甲斐国武田神社~景徳院(山梨県)

最近、〝心のゆとり〟が全く無くて更新が滞ってしまいました。
なので、奮起して甲斐国に出向いてきました。

まずはじめに、これまで何度か訪れている「武田神社」(武田氏館跡/躑躅ヶ崎館跡)です。
雲ひとつ無い晴天、空が青い。

 

武田神社
〒400-0014
山梨県甲府市古府中町2611

なかなかな参拝客数でしたが、ちょっとタイミングを見計らって、この様に人影の無い画像を撮影することができました。やっぱり、空は青いっ。
季節柄でしょうか、いつも風にたなびいている、いわゆる〝風林火山〟の旗が撤去されていました。これはこれでスッキリとして、良き光景です。
また、鳥居の向かって左に宝物館の武田軍旗展示案内が立て掛けられているのですが、それも撤去されていました。今回は時間の兼ね合いから宝物館は寄りませんでした。

神橋で足を止め、水堀の様子を見てみました。
神橋からそれぞれ左側、右側の画像です。水堀は躑躅ヶ崎館の東・西・南側に巡らされています。
旧大手門(躑躅ヶ崎館の本来の大手門)から拝殿前の二の鳥居手前のラインよりも北側は空堀が巡らされています。

次回訪れる時は、〝武田神社の境内〟ではなく〝躑躅ヶ崎館の遺構〟を隅々まで堪能しようと考えています。

 

神橋を渡ったところに「右近乃橘」「左近乃櫻」が配されています。
これは平安宮の紫宸殿前庭に植えられている桜・橘に因んでいます。
左近は左近衛府、右近は右近衛府の略称です。朝廷における儀式を挙行するにあたり左近衛府の官人は紫宸殿の東方に、右近衛府の官人は紫宸殿の西方に陣を布き、それぞれの陣頭の辺りに桜・橘が植えられていたといいます。

 

石段を登り、石造の一の鳥居をくぐります。
飾りっ気のない社額よりも、澄み切った青空に目が向いてしまいます。
躑躅ヶ崎館の往時には、此方からの入口は無かったといいます。
綺麗に積み上げられた石垣も神社創建にあたる整備の産物ですから、中世の武士居館の面影を示すものではありません。

一の鳥居から二の鳥居を結ぶ、参道の様子です。
人影が少ない様に見えますがこれは偶々で、実際は水堀沿いの駐車場は満車状態になる程に参拝客が訪れていました。

参道に立てられた灯籠。武田菱がしっかりと刻まれています。

 

手水舎の水鉢は武田神社ならではの武田菱を象っている特徴的なものになっています。
コロナ感染対策により一部改修され、2020(令和2)年7月15日より柄杓を使用しないスタイルに替わったのだそうです。
不幸中の幸いといいますか柄杓が無いことで、武田菱の姿が際立っています。

 

二の鳥居から拝殿を見ています。記念写真を撮影されている参拝客が多く、この角度からの撮影になってしまいました。

タイミングを見計らって、人影無しで拝殿を正面から撮影できました。
この〝人影無し〟の画像が撮影できる状態は3~5秒程度の間です。
人の流れを観察しながら、祈願し終わった方が正面から立ち去った瞬間に拝殿正面に進み撮影しました。普通のデジタル・カメラなので1枚しか撮ることができません。
もちろん、ちゃんと並んで手を合わせて参拝をしましたョ。

「武田菱」尽くし。

 

神符授与所で朱印をいただきました。
朱印授与窓口前には、以下の様な朱印の案内が立てられています。

通常の朱印をお願いしようと思っていたのですが、待っている時に「切り絵の朱印」2種類も気になってしまい、通常+切り絵2種の合計3種の朱印をいただきました。

その後、売店(授与所)の反対側で、以前も紹介した「武田軍旗」を5本購入しました。
別の機会に、たまった「武田軍旗」について記事をまとめる予定です。

朱印授与窓口の反対側では、

『図説 武田信玄公~一族興亡の軌跡~』が壱万七千円で販売していました。
今回は見送りましたが、これは是非とも次回購入せねばっ。

その横には、

ソフトな甲斐武田氏に関する書籍が販売されていました。
地方史を学んだり調べたりする際には、専門書は勿論ですが、こうした現地で刊行された書籍もかなり役に立ちます。
今回は、他にも色々と立ち寄る予定がありましたので軍旗5本のみにしておきました。
これからも武田神社には出向く予定ですので、書籍はその折りにでも。

