紀伊国隅田八幡神社(和歌山県)

都合をつけまして、紀伊国に行ってきました。

武蔵国川越から大和国までは、だいたい6時間を切るって感じになっています。
大和国から河内国・摂津国、もしくは大和国から紀伊国という経路をとれば〝そんなに遠くない〟という認識になっていました。
紀伊国まで大凡600km超でしたのでね。
慌てること無く、だいたい時速100kmをキープしたら・・・眠たかったり、腹減ったりとありましたので8時間ほど経過しちゃいました。

到着したのは「人物画像鏡」で著名な紀伊国「隅田八幡神社」にございますよ。


大駐車場を利用しようと考えていたのですが、カーナビの言う通りに進んだら神社の横っちょに着いちゃいました。
小さい駐車場がありましたのでね、そこに車を停めて境内へと向かいました。

坂を下りて、門の前まで移動しました。

 

紀伊国隅田八幡神社
 〒648-0018 和歌山県橋本市隅田町垂井622
 電話番号 0736-32-0188


全く道路について無頓着なので、何処でどの様に進むかなんて気にしていません。
〝ケガの功名〟的に、八幡神社の直ぐ側の駐車場に辿り着いたのは幸運でしたよ。

心地好き青空でしたのでね、八幡神社に立ち入るのに気持ちが高揚していきました。
神社の説明では「随神門」だそうです。

ワクワクしながら石段を上っていきます。


随神門を潜る前、門を見上げました。

あらっ、天井に龍(ドラゴン)が居るっ!
「河越御所」は龍(ドラゴン)と相性が宜しいのでね。
嬉しい出逢いでしたよ。


随神門には「八幡宮」の額が掛けられていました。

 

そのまま、天井の龍(ドラゴン)を見上げると

龍(ドラゴン)の全貌は、こうしたものでした。
 「雲龍」(うんりゅう)
と名付けられているのだそうです。
左下の端に
  「昭和廿九年壹月
     客殿南峰画之」
の墨書があります。
 「客殿南峰」(きゃくでん なんぽう)氏
は、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある隠れ家古民家カフェ「Cafe 客殿」様のお爺ちゃまだそうです。


「雲龍」のお顔に注目しますね。

歳を重ねた龍(ドラゴン)に見えますね。
迫力のある眼をしておられます。
彩色も良好であると評価されていました。

気になるのは、「雲龍」が描かれた板が釘で打ち付けられていること。
釘が錆びると板にも影響がでてしまいますからね。

素敵な「雲龍」のお姿、これからもず~っとこのままでいてくださいな。


随神門、つまり随身門ってことでね、中を覗いたところ

瑞神門、向かって右側が「左大臣」(画像で左側)、向かって左側が「右大臣」(画像で右側)が控えておりました。
左右は、参拝客からみてのものではなく、境内の神からみての左右となっております。

 

この画像だけ見ると、「左大臣」が口を開けているのが判ります。
これだけを見ると気持ち悪いのですが、「左大臣」は口を開けて〝物事の始まり〟を、「右大臣」は口を閉じて〝物事の終わり〟を表現しているのです。
「阿吽」、金剛力士像や狛犬などと同じですよ。



随神門の真ん中から、外側の方向を見ています。


にも「雲龍」が、問の外側へと飛び出して行きそうな感じですね。
描かれたのは昭和ということですが、躍動・生命感の強き龍(ドラゴン)ですね。



手水舎には二頭の龍(ドラゴン)がっ。

失念してしまいましたが、どちらかが井戸水、もう一方が水道水を出しているのだそうです。
近付くと、センサーが始動してミズが流れる仕組みとなっています。

背後には案内板が設置されていました。

「 隅田八幡神社 御由緒
 神功皇后が外征後、御帰朝の際、筑紫を発し紀
伊の衣奈浦(日高郡由良街)を経て大和の都に御
還幸の途次、輦をこの地にとめ滞留なさせ給いし
旧跡にして、欽明天皇の詔により貞観年間(八五
九~八七七)に八幡宮が勧請された。のちにこの
地が石清水八幡宮の社領となり、当神社を「須田
の別宮」と称した。
 長治二年(一一〇五)須田荘内の豪族で須田党
(須田一族)の祖・長(のちの藤原・須田)忠延が
当神社の社務を司る俗別當職となり、次いで須田
荘の荘官である公文職にも任じられた。その後代
々両職に任じられ、鎌倉時代以降は須田党の氏神
として社頭堂塔も備わり、祭式を厳にして栄えた。
 永禄三年(一五六〇)松永弾正久秀の攻略によ
って社殿が焼失、慶長年間に再建され、江戸時代
になると須田松一六か村の産土神として反映し、
紀州藩主徳川氏が累代厚く崇敬した。社殿は、文
政二年(一八一九)焼失するが、同五年には再建
される。今も壮麗で往古を偲ぶことができる。
 明治時代の神仏分離で当神社の神宮字の大高能
寺が分離される。大正五年県社になる。
     「すだのはちまんさんn」
 古くは「八幡宮」「八幡社」とも。昭和二十六
年宗教法人法により「須田八幡神社」に。
                         」

