特注 「瓜実剣」黒漆塗合口拵

これからご覧に入れるのはは上杉神社所蔵の上杉家伝来「瓜実御剣(うりざねのぎょけん) 黒漆塗合口拵」を意識した、短い両刃の剣です。

東京国立博物館『特別展 日本のかたな 鉄のわざと武のこころ』(1997)や高山一之氏『日本刀の拵 高山一之作品集』(2006)を参考に、以前紹介した特注〝スーパー山鳥毛〟や〝スーパー姫鶴〟をお願いしました。
これらの特注依頼の過程で上杉家伝来の刀剣についての関心が高まり、武装商店・店主様からご教示いただいていた竹村雅夫氏『上杉謙信・景勝と家中の武装』も繰り返しで参照し、特注で製作可能なものを検討していました。

幾つもの魅力的な刀剣があるため
〝どこまで再現できるか?〟
〝どういったアレンジができるのか?〟
・・・を店頭で相談にのっていただきながら現在も考えています。
どうしても著名な山鳥毛一文字や姫鶴一文字の印象が強いため、太刀拵や打刀拵を中心に考えていました。

すると武装商店・店主様から
「職方と〝上杉の瓜実剣〟をつくろうという話があるんですけど、興味あります?」
という素敵な提案が。
ただ「瓜実剣」を知らなかった(短い物は考えていなかった)ので、
「それって、どんなんです?」
と気の利かない問い返しをしてしまいました。
そこで『上杉謙信・景勝と家中の武装』の該当写真を示していただき、
「興味ありますっ」と即答しました。
さらに製作期間については断言できないことと、だいたいの制作費予想についてを確認し、件の製作に取り掛かっていただきました。

そうして納品していただいたのが此方です。

                               (画像は「武装商店」様よりご提供)

本歌に準拠した、若干小振りな両刃の剣です。

長尾景虎は1548(天文17)年、齢(よわい)19で長尾家の家督となります。
1550(天文19)年2月26日、越後国守護であった上杉定実が死去したことで、越後国守護家上杉氏の血筋が途絶えました。これを受け2日後の2月28日に長尾景虎は室町幕府13代将軍足利義藤(義輝)より白傘袋(しらかさぶくろ)と毛氈(もうせん)鞍覆(くらおおい)の使用を許可されました。これは幕府から越後国守護、すなわち越後国の主たる待遇を与えられたことを意味しています。

〈 足利義藤御内書 〉『上杉家文書』三‐1117
爲白傘袋・毛氈鞍覆
礼、太刀一腰・鵝眼三千疋
到来、神妙、猶晴光可申候也、
  二月廿八日  (花押)
     長尾平三とのへ

〈 大覚寺義俊書状 〉『上杉家文書』三‐1115
白傘袋・毛氈鞍覆御
免事、愛宕護下坊申付、
達 上聞候処、則被成
御内書候、大館左衛門佐副状迄
相調下進之候、弥属本意、
遂在京、可抽忠功儀肝用候也、
穴賢穴賢、
  二月廿八日  (花押)
    長尾平三とのへ

大覚寺義俊(だいかくじぎしゅん)は近衛尚通(このえひさみち)の次男で、大覚寺34代門跡です。義俊は、愛宕山下坊幸海に指示し足利義藤(義輝)への取り次ぎをさせて御内書を下してもらったとあります。

1550(天文19)年2月28日付で足利義藤(義輝)御内書が発給されていますので、2日前の上杉定実の没よりも以前に長尾景虎の白傘袋・毛氈鞍覆の使用許可交渉は進められていたことが判ります。室町将軍家足利義藤女房消息に「なかう申候くらおふいかさふくろの事、うけたまハり候」(『上杉家文書』三‐1114)とありますから、景虎側からの要請によるものでした。この政治工作は1527(大永7)年の父・長尾為景にならったもので、幕府から守護に準ずる格式を得たことになります。