 

二の鳥居から一の鳥居を見た画像です。
一の鳥居から真っ直ぐ伸びている道の様子も撮影しておくべきでした。それもまた次回に。

 

武田神社をあとにし、次は「地元山梨の味を大切にする創業126年の和菓子店」竹屋あさかわ様に立ち寄り、生クリーム大福他を購入しました(2/23更新記事をご参照ください)。

 

その後、11:30前後に昼食をとりました。7・8年前に偶々立ち寄った店を訪れました。
「甲州ほうとう小作」様の石和(いさわ)駅前店です。
「石和」(いさわ)は、室町時代の甲斐武田氏の守護所が置かれていたエリアです。
他にも店舗があるのですが、上記の理由で石和駅前店を選びました・・・というのは創作で、以前訪れた時の雰囲気が良かったからです。
入口の横には水車があります。ちびっ子たちが居たので、姿が入らないようにカメラを上に向けて撮影しました。これまた空が青いっ。

休日だったので混雑時を回避するため11:30あたりに店へと入りましたが、ほぼ満席状態になっており、店員さんが少ない態勢だったこともあり少々待たされました。
休日は11:00頃に到着・入店するとよろしいでしょう。

献立表(メニュー)の外側はこの様になっています。
事前に何を頼むかは決めていたので、注文はスムーズでした。
3名で行き、熊肉・猪肉(ししにく)・鴨肉ほうとうをそれぞれ頼み、小豆(あずき)ほうとうは皆で分けました。ひとりで小豆ほうとうはキツいかも知れませんが、シェアすれば味変ができて、またおしるこ的なデザートとして無理なく食すことができました。

地域限定「山梨のもも」クラフトチューハイのところで「ほうとうにぴったり!」とあったので注文したかったのですが、車の運転がありましたので我慢しました。土産物店で探そうと思ったのですが失念してしまいました。

ほうとうの食後、デザートで「いちごアイス」をシェアしました。

苺の芯をくり抜いて練乳を注ぎ凍らせたもので、ほうとうで熱くなった口にとって美味でした。
会計後に店の外に出ると、広めの駐車場は満車状態で、車が出て空いても直ぐに次の車が入ってくるような混雑でした。人気店なので、時間を考えて訪れることをお勧め致します。

 

次に向かったのが、戦国大名・甲斐武田氏終焉の地「景徳院」です。

景徳院(田野寺)
〒409-1202
山梨県甲州市大和町田野

景徳院の総門です。
総門をくぐって石段を上り、左折すると参道が続きます。
参道の左側は個人宅が並んでいます。

総門突き当たりを左折すると、この様に緩やかな坂道と石段があります。
この画像の真ん中に見える石段を上った所を右折します。
右側の傾斜に石段が設けられていますので、これを上がっていきます。

普段、勾配が厳しく長い石段を上っているので、この景徳院の石段は慌てなければ息切れすることはありません。

山門が見えてきました。

武田菱が施された景徳院の山門です。
主要伽藍は何度か火災で焼失してしまったそうですが、この山門は類焼することなく県指定有形文化財となっています。

山門の右手側には金剛力士・阿形が、左手側には金剛力士・吽形が立っています。
なかなかな大きさの金剛力士像です。

本堂手前右側にある鐘楼です。

景徳院の本堂です。
武田菱の入った幕が張られています。
季節柄でしょうか、どこも扉は閉まっていました。
庫裏で声がけをすれば朱印をいただけるということを帰ってから知りました。
次回はその様にしようと考えています。

