連休ということもあり、金剛峯寺前の大駐車場は満杯でした。
大型バスから、たくさんの観光客が下りてきては金剛峯寺へと向かっていきました。
金剛峯寺は、人の流れが落ち着いてから・・・と考え、周辺を散策しました。
そうですね、壇上伽藍の方へとまわって時間を過ごしました。
その前に、金剛峯寺の大駐車場の裏手に石造「こうやくん」が居ましたのでね、記念撮影をしました。
バランス良く、造り込まれていました。
拝観入口の横に繋がる「会下門」(えかもん)を素通りし、鮮やかな紅葉(こうよう)を撮ってきました。
緑の中で「赤味」を強く主張している木々が印象的な高野山でした。
横側から入る「会下門」(えかもん)の前です。
正門側よりも勾配が緩やかですので、足腰に不安をお持ちの方々は、こちらから参詣されるとよろしいでしょう。
「会下門」を前にしています。
江戸時代末期の1865(慶應元)年頃の再建だそうですよ。
ここを潜り抜けると
拝観受付入口が左側になります。
晴天でしたので、他の場所を見て廻ろうと考えまして、この時は金剛峯寺への拝観はしませんでした。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が母・大政所(なか)の追善供養のために建立し、秀吉朱印状により1594(文禄3年)年頃に「青厳寺」(せいがんじ)の呼称となっていたことが推測されています。
「大玄関」にございます。
一般の観光・参詣客は、ここから入ることができませぬ。
内側の彫刻が、これまた繊細なのですよ。
内側からだと、玄関内の様子を楽しむことができます。
出ちゃダメですよ。
「大玄関」の上部には、なかなか大きく写実的な龍(ドラゴン)が一体居りますの。
この龍(ドラゴン)が居るからでしょうか?
金剛峯寺の上空、雲の動きが変則的なのです。
ほ~らねっ、雲が・・・って言おうとしたら、ゾッとする様な青空でした(笑)。
「大主殿」には屋根に繋がる梯子が駈けられ、屋根の上には「天水桶」(てんすいおけ)が設置されています。
高野山の建造物が火災と隣り合わせであった歴史がうかがえますね。
現在の金剛峯寺は1863(文久3)年の再建だそうですよ。
ちょいと彼方此方を廻って、また金剛峯寺の境内に立ち寄りますと
ほらっ、雲が不思議な常態になっておりました。
もっと上を見ると・・・具体的に何っとは謂えませんが不思議な雲の形であることは共感いただけることでしょう。
ねっ、龍(ドラゴン)がその気になれば
金剛峯寺の上空で、雲が不思議な流れを見せるのですよ(たぶん)。
「正門」から出て、
振り返ると、こんなに人がいっぱいっ!
まぁ慌てずともね、数日間は高野山に滞在する予定でしたので、人混みを避けて参詣すればイイやと考えました。
そ~したら、次の日は・・・雨天でございました。
別の場所に寄ってから、金剛峯寺に到達したところ
観光・参詣客はおいでではございましたが、こんな感じ。
雨の日の金剛峯寺も、また乙なのでした。
金剛峯寺「正門」まで、ほぼ人影は在りませんでしたよ。
「正門」を潜り抜けると、前日とは打って変わっての曇天っ!
どうした、龍(ドラゴン)?
何故に雨を降らせる?
石畳に沿って「大主殿」の正面から観しています。
こうした常態でも、観光客はおいでなのですよ。
「大玄関」を正面から観ています。
結局、この日の降雨は、龍(ドラゴン)の仕業という訳では無く・・・出掛けていた空海が高野山に帰ってきたことを知らせるものだったと言います。
その話は、また別の機会でね。
「大玄関」を斜めから。
皆様、殆どが主殿の広間に気を取られてしまうでしょうが、「大玄関」の内側をご覧ください。
江戸時代末期の大工たちが精魂込めた彫刻を楽しむことができます。
現代人には到底無理な作品ですよ。
さて、拝観入口を通過し、拝観手続きを済ませ、朱印をいただき主殿の中を進んで行きます。
「金剛峯寺」の額。
松の絵が描かれています。
その横には
嘗ては奥之院に映えていた霊木なのだそうですよ。
伐られちゃったのは、如何なるきっかけなのでしょうかね?
