山城国蓮華王院本堂(京都府)

蓮華王院本堂(通称「三十三間堂」)の中身も楽しいですが、今回は外側(本堂の外観)を観察していきます。

駐車場入口から境内に立ち入り、受付を目指します。
この受付棟と境内入口の普門閣は、1992(平成4)年の「後白河法皇八百年聖忌」記念事業として建立されたものだそうです。
何度か訪れているのですが、受付棟や普門閣に関する記憶、そして画像は撮っていませんでした(今回もですが)。

蓮華王院本堂
〒605-0941
 京都府京都市東山区三十三間堂廻り657
 電話 075-561-0467

受付で手続をして、普門閣内の売店に行きます。
朱印をいただき、図録等を購入しました。
その後、本堂の中に入り千手観音たちや二十八部衆たちと再会しました。
千手観音たちの整然と立ち並ぶ姿、圧巻でしたね。
写真撮影が禁止されているので、本堂内陣の様子をここに掲載することはできませんが、南もしくは北側の横から、千手観音の足下を反対側(南→北/北→南)を観て楽しみました。
堂内はなかなか混雑していまして、特に外国人観光客の姿が多かった様に感じます。

今回は本堂の外観をメインに考えていましたのでね、早々に外へ出ましたよ。
本堂の内部は撮影禁止ですが、外観に撮影規制はありませんのでね。
たくさん画像を撮りましたよ。

普門閣・裏にまわり込み、本堂西側に観ています。
左手側が売店が入っている建物です。
売店の窓から見えるのが、西側の広縁となります。
夕方の拝観でしたので、西日が差していました。

 

北の方から西側の広縁を観ています。

蓮華王院は1164(長寛2)年、鳥部山麓(現在の阿弥陀ヶ峰)に拡がっていた後白河院政の拠点である離宮「法住寺殿」内に平清盛が創建・寄進した建造物でした。
蓮華王院の名称は、本尊・千手観音の別称「蓮華王」に因んでいるのだそうです。

 

地面に下りて、目線がほぼ広縁の高さになっている画像です。
背が高い建物ですが東向きの単層で、和様の入母屋・本瓦葺となっています。
南北118.2m(外陣含三十五間、390尺)、他では見ることの無い横長の建造物ですね。

平清盛が保元・平治の乱を勝ち抜き、更に〝白河院の落胤〟という公然の秘密という背景もあって武士として初の太政大臣に就任、その財力を以て当時蜜月関係にあった後白河院のために資材提供して建立したものです。

 

近付いて広縁が見えるようにしてみました。
西側の広縁は、残念ながら通常は立入禁止です。
昔の「通し矢」は西側広縁の南側から北側(こちら側)に向かって放った様です。

本堂は、残念なことに1185(寿永4/元暦2)年の「元暦の大地震」によって倒壊してしまいました。1191(建久2)年になると源頼朝の支援により再建されました。
しかし更に不幸なことに1249(建長元)年の「建長の大火」では本堂・五重塔を始めとする伽藍が焼失してしまいました。
1266(文永3)年には朝廷と幕府の協調関係に心を砕いた後嵯峨上皇の治世に本堂のみですが再建されました。
これが現在、我々が目にしている三十三間堂にございます。
その後何度も修理はなされていますがね。

 

石段が中央部分です。
ここが湛慶らの手による中尊・千手観音坐像が御座しますところですね。

蓮華王院は現在天台宗寺院で、七条通の坂をのぼって左折、女坂(豊国廟への入口)の左手側に所在する妙法院の飛地境内ということで、妙法院が所有・管理をしているそうですよ。

 

中尊・千手観音坐像の背中を観ている状態です。
心眼でお姿をとらえてくださいな。
せっかくなので、そのまま後退りをし

 

スマホ搭載のカメラでワイド写真を獲りました。
こうした遊びが、とても楽しいのです。

 

本堂に近寄って、普門閣の方を見ています。
向こう側が、売店の窓です。

広縁に上がってはいませんよ。
石段のところから撮っています。
受付棟はスケール・ダウンしながらも、この構造を模して造られているのです。

 

またまた本堂から離れ、南側を観ています。

こうして部分的に見ても、横長な建造物であることが判りますね。
板樋が開いているところに向かいます。

 