 

朱印をいただければ有り難いと考えていましたが、今回の目的は3つの「生害石」をこの目で見ることにありました。
写真では総門~山門・本堂へと歩みを進めたかの様にまとめましたが、実際は車で境内の駐車場まで進み、本堂に行く前に生害石の所へ行きました。

景徳院は初めての訪問でした。
以前(2・3年程前)、甲斐国を訪れた時、時間があったので景徳院を訪ねようと思ったのですが空模様が怪しくなり、また「武田勝頼最期の地に行こう」という気持ちでいたら〝行かない方がよい〟という感じを受けました。
そういった事もあったので今回は、最初に武田神社に詣でて武田氏・武田軍の気を纏った上で戦国大名・甲斐武田氏の終焉地を目指したのです。軍旗も用意しましたからね。
功を奏したのかは判りませんが、良き天候に恵まれ、景徳院まで順調に辿り着くことができました。

駐車してから、特に意識はしていなかったのですが、真っ先に生害石のある場所へ進んでいました。

ネットで所在地などは調べますが、あまり詳細な情報は調べずに現地に向かっています。
今回は、まるで誘われたかの様に生害石に向かっていました。そこに生害石があるということは知りませんでしたからね。

 

武田勝頼の生害石。

勝頼は、武田晴信と諏方(諏訪)頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳)の間に生まれた庶子(四男)です。諏訪氏の名跡を継ぎましたが、晴信嫡子・義信が自刃させられたことにより晴信後継となったといいます。

記載情報の取り扱いに注意を要する『甲陽軍鑑』の品第十七・巻第八にある永禄10年前後の家臣団状況を伝える「武田法性院信玄公御代惣人数之事」において、「御親類衆」では武田信繁・武田信廉に次いで三番目に勝頼が名を連ねており、武田信繁・勝頼・一条信竜・木曽義昌・穴山信君の5名は直属200騎で武田軍の主力をなしていたことが判ります。

同じく『甲陽軍鑑』品第四十下には、

一、永禄十丁卯年に太郎義信(公)自害ましくて後は、信玄公跡をつぎなさるべき惣領御座なし。然共又其年、誕生ある四郎勝頼公ノ嫡子を信玄公(御)養子に被成、吉田左近助をもつて御使として、此御曹司を太郎信勝(公)と名付参せられ、武田の主代行平の御太刀、左文字の御腰物をゆづり、武田廿八代目と相定らるゝ。子細は、四郎勝頼「公」母は諏訪の頼重むすめ、勝頼「公」御前は美濃国岩村殿とて、織田信長姨の息女也。四郎が父は苟も信玄なればいづ方へたよりても是は然べしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと、今の御曹司有之。さありて此太郎信勝(公)七歳にて、信玄公にはなれまいらせられ候間、(御遺言に)信勝(公)廿一歳迄十五年の間、父勝頼公に陣代と有事也。
               (磯貝正義氏・服部治則氏 校注『改訂 甲陽軍鑑』新人物往来社)

と記され、また1573(元亀4)年に武田晴信(信玄)病没に関連して『甲陽軍鑑』の品第卅九〔信玄公逝去付御遺言之事〕には、

 跡の儀は、四郎むすこ信勝十六歳の時家督(と定ル)なり。其間は、陣代を四郎勝頼と申付候。但武田の旗はもたする事無用也。まして我そんしのはた・将軍地蔵の旗・八幡大菩薩の小旗、いづれも一切もたすべからず。太郎信勝十六歳にて家督(し)初陣の時、尊師の旗斗残し、よの旗は何も出すべきなり。勝頼は如前、大文字の小旗にて(罷出べし)。勝頼差物法花経の縨をば典厩に譲候へ。諏訪法性の甲は勝頼著候て、其後是を信勝に譲候へ。典厩・穴山両人憑候間、四郎を屋形のごとく執してくれられ候へ。勝頼がせがれ信勝、当年七歳になるを、信玄ごとくに馳走候て、十六歳の時、家督になをし候へ。
              (磯貝正義氏・服部治則氏 校注『改訂 甲陽軍鑑』新人物往来社)