樹齢は2870年なのだと謂います。
日本列島は縄文時代を間もなく終える頃、大地に生えたことになりますね。
主殿の内部、通路です。
右手側は広間が続き(大広間)、左手側は外になります。
原則、広間側は撮影禁止となっています。
ここは、空海坐像が納められているところです。
普段は厨子の扉が閉ざされています。
開帳される機会もあるというのですが、そのタイミングに合わせて参詣するのは難儀です。
「海老虹梁」(えびこうりょう)と称される、高低差のある箇所に用いられた湾曲した梁はり()です。
因みに、以前の探訪エンターテイメント部門「紀伊国金剛峯寺」の記事では、反対側の視点から観察していました。
木製の大型三鈷杵がありました。
触って良いものですよ。
因みに奥之院・燈籠堂の地下には金属製の大型五鈷杵がありますの。
持ち上げることはできませんがね。
「梅の間」にございます。
写真撮影禁止ということですのえ、
通路の反対側から、控え目に「梅の間」の雰囲気が伝わる様に心掛けました。
「梅の間」の襖絵を撮ろうというものではありませぬ。
関白を辞任した羽柴秀次が自刃したと伝わっています。
でも現在の金剛峯寺は1863(文久3)年の再建ですからね。
建造物の構造は往時のものに倣っての再建だと謂いますが、この場で羽柴秀次が自死した訳ではありません。
この目に見えている空間ではありませんが、特殊能力(笑)があれば〝秀次の自刃〟場面を見ることができるかもね。
「新別殿」に向かっています。
この回廊を進んで行くわけですが、左手側には
狭きながらも枯山水。
箒目がしっかりしています。
直線と円形の箒目、キレイですよね。
こちらも同様、直線の箒目をつくってから、円形の箒目をつけているのでしょう。
そのあと、どの様にして箒目を崩さずに脱出(笑)したのでしょうか。
法力かっ(笑)・
この箒目っ、凄くないですか?
これって将に〝日本人のこころ〟を象徴する箒目ですよね。
「新別殿」に向かって射ますが
立入禁止エリアには、全く殺気を持たない「こうやくん」が立ち塞がっています。
武器も持たずに、任務を遂行しています。
「別田」の縁側から
「蟠龍庭」(ばんりゅうてい)を臨んでいます。
こちらも箒目がキレイですね。
立ち位置・角度を変えることで枯山水は、表情を変えてくれます。
去年(2024年)末の参詣時は、雪が残っていました。
溶けていく雪と枯山水のコラボレーションは素敵でしたよ。
今回(2025年霜月末)の参詣では、純粋に枯山水を堪能しましたよ。
寄道しましたが、漸く「秦別田」に到着です。
休憩所となっている大広間ですよ。
大広間の入口・横には、〝伍萬圓に値上がり〟してしまった「弘法大師御尊像」です。
黒色の厨子/金色の厨子の2種類がありますが、納まっている「弘法大師御尊像」は同じです。
「河越御所」は昨年(2024年)末、公共交通機関を利用して高野山に滞在し、その折りに黒色の厨子ヴァージョンをお迎えしました。
紀伊国高野山との結び付きを強固なものとする為に必要でしたのでね。
長期間の滞在によって高野山に順応したため、金色の厨子ヴァージョンを購入しそうになってしまいました。
危ない危ない・・・恐るべき密教の力(笑)。
大広間の上座、空海正三と兩回曼荼羅が掛けられていました。
大きな曼荼羅は、金剛界・胎蔵界の両方を揃えたいですね。
「河越御所」は寺院ではありませんがね(笑)。
この床の間の左手側に
空海のを師匠「恵果」(けいか)阿闍梨の像が御座します。
以前は別の場所に御座しましたが、ここ数年はこの場所に安置されていますね。
「河越御所」は「恵果」阿闍梨を尊敬していますのでね。
紀伊国高野山には空海に逢うために参詣しているのですが、こちらの「恵果」阿闍梨に逢うことも参詣の目的に入っているのですよ。
毎回、感動しておりますの。
売店で買い物し、金剛峯寺をあとにします。
外に出たところ、雨は止んでいました。
青空も見えていましたよ。
雲が何かのメッセージを表現しているのでしょうかね。
残念ながら、そういった力を有しておりませんので判りませぬ。
紀伊国高野山の記事は、未だ未だ続くのですよ。
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