真鍮製の馬蹄形「天下布武」印(近江国)

此方の「天下布武」印レプリカは、滋賀県立安土城考古博物館の中にある、レストラン&ミュージアムショップ「ムエール」様で購入致しました。

これまで滋賀県立安土城考古博物館には5・6度ほど訪れていますが、入口の右手前にあるガラスケースの中に〝見過ごすことができない〟お土産グッズが展示されているという印象が強くあります。

2年ほど前、息を切らしながら安土山に登頂し、安土城跡を満喫しました。
その時に博物館売店では過去の図録を、「ムエール」様ではこの真鍮製の馬蹄形「天下布武」印を購入しました。
以前訪れた際、1992(平成4)年のスペイン・セビリア万博に出展された原寸大・安土城天主の5・6階を展示する「信長の館」の売店で3,000円の「天下布武」印を購入していたのですが、その3倍超の価格である馬蹄形「天下布武」印は限定数販売だったと記憶しています。〝諭吉ひとり〟くらいであれば突発的な遭遇にも対応することができます。

それでは今回紹介する「天下布武」印を見ていきましょう。

金文字が施されていたり、焼印が押されていたり・・・ということは全く無い、桐箱に収められていました。ここら辺が限定数販売っぽい雰囲気です。

<img src=”天下布武.jpg” alt=”天下布武”/>

桐箱の蓋をあけると、敷かれた緩衝材の上に〝金色に輝く〟印が乗せられています。

画像は、箱から取り出して、いろいろな角度から見たものです。

大きめの画像で見てみましょう。
一個一個、手作業で削って整形したようです。機械できれいに整えたものではないところが、逆に味(趣き)を感じさせます。

いよいよ、印面です。

<img src=”天下布武.jpg” alt=”天下布武”/>

文書に据えられた「天下布武」印文が忠実に再現されています。

「天下布武」の印文を選んだのは、臨済僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)であると伝わっています。

織田信長が斎藤龍興を放逐して美濃国を制圧すると、宿敵・斎藤氏の居城であった稲葉山城を改修して「岐阜城」とします。
この〝岐阜〟改称は沢彦宗恩の助言によるものと言われています。
典拠となる史料に当たることができなかったので、滋賀県立安土城考古博物館が刊行した『信長文書の世界』(平成12年度秋季特別展図録)で紹介されている「天下布武」印に関する挿話を以下にあげます。

 ・『政秀寺記』中で〝四文字の印文〟の使用を織田信長が躊躇していたことに対し、沢彦宗恩が中国では四  文字印文はよくあることで、これを嫌うのは妄説だと指摘したといいます。

 ・「天下布武」印の実物は現存していません。『政秀寺記』には、織田信長が最初の天下布武印を黄金で作  らせたというのですが、文書に押印したところ印影が薄かったので、新たに銅を混ぜた金銅製の天下布武  印を新たに作らせて押印したところ、印影がはっきりとしたということが記されているそうです。

さて、織田信長が用いた印章ですが朱印と黒印が存在し、ともに印文は「天下布武」です。ちなみに黒印で1点のみ「寶」の使用例が存在しています。
織田信長発給文書の調査から、朱印が先に使用され始め、後に黒印の使用が始まり、朱印・黒印が併用されるようになったといいます。

故・奥野高廣氏は『織田信長文書の研究』(上下、補遺・索引:1969初刊/1988増訂版/2007オンデマンド版 吉川弘文館)で信長発給文書を蒐集・分析され、現在でもこの著作は信長研究の基礎史料と位置づけられています。
また滋賀県立安土城考古博物館が平成12(2000)年度秋季特別展の図録『信長文書の世界』で、おおよそ780通超と言われる信長発給文書の正文のうち200通余りを対象に調査結果をまとめています。

まず、「天下布武」の朱印状と黒印状の使い分けは判然としないといいます。
奥野氏『織田信長文書の研究』掲載の正文のうち、
   朱印状は435点
   黒印状は205点
であり、年代ごとにみても朱印状と黒印状の点数は同じ分布傾向を示しており、年代による変化や朱印状から黒印状への転機を見出すことは無かったようです。

 