とあります。

『甲陽軍鑑』では、勝頼の嫡子・信勝を武田晴信(信玄)の養子にして武田家督を継がせ、諏訪氏の血筋である勝頼は信勝の「陣代」で、「武田の旗」「そんしのはた・将軍地蔵の旗・八幡大菩薩の小旗」の使用は禁じられていました。また武田晴信(信玄)の象徴的な「諏訪法性の甲」は勝頼の着用は許されたものの、信勝へ譲渡する指示が添えられています。
そして「御親類衆」武田信豊と穴山信君には勝頼を「屋形のごとく」扱わせ、信勝が16歳になった時に「家督になを」すことが指示されています。

1571(元亀2)年、武田晴信(信玄)は正式に勝頼への家督相続を本格的に考えたといいます。この年の2~3月頃に勝頼は高遠から甲府に移ったと考えられ、4月に武田晴信は一色藤長に宛てて足利義昭へ御料所、一色藤長へ所領進上の約束をすると共に勝頼の官途および足利義昭からの偏諱授与を依頼しました。実現はしていませんが、これらを契機として〝諏方勝頼から武田勝頼へ〟の名字変更がなされたと考えられています。

しかしながら、武田家臣団は
 ・武田氏領国を拡大してきた、武田晴信個人に従う意識の強い者たち
 ・官僚的な役割を担った武田家に仕える意識の強い者たち
 ・高遠城主・勝頼が形成した諏訪氏家臣団たち
という3種の閥が存在し、官僚的な者たちが相対的に地位を向上させる中、晴信を奉じる家臣団と勝頼家臣団の反目があり、勝頼の家臣団統制は困難を極めました。

戦国大名武田氏の滅亡は、単に勝頼が〝暗愚であった〟からと結論付けるのは少々酷な評価です。1575(天正3)年の三河国に於ける長篠の大敗以降も外交政策の展開により領国経営の立て直しを図っています。しかしながら足利義昭が暗躍して形成した〝信長包囲網〟が体を成さなくなっていたことで織田信長が徳川家康と共に外交戦略に基づく武田領国侵攻が可能になったことなど、幾つもの歴史事実が勝頼側にとって不利に作用していきます。

戦国大名武田氏の滅亡に至るまでの経緯については
 鴨川達夫氏『武田信玄と勝頼‐文書にみる戦国大名の実像‐』岩波新書1065(2007)
 笹本正治氏『武田勝頼‐日本にかくれなき弓取‐』ミネルヴァ書房(2011)
 丸島和洋氏『戦国大名武田氏の家臣団‐信玄・勝頼を支えた家臣たち‐』教育評論社(2016)
 平山優氏『武田氏滅亡』角川選書580(2017)
 丸島和洋氏『武田勝頼‐試される戦国大名の「器量」‐』平凡社(2017)
などをご参照ください。

『甲陽軍鑑』(新人物往来社)によれば、
 土屋殿矢尽て刀をぬかんとせらるゝ時、敵鑓六本にてつきかくる。勝頼公土屋を不便に思召候や、走寄給ひ左の御手にて鑓をかなぐり六人ながら切ふせ給ふ。勝頼公へ鑓を三本つきかけ、しかも御のどへ一本、御脇の下へ二本つきこみ、押ふせまいらせて御頸を取候。
                    (史料は横書きにしたため、一部表現を改めています。)

 土屋昌恒が矢が尽きて刀を抜こうとした時、織田軍の放った鑓6本が突き刺さりました。それを不憫に思った勝頼が走り寄り左手で荒々しく鑓を抜き取り、織田軍の兵を6人切り伏せました。すると勝頼に織田軍から鑓3本が放られ、1本が勝頼の喉へ、2本が脇の下に刺さりました。勝頼は押さえ込まれ、首を取られてしまいました。
と、その最後を描写しています。

