側に立ち入ることはできませんので、両手を伸ばして画像を撮りました。
今回の戒壇の背景は青空がのぞいています。前回は感動・感激で声が出ませんでしたが、今回はそこまで感極まることはありませんでした。大丈夫、鑑真への敬意はしっかりと持っていますよ。

 

カメラのズーム機能を使い、戒壇の上に乗っかっている部分を拡大して撮りました。
これは1978(昭和53)年に造られた、インド最古の仏塔であるサンチー第1塔をイメージした宝塔だそうです。意外と〝新顔〟なのだね、キミっ。

 

門の瓦を観てみると、「招提律寺」の文字が。

 

更に門の上部にある装飾組物に「龍」(ドラゴン)が居るっ。
おっ?何故か「三つ葉葵」紋も居るっ。
そっか、江戸時代に実施された2回の改修で徳川氏が資金援助をしていたのだ、と勝手に納得していました。

 

「戒壇」は四方向のうち、二方向から拝観することができます。
先ほどの門からと、門からみて右手側の通路からも内部を覗くことができる空間が設けられています。
この画像は、その右側から戒壇を観たものになります。
戒壇の形状・姿に違いはほぼありませんが、目線を変えて見ると〝得した気分〟になってしまいます。

 

講堂の後方、御影堂の手前に位置する「宝庫」の門前で、瓦に注目しましたよ。
前回の参詣で、軒丸瓦の文字にちょっと注目したのですが、平瓦にも文字がハッキリと見えているので撮っておきました。丸瓦だと、どういう順序で文字を読めば良いのか不明(諸説ある)ですが、平瓦だと確実に「唐招提律寺」と読むことが判りますからね。

 

そして「開山堂」の角っこのところに来ました。
この角っこから、開山堂の正面に繋がる角っこまでの軒丸瓦の文字を全て撮ってきました。

 

軒丸瓦、その1。

 

軒丸瓦、その2。

 

軒丸瓦、その3

 

軒丸瓦、その4。

 

軒丸瓦、その5。ちょっと古い。

 

軒丸瓦、その6。

 

軒丸瓦、その7。

 

軒丸瓦、その8。

 

軒丸瓦、その9。なかなか古いのではないか。

 

軒丸瓦、その10。

 

軒丸瓦、その11。
「唐招提律寺」の文字は同じですが、焼かれた時期が異なるのが判りますな。
瓦の研究者ではありませんので、これ以上の説明は遠慮しますわ。

 

 

 

 

開山堂の前に立ち、全体像を観たいと思って撮りました。曲がっちゃいましたけど。
うわっ、門と屋根の瓦に「三つ葉葵」紋が・・・。ここにも徳川氏の手が伸びていたのかぁ・・・。
江戸時代中期の元禄期、徳川家歴代を祀った御霊殿として建てられたものが1881(明示14)年に現在の位置に移され、鑑真肖像を祀る開山堂となったのだといいます。

 

さて、御影堂は相変わらず工事中でございました。

「竣工予定二〇二二年」ですからね、今年のいずれかに工事が終了するのですね。
今年は夏のうちに今一度、大和国を訪れたいと考えています。

 

工事中ということですが、ちょこっと覗いてみました、てへ。

 

 

さて、いよいよ今回の唐招提寺参詣のメイン・イベントです。
鑑真に逢いに来ましたよっ。

案内掲示に従って、歩みを進めます。

 

おーっ、こっから「鑑真に逢える」という高揚感が強くなってきます。
意図的に左側を見ないようにしています。
だって、正面から見た時の感動を大事にしたいから。

 

せーの。

・・門を正面から観た時は、他の観光客の方々は居なかったのですよ。
撮り忘れていたので、出てきてから撮ったら、こういった画になったのです。

 

ほらっ、誰も居ない。実際には、この先に他の観光客がおいでだったのですが、画像には入っていません。
聖域という感じはビンビンしましたが、強めに差し込んでくる陽射しで心地良く、参詣を喜ばれている様でした。

 