〝欽明天皇の詔により貞観年間(八五九~八七七)に八幡宮が勧請された〟はねえ・・・。
欽明天皇は古墳時代(倭国)の〝すめらみこと〟ですし、貞観とは日本の平安時代前期・清和天皇の治世の年号ですよ。
時間軸の整合性が損なわれている表現ですので、手直しされるのがよろしいかとぞんじますよ。

二頭の龍(ドラゴン)、角の角度に違いが生じていました。
容姿は双子の様ですね。


視点を変えると

手前の龍(ドラゴン)の角に修理の痕跡がありました。
全国の神社の手水舎/手水所に据えられている龍(ドラゴン)の多くは破損しています。
自然に破損した事例もあるでしょうが、折ったらイカンでしょ。


・・・まぁ、それらは扨措きっ。
隅田八幡神社の拝殿が見えてまいりました。

「何時か参拝したい」と思っていましたからね。
感動でしたよ。


雲はありましたが、何とも爽快な青空なのでしょう。

祝日のことでしたから「日の丸」が掲げられていました。
穏やかに流れていましたよ。

参拝客は、他におりませんでしたよ。


拝殿の前には

狛犬がおりましたよ。
何時の生まれなのでしょうかね?
今後は、調べてみますね(笑)。



白い布は〝向こう側〟(本殿)と繋がっている様ですが、

引っ張りませんでしたよ。
「河越御所」にとって八〝幡神は味方〟なのでね。
ガツガツせずとも、心配には及びませんの。



ふと見えゲルと

派手なことはありませんがね、洒落た佇まいだこと。
強く主張していないところが、またよろしい。


因みに本殿は、廻ことができる造りでした。

秋の到来を感じる紅葉(もみじ)ですなぁ。



本殿の反対側には

「人物画像鏡」のモニュメントがドッド~ンと構えておりましたの。
この大っきい「人物画像鏡」に逢いたかったのです(笑)。



他の参拝客に聞こえない様に・・・ほとんど人は居ないのですが「うゎおゥ」って声が出てしまいましたよ。

だって、この迫力っ!

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」

「癸未年八月 曰十大王年 弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣歸中費直穢人今州利 二人等取白 上同二百畢作此竟」
         (共にフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

銘文の読み方や解釈には諸説ありますが、ここではそうしたことは置いといて、すんごく忠実に造り込まれている巨大モニュメントに感動です。

売店(授与所)で、お手頃サイズを販売すべきですよっ。
購入しますから、製造・販売してくださいな。



この「人物画像鏡」モニュメントと、その周辺はこんな感じになっています。

ステンレスの案内板にも丁寧で詳細な解説が載せられていました。
また、次に参拝した時に触れますね。



解説よりかも、巨大モニュメントそのものに興味がありましたからね。

巨大モニュメント、横から見るとかなり分厚いっ。
そして大っきい(笑)。

小さいとね、大和国天理市立黒塚古墳展示館の間にあった三角縁神獣鏡レプリカみたいに全滅してしまいますからね。
これでイイ(笑)。



気になったのは

巨大モニュメントの台座、裏側に不可思議な金属板があったことです。
  「若しや、この中に本物の人物画像鏡が居るのか」
とも思ってみたのですが、本物の「隅田八幡神社人物画像鏡」は東京国立博物館に寄託されているそうですよ。
いやっ、そんなん騙さ・・・。

一旦、落ち着きましょうね。
この中は、どうなっているのでしょうか。


境内を徘徊していると

石燈籠に鹿が居ましたの。
若しやコレは、大和国春日大社の〝お下がりネットワーク〟の一員なの・・・。


ひと通り境内を満喫した後、そりゃ古墳に向かいますわな。
一旦、随神門から下りて古墳へと進んでいきます。

 

ここら辺だと赤味がかった葉が晴天と相俟って

明るく美しい景色でしたが・・・



段々と〝秋の装い〟が消えていきました。

 

八幡神社の境内とは、違った雰囲気になっていきました。

そりゃ、古墳に向かっていますからね。
「敵」ぢゃないのに、雲域が張り詰めていきます。
何ってこったい。



晴れているのに、光が射しているのに

とても、冷ややかな感じ。



通路がありますのでね、そりゃ進みますよ。

決して拒絶されている様な雰囲気ではありませんが、緊張感は高まっていました。
でも、歩みは進めるのですよ。

 

往来は可能ですがね、斜めになっている木が境界なのでしょうかね?

 

上の方が朽ちているのにねぇ。
この近辺を行ったり来たりして、古墳の様子を観察しました。
ここから墳丘へ上ろうという気持ちにはなりませんでした。
〝こっから入ってはいけない〟という感じでしたのでね。


この通路を突き進むと、大駐車場へと辿り着きました。

一台の乗用車が停まっていました。
かなり広い駐車場でした。
Googleマップでも、その様子が判りますよ。


駐車場から坂を上ると

大きな道路沿いに「須田八幡神社」の看板が立てられていました。

武蔵国に帰還してから、改めて調べてみたところ、大駐車場の方から民家の横っちょを通ると石室のある場所に到達できるのだそうです。

いやぁ、こりゃ再度「須田八幡神社」を参拝せねばなりませんなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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