勝頼の乳母で、武田信友(信虎弟)の娘によって記されたという『理慶尼記』(清水茂夫氏・服部治則氏校注 『史料叢書 武田史料集』新人物往来社)によれば、

 いづれのうち物ぬきもちていでたまひ、さんざんにたゝかいたもふ。 土屋兄弟三人も、おなじくたゝかいければ、さきへとすゝむつは物お、ことことく 滅したまえば、あとなる勢はこれを見て、つゝゑていたりければ、よき時刻ぞとおぼしめし、いかに土屋、敷皮おなおせ、御腹召さるべしと仰せければ、うけたまわると申て、御敷皮たてまつり、御介錯まいる。なおらせたまゑて、御辞世とおぼしくて、かくこそえいじたまひけれ。
  △朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端
あそばしければ、土屋とりあへず、かくこそ申参らせけれ。
  △俤の みをしはなれぬ 月なれば 出るも入るも おなじ山のは
 そのゝち毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、即成就仏心と、この文の唱えさせたまいて、御年三十七と申スには、田野の草葉の露ときえさせたもふ。土屋御死骸にいだきつき、軈御とも申スべしとて、ふかくなみだにしづみける。
                    (史料は横書きにしたため、一部表現を改めています。)

 (織田軍が迫ってきたので勝頼一行は)皆が武器を手にし、散々に戦いました。土屋3兄弟も全力で戦いました。織田軍の先頭に進み出た兵たちを悉く討ち取ったので、後続隊はこの様子を見て攻め込んでこなくなりました。勝頼は好機到来と感じ、土屋昌恒に敷皮を直せ、腹を切ると言いました。土屋昌恒は勝頼の命令を承り、敷皮を整え、介錯のの用意をしました。勝頼は座って、辞世の句を詠みました。
  △朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端
 (勝頼が)辞世を詠むと、土屋昌恒はすぐにこのような返歌を読みました。
  △ 俤の みをしはなれぬ 月なれば 出るも入るも おなじ山のは
 勝頼はその後に「毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、即成就仏心」と『法華経』の偈文を唱えて、享年37歳で、田野の草葉の露ときえてしまいました。土屋昌恒は勝頼の死骸に抱きつき、「やがて御供申します」と、泣き伏してしまいました。
と、勝頼が自刃して土屋昌恒が介錯したという描写をしています。

今回は2種の記録をみてみましたが、また別の機会に〝武田氏の滅亡〟を記録で追ってみようと考えています。

勝頼の生害石の左側には、

勝頼室・北条夫人の生害石。

実名は不詳ですが、北条氏康6女で、母は松田憲秀の娘といいます。

甲相同盟は武田晴信が1544(天文13)年に北条氏康と締結したものですが、1568(永禄11)年に駿河今川領侵攻によって破綻していました。しかし1571(元亀2)年の北条氏康没後に武田晴信・北条氏政の間で甲相同盟が復活しました。武田晴信没後も甲相同盟は機能しており、長篠での大敗北の後に勝頼が外交による領国再建を図り、1577(天正5)年に北条氏政の妹(北条夫人)が勝頼正室となり甲相同盟が強化されました。復活・強化された甲相同盟も、1578(天正6)年に越後上杉氏で発生した御館の乱の際に、勝頼が上杉景勝に加担したことにより再度破綻することになりました。