悪意はありませんが、鬱蒼とした木々のために重たい印象を最初は感じたのです。
苔が一面に生している場所ってジメジメ、陰湿な感じがするじゃないですか(固定観念かもですが)?
でも、この画像を見てくださいな。〝大丈夫、明るくしてやるからっ〟というネガティヴ感を打ち消してくれる強く温かい陽射しっ。

 

唐招提寺の境内に居る間、ずっと温かい陽射しを浴びながら、建物・仏像(+植物たちも)と楽しく交流できていました。

 

向こうから鑑真がニコニコ待っててくれている感じ。

 

堀ではありませんが、池があって小さく短い橋を渡る様になっています。
この池、気持ち悪かったです。
何かが居るかって?〝見えない〟ので判りませんが、鑑真が招き入れてくれているので、イヤな感じは間もなくしなくなりましたとさ。

 

いよいよ来たっ、鑑真廟所。
前回の参詣では時間の兼ね合いと、廟所に対する認識が薄かったため、ここまで足を延ばすことができませんでした。

 

廟所前の石灯籠。

 

石灯籠の柱を見ると、「昭和五十五年」(1980年)の建立だって。
意外に新しいものですな。

 

鑑真は763(天平宝字7)年に示寂(じじゃく:亡くなること)したそうです。
その年の春頃より、鑑真の体調は優れなくなった様です。
弟子の忍基(にんき)は、ある夜、唐招提寺講堂の梁が砕け折れた夢を見、多くの弟子を率い鑑真肖像を造ったといいます。
763年5月6日、鑑真は唐招提寺内の宿坊で結跏趺坐(けっかふざ)をして西を向いたまま生涯を閉じたと伝わっています。享年76歳。死後3日経っても体温が感じられ、のちに火葬した時には香気が満ちたといいます。
『唐大和上東征伝』には
「我れ若し終ぶ亡ぜんときには、願はくは坐して死なん。汝、我がために戒壇院に於て別に影堂を建てよ。旧の住房は僧に与えて住まはしめよ。」
という鑑真の遺言が伝わっています。

御廟前には鑑真の故郷・中国揚州から贈られた瓊花(けいか)が植えられています。
方墳上の土壇は石壁に囲まれ、八角形をなしています。
その頂上の宝篋印塔は、鎌倉時代後期に建てられたものだそうです。

 

御廟のまわりを一周してみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〝何か特別に〟ということはありませんが、とても楽しい気持ちになりましたよ。

 

新宝蔵は時期的に閉館中でした。
次回は季節を変えて参詣し、新宝蔵の中も拝観しようと考えています。
ずうーっと前に入ったことがあるのですが、新宝蔵の中の記憶が全く残っていないのです。

前回、時間等の関係で立ち寄ることができなかった鑑真御廟、凄く良かったです。
また訪れて、鑑真に思いを馳せたいと思います。
朱印をいただき、売店で鑑真肖像の色紙を購入しました。

次の訪問予定地があるため、金堂を背に南大門へと向かっていました。
特に何かあった訳ではないのですが、後ろを振り返ると・・・

金堂前に、観光客の姿が全く無い。

 

チャーンスと思い、ちょっとだけ金堂に向かっていき写真を撮りました。
欲張らずに、このくらいで止めておく。

写真を撮ろうとした時に「観光客の姿が邪魔だ」と思うと、絶対に人の姿は無くなりません。むしろ混雑していくことでしょう。
タイミングや時間をずらして、その時に撮影しようとすれば、撮影したい対象のまわりに人影が無くなる状態に遭遇することが多いです。もし、それでも人の姿が気になったら〝次回の参詣で撮るわ〟ぐらいの気持ちでいました。〝また参詣する理由ができた〟と、ある意味喜ばしい決断に繋がっていくものだと考えています。

いやーっ、良き天候といい、このタイミングといい、鑑真からの素敵なプレゼントでしたね。

帰って来てから、この記事をまとめている時、いろいろと調べながら新たに知ったことが幾つもあります。
西室跡の北端にあった「鑑真の住房跡」。
旧開山堂があったところで、建物があったことがうかがい知ることができるエリアなのだそうです。

次回の参詣では、この「鑑真の住房跡」に注目しようと考えています。
また、唐招提寺に参詣する動機と楽しみが定まりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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