〈 愛宕山下坊幸海書状 〉『上杉家文書』一‐437
態令啓上候、仍白傘袋毛氈鞍覆事、先々御赦免御由緒ニ候、然而、當御代武勇御名譽依有其聞、兩樣御免之儀被仰出候、雖楚忽之儀候、愚僧事、從爲景御代致御祈念事候、就中、 殿中有好 上意之趣、尤以目出由令馳走候、因茲、則被成 御 内書走路、殊大覺寺御門主、次大舘左衛門佐殿被添御狀候、旁御面目之至候、雖可被差下 上使旨候、御國亂後萬端御事茂付而、可爲御造作候間、申留候、委細猶花藏院幷神餘殿可被申達候、恐惶謹言、
 (天文十九年)
  三月吉日         幸海(花押)
 長尾平三殿
     參人々御中

愛宕山下坊幸海は、越後長尾氏とは長尾為景の代から祈禱を請け負っていた関係で、足利将軍家とも親しい付き合いを有していました。大覚寺義俊から長尾景虎への白傘袋・毛氈鞍覆の許可が下りたことを知らされた幸海は、速やかに景虎へ書状をしたためます。この書状には「白傘袋・毛氈鞍覆の許可にあたっては御由緒による」のですが、景虎の「武勇御名譽」は京都にまで聞き及んでいるため免許が将軍家より仰せ出されたことが記されています。

 

『上杉御年譜』一(謙信公 巻二)によれば1552(天文21)年4月23日、長尾景虎は従五位下・弾正少弼に叙任されたといいます。『上杉家文書』には室町幕府関係者への返礼、叙位任官を斡旋をした大覚寺義俊(「御官途之儀申沙汰候、 御内書被相調候、近比御面目之至、珎重存候」:『上杉家文書』一‐450)からの連絡といった、この時の関連文書が多数収められています。

 

『上杉御年譜』によると、長尾景虎が越後国を発ったのは1553(天文22)年閏2月とありますが、これは誤りだと指摘されています。同年9月までは信濃国川中島において甲斐武田氏との戦闘が散発していたためです。長尾景虎は11月に和泉国堺、12月には大徳寺と交渉を持っており、上洛時期は秋~冬であったと考えられています。

〈 後奈良天皇綸旨写 〉『上杉家文書』一‐459/『上越市史』別編1 上杉氏文書集一‐102
平景虎於住國幷隣國挿敵
心之輩、所被治罸也、傳威名子孫、施
勇德万代、彌决勝於千里、宜盡
忠於一朝之由、可令下知景虎
給者、依
天氣言上如件、ゝゝゝ(権中納言奉)
 天文廿二年ゝゝゝ(四月十二日)
進上 広橋大納言殿

上洛前の長尾景虎のもとへ、後奈良天皇の叡慮(えいりょ)が届けられました。
長尾氏は本姓が「平」(たいら)なので長尾景虎のことを「平景虎」と表記しています。
景虎が越後国及び隣国の敵を治罸したことを賞揚し、朝廷のために忠誠を尽くすことが命じられました。
長尾景虎からしてみれば前年(1552)の関東管領上杉憲政からの「越山」要請、この年(1553)8月の第一次川中島の戦いという様に越後国の外ヘと活動の場を展開していく時期に当たっていました。この、いわゆる「治罸」綸旨もしくは「決勝」綸旨を獲得したことによって長尾景虎の軍事行動は正当性を備えることになります。〝軍事行動の正当性〟とはいっても敵対勢力が不利になったり弱体化したりすることはなく、景虎が国衆に対する支配を強めたことに繋がっていくと考えることができます。

 

先に触れた様に、長尾景虎が初めての上洛を果たしたのは1553(天文22)年の秋~冬であろうと考えられています。
この初回の上洛において、長尾景虎は後奈良天皇と接触することができました。

〈 後奈良天皇宸筆女房奉書 〉『上杉家文書』三‐1188/『上越市史』別編1 上杉氏文書集一‐111
先度景虎
御覧せられ候、御釼
御盃たひ候につきて、別而
奉公いたし候へきよし
申候、神妙におほしめし候、
殊長々在京之事、御
感の事にて候よし、
仰きかせられ候へく候、
    廣橋中納言とのへ