北条夫人は甲相同盟破綻後も勝頼のもとにおり、勝頼と命運を共にします。

『理慶尼記』(『史料叢書 武田史料集』新人物往来社)によれば、

 かくて、敵まじかくきたりたるよし申シければ、法華経五の巻たてまつれとめされて、御心しづかにあそばしたもふ。すてに御経も過けれは、勝頼土屋おめされ、みだい所の御最後の御介錯とおほせけれは、うけたまわると申して、御まいには出けれども、はじめて見たてまつるに、御としのころ、はたちのうちと見えさせたまひて、いろいろの装束めされ、容顔美麗のありさまに、むかしの楊貴妃、衣通姫、吉祥天女と申とも、かほどなまめいたる形ちはましまさじ。いづくへ剣お立て参らせんと、あきれはてゝいたりしに、御みづから御守り刀お抜かせたまいて、御口に含ませたまいて、うつむきにふしたもふ。勝頼此よし御らんじて、急きたちより御介錯おたてまつり、御死骸にいだきつき、しばしはものおも宣はず。土屋兄弟三人は、御ともの女房たちの介錯、とりどりににいたしける。
                   (史料は横書きにしたため、一部表現を改めています。)

 織田軍が迫っている旨を報告すると、北条夫人は『法華経』5巻を心静かに読み上げられました。既に読経が終わり、勝頼が土屋昌恒を呼び付け、北条夫人の介錯を命じました。土屋昌恒は命令を受けて北条夫人の前に参じたものの、初めて北条夫人の姿を見て、年の頃は二十歳未満の、色鮮やかな装束をまとう、美しき容貌であったため、介錯をためらってしまいました。すると北条夫人は自身で守り刀を抜き、口に含んで俯きに伏して自害なされました。勝頼はこの様子を見て、急いで北条夫人のもとに寄って介錯しました。勝頼は北条夫人の死骸に抱きつき、しばらく言葉を発しませんでした。土屋3兄弟は、北条夫人に殉ずる御供の女房たちの介錯をしてまわりました。
と、その最後を描写しています。

 

勝頼・北条夫人の生害石の対面には「甲将殿」(こうしょうでん)が建てられています。

非公開ですが、内部には勝頼・北条夫人・武田信勝の坐像が祀られているそうです。

甲将殿の裏には、左から武田信勝の五輪塔、勝頼の宝篋印塔、北条夫人の五輪塔が並んでいます。

 

甲将殿の手前右側にある、武田信勝の生害石。

晴天で暖かかったのですが、勝頼の生害石を見ていた時は位置(木陰になる)・方角などもあって〝暗い〟印象を受けました。しかし武田信勝の生害石を見ていると、眩しいくらいに陽射しが入ってきました。石の上に置かれたアルミニウムの一円玉数枚がその光を強く反射していたのが印象的でした。

1579(天正7)年11月16日に勝頼は武田信勝へ元服準備を命じ、この年の内に武田信勝の元服が実現したと謂われています。

さて『甲陽軍鑑』(新人物往来社)によれば、

 勝頼公仰らるゝ、信勝はお旗・楯なしを持て山通武蔵ノ国へ出、奥州までものがれ候へとあり。信勝(公)聞食、勝頼公は北条氏政の妹聟にて御座候間、氏政馳走申さるべく候程に勝頼公(は)御退候へ。我等は当年十六歳にて十年已前信玄公御遺言のごとく御家督を申うけ(候間)、是にて腹を仕リ申べきと仰られ、(切て中々)退給はん気色少も無御座候。・・・(中略)・・・左に土屋殿弓をもつて射給ふに、敵多勢故か無の矢一ツもなし。中に勝頼公白き御手のごひにて鉢巻をなされ、前後御太刀打也。御右は信勝公十文字の(鑓をもつて三度突崩し、三度目に討死有に、後は)鑓をすて御太刀打也。

 勝頼が武田信勝に話しました。「(武田氏の)お旗・楯なし(の鎧)を持って山中を通り武蔵国に出て、陸奥国まで逃れるように」と。これを武田信勝は聞いて「勝頼公は北条氏政の妹聟であるので、北条氏政に支援を求めるために退却してください。自分は今年16歳となり、10年も前に信玄公遺言の通り武田氏家督となったのだから、ここで腹を切ると言い、落ち延びる気は全く無いとのことでした。・・・(中略)・・・(勝頼の)左側には土屋昌恒が弓を持って矢を放ち、多勢の織田軍に当たらない矢はありませんでした。中央に勝頼が白い手拭いで鉢巻きをし、前後と太刀で戦いました。(勝頼の)右側では武田信勝が十文字の鑓を持って戦い、鑓を捨てて太刀で戦いました。
と、武田信勝の死直前の奮戦の様子が描写されています。