板樋が開いているところから、南側を観ています。
この画像では判り辛いのですが、昔(徳川家光の治世)の「通し矢」で軒に刺さってしまった矢が映っています。
次回の参詣では、はっきりと映っている画像を撮ってきますね。

 

縁板の下に注目しています。
1930(昭和5)年、「昭和の大修理」で本堂の解体修理がなされたといいます。
この解体修理について、情報がありませんでな。
今後、いろいろと調べていこうと考えております。

基盤がそれ程に古きものではないのが見て判りますね。
万が一の為の防災設備も設置されています。

 

縁板のアップにございます。
鎌倉時代中期の再建から、ず~っとここに居たのでしょう。
歴史を感じさせる重厚な存在感がございます。
次回の参詣では、もっと詳しく観察しておきますよ。

 

日の当たり具合ではなく、修理によって屋根瓦も色合いを変えております。

 

石段の辺りを堺に、瓦の色味が違うております。
本堂の楽しみ方、どんどん増えてまいりますな。
こうしたところも、今後もっと詳細に確認しましょう。

 

南側に到達しました。
まぁ、善き晴天に恵まれながら蓮華王院を楽しんでおりました。
あらっ、南側で工事がなされていましたよ。

 

地盤工事ですかね。
縄・紐?が垂らされているので、案外気を遣う作業なのでしょう。

 

次に参詣する際には、この工事も完了していることでしょう。
その時は本堂の南側に接近してみますね。
こうして画像を見返すと、午前の早いうちと午後の遅い時間では日陰が強くでてしまうことが判りました。
訪れる時間も考慮しなければなりませんね。

 

東の広縁には「禁止入内」の表示が置かれていました。
上がる人なんて居な・・・居るんでしょうなぁ。

 

日陰で暗くなった分、東側の広縁は古びた様に見えています。
板扉は開けられていますが、障子は閉まっています。
道内に明かりを取り込む為ですね。

 

こちら東側が、正面になりますからね。
障子を開け放てば、理屈上は一千一体の千手観音他の姿が外からも見える訳です。
開けたところを見たいものです。

 

さぁ、本堂の正面に来ました。東側の中央部分です。
この出っ張り部分は「向拝」(ごはい)と称し、七間あります。
逆光でもありましたが、夕方だと東側を撮影すると斯様になってしまいます。

 

観光客の姿がありましたのでね、見えない様に撮影しました。
石段がありますがね、外からは立ち入りができない様になっています。
ここは法要・行事専用の「特定入堂口」となっております。

 

本堂内では、どうしても格子障子の向こう側にズラリと並んでいる千手観音+二十八部衆に気を取られてしまいます。
あの壮観であれば、当然ですよね。
ところが、障子の方に意識が向くと「向拝」に出ることができることに気付きます。
次回は時間に余裕をもって「向拝」にて、緩りと楽しい時間を過ごそうと思います。

 

「向拝」の向かって右側に来ています。
鎌倉期の復元ではありますがね、本来ここは〝後白河法皇の祈りの場〟として造られたものです。
この「向拝」の対面には「法住寺」・後白河法皇法住寺陵がありますのでね、死してもなおのこと後白河法皇は蓮華王院本堂を排していることになります。
ちょいと向き+位置がずれちゃっていますがね。
恐らく後白河院からすれば、それは大した問題ではないのでしょう。

 

時間制限がありましたのでね、この場を立ち去り難き感を表現するための画像です。
もっと「向拝」周辺を詳細に観察したかったのですがね。
でも、また参詣する理由ができたことは嬉しきことです。

 

出口に向かっていく途中、東側の広縁を撮っておきました。
西側は各間の高いところに連子窓がありましたが、東側は障子+板扉になっていますね。
書籍などで説明がなされているのでしょうが、実際にこうして目の当たりにすると東西面の違いが印象に遺り、記憶できます。
次回の参詣で、なすべきことが増えました(笑)。

 

蓮華王院本堂。
内側も楽しいのですが、外側も着眼点を変えながら楽しむと半日以上の時間は想定しておかないといけませんな。

 

 

 

 

 

 

 

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