山城国岩船寺(京都府)

南山城「当尾村」(とうのむら)、その昔は「小田原」と呼ばれた地域に「岩船寺」(がんせんじ)は位置しています。
岩船寺の山号は「高雄山」(こうゆうさん)、院号は「報恩院」(ほうおんいん)といいます。

南山城の地は、〝平城京の外郭浄土〟として東大寺・興福寺の高僧・修行僧の隠棲地とされ、仏教信仰や瞑想・思索の聖地であったと考えられています。
「当尾」(とうの)という地名は、多くの寺院が建立され、舎利塔が尾根を成していたことで「塔尾」と呼ばれたことに因んでいるといいます。

岩船寺
〒619-1133
京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43

岩船寺の歴史には不明な点が多く、近世に成立した『岩船寺縁起』を参照すると記述と歴史事実の齟齬が幾つか見られます。
岩船寺に現存する伝製品によれば、
 本尊・阿弥陀如来坐像…「(天慶)九年」(946)制作の銘文
 四天王立像…「正応六年」(1293)の銘文
 境外の石仏…「弘安・永仁・応長」の銘文
が確認でき、これらを踏まえると平安時代中期頃までには岩船寺が創建されており、鎌倉時代中期頃には復興活動がなされたと推測することができます。

 

山門の階段下、山門に向かって左側に位置している「石風呂」です。
〝風呂〟とはいいながらも浸かるのではなく、手足を洗う使い方をしていたと考えられています。

 

この画像の左上角の横っちょに小さい排水口も見えますね。
中世人のサイズからすると一人ならスポッと入りそうですが、寺院の門前ですからね。
現代人がイメージする入浴ではないことは明白です。

 

意外と観光客がいて、石風呂周辺で徘徊しながら人気が無くなるのを待ちました。
右側の道を進むと、かつて岩船寺・鎮守社であった白山神社・春日神社が鎮座していますが、今回そちらには足を延ばしませんでした。

 

階段を上って、いよいよ受付へ。

 

山門の向こうに「三重塔」が見えるっ。
些細なことですが、こうした風景に遭遇するのが結構楽しいのです。

 

駆足初詣なので、どうしても「冬期」の参詣となってしまいます。
拝観時間は夏期と冬期では微妙に異なりますからね、注意が必要です。

 

入山拝観の受付を済ませ、改めて山門の手前正面に立ちました。
岩船寺の文字の下に「紫陽花」(あじさい)が描かれています。洒落ていますね。

 

境内の奥の型に「三重塔」が見えます。
寺全体が森林に囲まれている感じです。

 

三重塔に向かっていくと左手側の脇道に重要文化財「五輪石塔」が据えられています。
元々は近くの岩船村落・北谷墓地にあったものを、1937(昭和12)年に村人たちが担いで岩船寺境内に運び入れたのだといいます。
由来は不明ですが、鎌倉時代後期に作られたと伝わり、反花座(返花座:かえりばなざ)を持つ大和式五輪塔の典型と位置付けられています。

 

五輪石塔の隣には「地蔵石仏」、一般に「厄除け地蔵」と呼ばれる石仏が安置されています。鎌倉時代末期に造られたといいます。罅割れた所を修繕した跡が確認できます。
こちらも岩船寺の近くから移されたと考えられており、廃絶してしまった塔頭の本尊だったのかもしれないと推測されています。

 

こちらは重要文化財「石室不動明王立像」です。
花崗岩の角柱が立てられ、上に寄棟造の一枚石を屋根として掛けられています。
奥の石壁の一枚岩には不動明王が刻まれており、眼病に霊験があるとされています。

 

不動明王の左右にそれぞれ「願主盛現」「応長第二初夏六日」という線刻銘文が確認されています。これにより「応長二(1312)年四月六日」に造られたことが判りますが、応長二年は3月20日に改元されて「正和元年」となっています。ですから、改元以前にこの不動明王像は製作済みであり、4月6日に開眼供養が予定されていたのであろうと考えられています。

 

三重塔手前の池は「阿宇池」。この池を中心に、本堂や三重塔が建てられています。
冬の参詣でしたので、こんな感じでしたが、季節を変えて訪れれば違う表情の三重塔を楽しむことができるでしょうな。

 

ちょいと左手に目を向けると、重要文化財「十三重塔」が建っています。
花崗岩で造られており、1314(正和3)年に妙空が造立したと伝わっています。

 