『理慶尼記』(『史料叢書 武田史料集』新人物往来社)によれば、

 やうやう勝頼御しがいにはかれたまい、のたもふやう、いかに土屋、みつから最後おも、おなじ時刻とおもへども、敵待合わんとおもふなり。みつから太刀おふる事は、家にそむける事なれど、所存のあまり、これなれは、くるしからじとおもふなりと、おほせければ、土屋うけたまわり、仰せ、まことに御ことわりなりとて、もふしける。又御子信勝にむかわせたまいて、みつからは、一栄一落、これ春秋たるが、汝無惨なれ、いまだよわひたらざれば、武田の家にも直らずして、たゝかくなることは、いまた蕾める花の、春にもあはずして、嵐にもまれ、落るがごとし。無念なりとのたまへは、信勝きこしめし、につこと笑わせたまいて、いやこれはくるしからす。こゝにたとへのそうろうなり。しうじうのせんねん、ついにくちぬ。槿花の一日は、おのづから栄なおす。疾も遅くも残らめや、とのたまひて、かくこそ詠じたまひけれ。
  まだき散る花とおしむな おそくとく ついに嵐の 春の夕暮
とあそばしければ、勝頼聞こしめしかんじたまひ、おとなしや、いかなる心さまかなと、おほしめしいりたまいて、深き御なみだにむせびたまひて、御返事のわきまえずして、おわします所え、敵きたりければ、いづれのうち物ぬきもちていでたまひ、さんざんにたゝかいたもふ。

又信勝の御介錯に、弟の土屋まいる。これもなほらせたまひて、御辞世と覚しくて、かくこそえいじたまいける。
  あたに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほとは 春の夜の夢
弟の土屋、うけたまはり、とりあへずかくこそえいじ参らせける。
  夢とみる程もおくれて 世の中に あらしのさくら ちりはのこらし
とぞ申シける。おとゝのつちや見たてまつり、いつよりも、美しくまします物や。ほゝいく眉に、薄化粧、いろいろの装束は、揚梅、桃李の花ひらき、きりのまに弓張月のいる風情、たゝ此世の人とは見えさせたまはず、天人の影向かとおほしくて、ゆきの肌あらはれ、何方へ剣をたて申さんとも、おもほへかたくていたりしに、願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆具成仏、我人成仏と、此文を唱へさせたまひて、御年十六さいにて、おなじのべの草葉の露と、消えたもふ。弟の土屋御死骸にいだきつき、しばしきゑいりけるとかや。
                  (史料は横書きにしたため、一部表現を改めています。)

 勝頼は自害した北条夫人の遺骸を抱きかかえていましたが、土屋昌恒へ「北条夫人と最後を共にしようと思っていたが、残った者たちと敵を待ちたい。自ら太刀を振るう事は家名に叛く事になるが、熟慮の末でこれならば見苦しくないと思い直した」と言いました。土屋昌恒がこの発言に同意しました。また勝頼は武田信勝に向かって「自分は〝一栄一落、これ春秋〟であるが、信勝にとっては無惨だ。信勝は年齢も若く、武田家当主にも就くことなく、ただこのようになってしまうことは、未だ蕾のままの花が、春を迎えることなく、嵐にもまれ、落ちてしまうかのようだ。無念だ。」と言うと、武田信勝はこれを聞きニコッと笑って、「いいえ、辛くはありません。〝松樹の千年、ついに朽ちぬ。槿花の一日は、おのづから栄なおす〟の喩えもあり、早くとも遅くとも残るものではありません。」と答え、このような歌を詠みました。
  まだき散る花とおしむな おそくとく ついに嵐の 春の夕暮
 勝頼はこれを聞き、武田信勝の成長と覚悟に感動し、涙に噎びました。
すると織田軍が迫ってきたので、皆で武器を取り、散々に戦いました。
 また、武田信勝の介錯に、土屋昌恒の弟(秋山源三)が参じました。武田信勝は
  あたに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほとは 春の夜の夢
と辞世を詠み、土屋弟は直ぐに返歌を詠じました。
  夢とみる程もおくれて 世の中に あらしのさくら ちりはのこらし
 土屋の弟が最後の時を待つ武田信勝を見るに、いつにも増してとても美しくこの世の者とは思えず、天人の来臨かと思うほどで、雪のような白肌のどこに刀を当てようかと途方に暮れていました。武田信勝は「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆具成仏、我人成仏」と『法華経』の回向文を唱え、年齢16歳にて野原の草葉の露と消えてしまいました。土屋の弟は武田信勝の死骸に抱きつき、悲しみのあまりに暫く気を失ったといいます。
と、描写されています。