「天下布武」印には大きく3つの変遷があり、

①楕円形の輪郭一重線で「天下布武」印文を囲ったもの。
  →この印の初見は、
   永禄10(1567)年11月日付 坂井利貞宛朱印状
    〈『織田信長文書の研究』上巻 (77)坂井利貞宛朱印状(『坂井遺芳』)〉
   です。

 

②馬蹄形の二重線で「天下布武」印文を囲ったもの。二重線の形態を2種類とする見解もありますが、ここで は1つということにしています。
  →この馬蹄形印の初見は、
   永禄13(1570)年3月22日付 山城国曇華院宛朱印状
     〈『織田信長文書の研究』上巻 (215)山城国曇華院宛朱印状(曇華院文書)〉
   です。
   この馬蹄形印の使用開始により、①楕円形印が使用されなくなります。
   ②馬蹄形印は、信長の没まで使用され続けています。

 

③二匹の竜が「天下布武」印文を囲ったもの。
  →この双竜形印は使用例が少なく、以下の13例しか確認されていません。『織田信長文書の研究』(以   下『文書の研究』と表記します)では、以下の文書になります。

 『文書の研究』下巻(712)天正5年5月10日付津田利右衛門尉宛朱印状(森文書)
 『文書の研究』下巻(721)天正5年6月24日付北監物大夫宛朱印状(福嶋家古文書)
 『文書の研究』下巻(723)天正5年7月10付狛秀綱宛朱印状(狛文書)
 『文書の研究』下巻(728)天正5年閏7月23日付伊達輝宗宛朱印状(伊達家文書一)
 『文書の研究』下巻(729)天正5年閏7月23日付遠藤基信宛朱印状(建勲神社文書)
 『文書の研究』下巻(749)天正5年11月21日付「やうしゆん院」宛朱印状(宮内庁書陵部所蔵文書)
 『文書の研究』補遺(189)天正5年11月23日付鷹司殿宛朱印状(鷹司家判物類)
 『文書の研究』下巻(751)天正5年11月27日付山城国松尾社宛朱印状(松尾神社文書五)
 『文書の研究』下巻(752)天正5年11月28日付土御門久脩宛朱印状(土御門文書二)
 『文書の研究』下巻(753)天正5年12月1日付山城国等持院宛朱印状(等持院文書)
 『文書の研究』下巻(708)天正6年4月9日付?勾当内侍葉室氏宛消息案(総見寺文書)
 『文書の研究』下巻(830)天正7年5月28日付近江国西光寺聖誉貞安宛朱印状(大雲院文書)
 『文書の研究』下巻(832)天正7年6月12日付筒井順慶宛朱印状(法隆寺文書)

という三段階を経ています。

日本近世史の山室恭子氏(東京工業大学工学院教授)は『中世の中に生まれた近世』(吉川弘文館1991、講談社学術文庫2013)の中で、
 ・織田信長は岐阜入城と共に印判状を登場させた。
 ・織田信長は安土移転と共に書状以外の文書の印判状化を徹底化させ、これと同時並行で文書の薄礼化・尊  大化を進めた。
ことを指摘されています。

 

さて、馬蹄形「天下布武」印レプリカの話に戻りましょう。

<img src=”天下布武.jpg” alt=”天下布武”/>

ひとつひとつ手作業で削り出している様なので、削りが入った部分に鋳巣はありません。

安土で購入しましたし、金属製ですし、1万円しましたし・・・でテンションは高まっていたのですが、じっくりと観察し始めると段々冷静になっていきます。

 

肝心な印面を見ました。鋳造ですから致し方無いのですが、「鋳巣」が目立つ箇所がありました。傷も数箇所認めることができました。個体差かも知れませんが、購入時に中を確認するようなこともしませんでしたし、価格面からも複数購入をすることはしませんでした。
もう、どうしようもありません・・・・・。

 

鋳巣箇所の修復は、
①合金粉を装入しての溶接、②硬鑞材を充填しての蠟接、③軟鑞材を流入させるはんだ付け、④樹脂を用いる充填、⑤鍍金(メッキ)で埋めてしまう、の方法があります。

現時点では、その技術を有しておりませんので、この「天下布武」印は桐箱に封じています。

 

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