初層から水煙付の相輪に至るまで各層の屋根石が徐々に小さくなる様に整形され、意外に大きく見える工夫がなされています。
初重軸部の四面には梵字が彫られ、塔自体が金剛界大日如来と見立てられているそうです。
梵字は断面がV字型になる薬研彫りで、東面に「ウン」(阿閦如来)、西面に「キリク」(阿弥陀如来)、南面に「タラク」(宝生如来)、北面に「アク」(不空成就如来)が彫られています。
1943(昭和18)年に実施された石の積み直し修理の際、軸石の凹みから水晶の五輪舎利塔が発見されたそうです。

 

さぁ、いよいよ三重塔に接近しますよっ。
この三重塔は、2003(平成15)年に大改修がなされたため、朱色の鮮やかな姿をしています。
書籍などによっては改修前の〝渋い〟三重塔の姿を偲ぶことができます。
朱塗りは〝魔除け〟の意味もありますが、現実的には木材の虫喰いや腐食を防止する意図があります。

 

寺伝によれば承和年間(834~847)に建立されたといいますが、現存の三重塔は1943(昭和18)年の解体修理の際に丸桁に刻まれていた「嘉吉二(1442)年五月廿日」の銘文が発見されたことから室町時代の建立ということが判明しています。

 

白壁に朱塗の三手先組物、二軒繁垂木の緩やかなカーブの調和が見事な美しさを魅せています。

 

とても小さく写っていますが、各層の四隅に再現「隅鬼」の姿が見えまする。

1943(昭和18)年の解体修理の際、各階の四隅の垂木を支えていた「隅鬼」が取り外され、復元隅鬼に取り替えられました。
取り外された「隅鬼」は重要文化財として、現在は本堂内で見学することができるそうです。今回は本堂の内陣で阿弥陀如来坐像、裏側の普賢菩薩騎象像に集中していたため、隅鬼は見落としてしまいました。これでまた岩船寺に参詣する理由ができました。

 

三重塔をグルリと廻ることができるということで、登り坂になっている道を進んで行きます。

 

登っていくと建物の屋根が見えてきました。

 

鐘楼でした。反対側にまわってみると、

 

「報恩の鐘」という表示。
鐘を撞くことができますが、撞きませんでした。

 

三重塔の後ろ側を見ています。

 

三重塔、後ろの正面を見ています。
方向だけでなく、高さも変えながら塔の姿を愛でるのは貴重な体験ですな。

 

三重塔のまわりを廻る途中、朱色の鳥居があったので立ち寄ります。

 

とても綺麗に整備された祠がありました。
何を祀っているのだろうと近寄ってみると・・・

 

何と「歓喜天(聖天)」を祀っているとなっ。
僧都の平智が心願成就祈願のために歓喜天を祀ったのがこの「歓喜天堂」の始まりだといいます。「岩船寺一心講」によって管理されている様です。
祈願成就に関して強力な利益をいただけるのは知っていますが、その祀り方については作法等が難儀だということで軽はずみに手を合わせることはできません。敬意を以て素通りさせていただきました。
観光気分でいたところ、ここだけ気持ちが引き締まった感じでしたよ。

 

また三重塔のまわりの周回に戻ります。
塔をこの角度・位置から観ることはレアですな。

 

身長が巨大化しないと観ることができない角度です。
岩船寺三重塔の周回は、意外にも楽しい遊びでした。

 

相輪の先っちょ、水煙も細やかな造りになっています。
下から見上げても、こうした箇所には気付きませんからね。

 

三重塔の二層とほぼ同じ目線で、塔を楽しんでいます。

 

三重塔を360度、グルッとまわり切りました。
高さを変えながらの周回、是非皆様も楽しんでみてくださいな。

 

開山堂です。
この左手側には歴代住職墓地や智泉(空海の甥)の墓があるというのですが、見逃してしまいました。また参詣する理由ができました。

 

開山堂と本堂の間に、「身代り地蔵」をはじめとする石造物の一群が。

 

そして、やっとのこと本堂前に辿り着きました。
江戸時代末期に建てられた「仮本堂」が老朽化したことにより、現在の本堂は1988(昭和63)年に再建された入母屋造・本瓦葺の建物だそうです。
江戸時代末期の仮本堂以前、本堂がどうだったのか?本尊の阿弥陀如来坐像等は何処に安置されていたのかは不明だといいます。
建造物は新しくとも、岩船寺が所在する区域は鎌倉時代~室町時代の雰囲気が色濃く遺っているので、〝昭和の建造物〟とは思えません。
土地が有する歴史・雰囲気によって再建本堂が如何にも中世から建っていたような自覚を持っているかの様でした。興味深い現象です。

 

                                     (便利堂『岩船寺』より)