『信長公記』(近衛家陽明文庫写本〈角川文庫ソフィア〉)によると、

 武田太郎齢は十六歳、さすが歴々の事なれば、容顔美麗、膚は白雪のごとく、うつくしき事、余仁に勝、見る人あつと感じつゝ、心を懸けぬはなかりけり。会者定離のかなしさは、老ひたるを跡に残し、若きが先立つ世の習、朝顔の夕べをまたぬ、唯蜉蝣ノ化命なり。是また、家の名を惜み、おとなしくも切つてまはり、手前の高名名誉なり。

 武田信勝は16歳、さすがに良き家柄で育ったこともあり、顔立ちも美麗で、肌は白雪のようで、容姿は優れていました。武田信勝の姿を見た者は感動し、思慕しない者はありませんでした。この世は無常、老いたる者をあとに残して若者が先立つことはよくあることで、朝顔が夕暮れを待たずに凋み、人の命は蜉蝣のように儚いものです。武田信勝もまた家の名誉を守り、武田氏の当主らしく奮戦しました、その技量・武功は立派なものでした。
と、記されています。

武田側・織田側ともに、武田信勝については絶賛した評価となっています。

偶々撮れたこの画像の様に、健在であれば、スポット・ライトが向けられるような人物だったのかも知れません。

坂道を下っていくように誘う「没頭地蔵尊」への案内がありました。
身を任せて、案内に従って進んでみました。

武田信勝・生害石を暫く見ていた時、観光客の老夫婦が降りていったので、時間をおいて降りてみました。

 

「没頭地蔵尊」の前に着きました。扉が開けられていました。参拝時間以外は扉が閉められているようです。
この田野の地で自害した北条夫人、自刃した武田信勝、討死したとも自害したともいわれる勝頼の遺骸が埋葬され、後に地元の人びとが首の無い3体の地蔵尊を安置したといいます。これが「没頭地蔵尊」と呼ばれている由縁です。

そのまま山を下りて総門横に出て、坂道を上りました。
「首洗い池」の表示があったからです。

「池」とありますが水が流れる小川で、現在は池の体を成してはいません。

湧水口には武田菱が刻まれていました。

案内板によると、この辺りが「首洗い池」ということです。
武田氏滅亡後、徳川家康が武田氏遺臣を吸収して景徳院を建立しています。
この景徳院がある小高い山とその周辺は、現在となっては、連綿と続いてきた〝甲斐武田氏終焉の地〟という切迫感・悲壮感を感じさせることが無い雰囲気になっています。
境内にある生害石も、それぞれの場で勝頼・北条夫人・武田信勝が自害したと歴史学の観点から断言するのは難しそうですし、遺骸埋葬地に没頭地蔵尊が据えられているという伝承がありますから、軍記物に描写されているような3者(勝頼・北条夫人・武田信勝)の終焉ポイントを確定することは困難を極めます。
ただ、山の上からも下からも攻め寄せられ、進退窮まった中での自刃(もしくは討死)という結末が痛ましいことは変わりありません。

 

 

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