これは後奈良天皇の宸筆(しんぴつ)と考えられている、梅・花菖蒲・朝顔・蔓草などを描いた華やかかつ美しい紙が用いられた女房奉書といいます。
長尾景虎は御所に参内し、勾当内侍(こうとうのないし:女官)から叡慮を伝えられた広橋国光(ひろはしくにみつ)の饗応をうけたそうです。
長尾景虎の参内は、景虎の身分(従五位下)によって天皇の謁見を賜るという形式のものではありませんでした。内裏の見学が許可され、おそらく広橋国光の誘導がなされたのでしょう。そこに偶然、後奈良天皇が通りがかって景虎を「御覧」になったという演出がなされた様です。この時、天皇は景虎へ「御釼・御盃」を下賜したとあります。景虎はこの拝領に対して天皇へ「別而奉公いたし候」と奏上し、天皇を喜ばせています。

後の文書(弘治2年6月28日付長慶寺宛長尾景虎書状 『上越市史』別編1 上杉氏文書集一‐134)となりますが、

 ・・・剰先年物詣之刻、参内、天盃御剣頂戴之、父祖以来始而如斯仕合、寔名利過分至極候、其外御免之儀共雖多之候、委細被知召候上、不及申達候、・・・

と、後奈良天皇からの御剣・天盃の拝領を〝父祖以来始めてかくのごとき幸せ、まことに名利過分の至極〟と感激した心情を長く持っていた様です。

長尾景虎が後奈良天皇より頂戴した「御釼」(ぎょけん)とは、
 鎌倉時代の制作
 短剣 無銘(豊後瓜実:ぶんごうりざね)
 黒漆合口拵
 長さ 6尺2分
 紫金襴の袋入り
というもので、上杉神社に伝来しています。
『上杉家刀剣台帳』には、御重代三十五腰の内と記されています。

こうした経緯によって後奈良天皇が長尾景虎に与えた「御釼」をイメージした
 「瓜実剣 黒漆塗合口拵」
を観ていきましょう。

柄頭は、この剣の専用に製作した水牛製です。
柄巻がありませんので、そのまま装着しています。

 

柄は細めの籐巻がなされており柄糸は勿論、目貫・目釘も無い状態となっています。

短めの柄は立鼓をとり、見事な千段巻状の一分刻みに仕上げ、張り気味の柄頭と縁は薄い角製の物を嵌めています。

 

縁金具はありませんが、この様に柄と鞘はピッタリと隙間の無い合口拵となっています。

 

柄・鞘は黒のカシュー漆で塗られています。
全体が漆黒のたたずまいとなっており、目釘や栗方はありません。

 

鞘尻は、少々広がりを見せたものになっています。

 

鯉口は剣であるため、鎺の形に合わせてこの様な六角形の形態になっています。

 

抜き身はご覧の通り両刃の剣で、直刃の二重刃文となっています。
制作当初は、もう少々大きいものを想定していたそうですが、形態調整の過程で細身の剣身になってしまったといいます。
それでも、シルエットは本歌に基づいていますので、あまり気にはなっていません。
本歌は細い樋が入っているのですが、此方は樋を入れない鎬造りとなっています。

持ってみると軽いので、ジュラルミンもしくはアルミの刀身を削り出しての成形かと感じています。

 

刀身を横から見ると、薄刃仕上げになっていることが判ります。
勿論、斬れません。刺突・切断の力が強そうに見えますけれどね。

 

切先を拡大した画像です。
樋無しの鎬造りですので小振りながらも迫力があり、本物の剣身っぽく見えてしまいます。

 

 

鎺は、この剣用に製作された六角形・金色無地の物が装備されています。
上杉家伝来ということで〝隙間の無い〟鍔無しの合口拵が再現されていることがこの画像からもお判りいただけるでしょう。

 

図録『特別展 日本のかたな 鉄のわざと武のこころ』はホント、素晴らしい太刀・打刀拵と刀身の写真集です。なかなか入手は困難になってしまっていますが、ご興味をお持ちの方はタイミングをうかがって手に取って見てください。
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