山城国西寺跡(京都府)

都を訪れると、だいたい「東寺」(教王護国寺)に立ち寄ります。
時間的な制約があって寄らなかったこともあるハズですが、そんな記憶は残っておりません。
また、東寺に寄ったからといって必ずしも講堂の「立体曼荼羅」を拝観することはなく、この前(2021年末)の様に、売店に帝釈天を迎えておしまいにしたこともあります。
行動パターンとして、武蔵国へ帰還する時の最後に寄ることが多いので軍資金が乏しくなっているのでね。この前(2021年末)なんて、帝釈天を連れ帰ったことで財布の中に千円札数枚しかなかったんですよ。
パワー・スポット巡りぢゃないのです。神仏と遊んでくるのがとても楽しいのです。

これは2020年末のことでした。
いつもの如く、東寺を訪れました。「立体曼荼羅」の面々と遊び、達筆なおばちゃんから素敵な朱印を幾つも貰って大満足でした。
これまたいつものパターンになっていますが、徒歩で六孫王神社(ろくそんおうじんじゃ)に向かいます。だいたいその後、東寺に戻るのですが、この時は「東寺に車を停めて、歩って西寺(跡)に行く」という遊びを思い付いちゃいました。
そんなんでしたからね、何も調べずに感覚だけで西寺(跡)に向かいましたよ。東寺西門通りを直進すれば到達すると思って・・・。
こんな時ってフィーリングで行動すれば上手くいくものですが、いろいろと遊び、疲弊していたものですから携帯の地図を使ってみました。普段はほとんど使わないのですがね。
これが・・・失敗でした。
唐橋平垣町に新しくできた「西寺」へと誘われてしまったのです。
地図で上から見ると〝近い〟のですが、実際に現地を歩って方向や通りを間違えると、精神的かつ体力的なダメージを受けてしまいます。
少々迷子になりながら、何とか辿り着きましたよ。

近所の子供たちや、親子連れが憩いの場としていました。
「西寺跡」という表示があるとばかり思い込んでいたため、「唐橋西寺公園」という名称の中の〝西寺〟を認知することができませんでした。

京都市が設置した案内板です。

史跡に住むと、制約が生じるとなっ。
「ある程度は・・・」とは思っていましたが、案外窮屈ですな。
気を付けることにしましょう。

公園の真ん中に土壇が形成されていますが、公園の中央がかつて「金堂」が建っていたのだそうです。

ホントに「東寺は遺っているが、西寺は無くなってしまった」程度の知識しか持たないまま訪れましたのでね。
西寺境内をまわって見たくなってしまいました・・・が、体力的に限界でした。
なので、かつての西寺を愛でるのは、またいつぞやの機会にしましょう。

市民の方々が入らぬ様に、タイミングをはかりながら石碑に接近していきます。
再現でしょうが、土壇はしっかりしたものでした。

親子連れが、なかなか長い間、この場所を占拠していたので邪魔をせぬ様に迂回しつつ、接近していきました。

漸く碑の近辺が空いたため、歩みを進めます。

うわっ、碑の近くに礎石があるっ。
おっ、向こうにも礎石があるっ。
一般の方には理解されないのでしょうが、平安京に遷都した桓武天皇が奈良の坊主たちを拒んだものの、呪術的な装置として造らせた〝片翼〟があったのですよ。
気分が徐々に盛り上がってきました。

碑自体はそうでもないのでしょうが、取り敢えずは正面から撮ってみました。
 「史蹟 西寺阯」

遺跡名「平安京跡・史跡西寺跡」
京都市南区唐橋西寺町65番地

「大正十五年六月」に建てられた碑だそうな。1926年のことですと。

「大正十年三月」(1921年)に「内務大臣」の指定を受けたとあります。
この内務大臣とは・・・床次竹二郎(とこなみたけじろう)でした。
原敬内閣・高橋是清内閣と継続して内務大臣を務めていますね。

斜めに傾いた礎石が居ましたよ。
この剥き出しになっている礎石、創建当初からこの場所に居たという訳ではなさそうです。
でも、柱を支える礎石って、手間が掛かっていることが判りますよね。この様に石を削って整形するのは大変ですよ。

イイ感じで遺っている礎石が居ました。
先ほどの「史蹟 西寺阯」碑から、ちょいと離れています。

見事な円が整形されています。
この上に、どの様な柱が立てられていたいたのでしょうかね。
イメージしているよりも礎石が少のうございました。

                                        (Googleマップ 航空写真より)

もともと仰山あったであろう礎石は、様々なところに連れて行かれてしまったのでしょうな。今もどこかの建物を支えているのでしょう。
西寺の礎石ではなくなってしまっても、別の場所で何百年も建造物を支えていると考えれば〝凄いこと〟です。
さらに、現在の西寺跡に遺っている礎石たちも、原位置ではないかもしれませんが埋まっていたことによって西寺境内跡に「居た」(遺された)ことは〝凄い〟ことです。

この土壇、いつの成形かは調べていませんが、往時の西寺を想像するには充分なステージでした。

創建時もしくは復元された建造物があれば、それを介して歴史を想像してみますし、今回の西寺の如く〝失われてしまった建造物〟であったとしても現存する痕跡と、その場所が醸し出す雰囲気を混ぜ合わせれば、知識・情報も組み合わせてなかなか楽しめるのですよ。

また西寺跡に行ってみようと思いました。
その時までに色々と西寺について調べておきます。
平安京に出向く機会は暫くありませんがね。

 

 

 

 

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