本堂の内陣は、写真撮影が不可となっております。
なので購入した便利堂『岩船寺』より、本尊・阿弥陀如来坐像のお姿を掲載させていただきました。
岩船寺本堂の本尊は重要文化財「阿弥陀如来坐像」です。
重量感に満ちた2.4mの丈六坐像で、欅の一材から頭・身体の幹部が彫成され、これに両身側部と両脚部、その他の部位をを矧付け(はぎつけ)た構造です。
両手で定印を結び、結跏趺坐して、肉身部には漆箔が施され、衲衣(のうえ)の表には朱色の彩色が、裏側には緑青の彩色が遺っています。表の朱彩は肉眼でも確認することができます。
光背は周縁部を損なっていますが、造像当初の二重円光を現在に伝えています。
胎内に「□□九年丙午九月二日丁丑」の墨書銘文があり、年号は判別不能ですが、「九年」の干支が「丙午」に当たるのは、村上天皇の治世「天慶九年」(946)しかないことから946(天慶9)年の制作と推定されています。
制作日が判明する阿弥陀如来像としては、岩船寺阿弥陀如来坐像は最古の作例と考えられています。

頭・身体の内刳(うちぐり)部各所に種子真言(梵字)や法身偈(ほっしんげ)などが記されていることが注目されており、このような行為は京都・東寺講堂の諸尊で種子真言を納入した先例があるものの、銘記として書き付けられた物は岩船寺阿弥陀如来坐像が初例だといいます。

 

                                  (岩船寺で販売している写真)

本堂の後方・左突き当たりに配置されている厨子に安置されているのが重要文化財「普賢菩薩騎象像」です。こちらも撮影不可ということで、購入した写真(絵葉書ではない)のお姿を掲載させていただきました。
元来は三重塔の内部に安置されていたのだといいます。
寺伝では空海の甥・智泉の作といいますが、画技に優れた智泉の描いた図像をもとに平安時代の仏師が制作したと考えられています。
この普賢菩薩騎象像は樟材(くすのき)の一木造で、肉身部は肉色、衣部は剥落が著しいものの朱・丹・緑青などの地に截金(きりかね)の紋様が配されているのが確認されています。
光背・台座(華盤のみ古例)・象は後補だそうです。
なお、普賢菩薩騎象像を納める厨子は南北朝時代の制作といい、後壁には法華曼荼羅が描かれているそうです。

 

本堂入口を右に進むと突き当たりが授与所となっており、御住職が対応をしてくださいました。
「限定以外の青い印がついたものができます」とご説明いただき、通常朱印2種、さらに大人気という普賢菩薩騎象像の朱印の計3種をお願いしました。
朱印が書き上がるまでの待ち時間で阿弥陀如来坐像の姿を楽しみながら、守り等の販売品を選んでおりました。

先にあげた便利堂『岩船寺』と普賢菩薩のお姿を映した写真の他、「普賢菩薩 絵馬守り」を選びましたよ。

 

中身はこの様なお姿です。素敵なお姿が描かれており、更に絵馬は木目に個性があって、楽しい物です。

 

もうひとつはこちら。

袋から取り出すと、

 

どーんっ。更に中身は、

 

不動明王。

 

背中には「身代不動明王 岩船寺」の文字が遇われております。
〝身代り〟になってもらわぬ様に、今年一年気持ちを引き締めようと思いました。

 

 

授与所で朱印3種+各種グッズを精算すると三千円超になってしまいました。
「このあとも、いろいろ寄るのに・・・」と思いながらも、まぁ、これも〝功徳を積む〟ことになりますからね。
御住職が気さくな方で、「いろいろ買うてくれて・・・」と年賀をくださいました。

「こちらこそ、いろいろと有り難うございます。」と御礼を伝えました。
寺の御住職とお話すると、おまけ(お土産)を頂戴する率が、なかなか高めです(嬉)。

 

丁寧に御住職へ別れの挨拶を述べ、本堂を出てきました。
鬼瓦と視線が合ったので、記念に撮っておきました。

 

浄瑠璃寺の駐車場に車を停めて、石仏等を愛でながら岩船寺を訪れようと予定していたのですが、圓成寺からカーナビで浄瑠璃寺に向かったところ、地元の方々・居住者の方々が通るような道に誘導され、結果的に浄瑠璃寺よりも先に岩船寺に到着してしまいました。
境内の散策、平安時代生まれの阿弥陀如来像、そして御住職の温かいご対応を考えれば、今回は〝岩船寺の阿弥陀如来像に呼ばれた〟のだと感じます。

また参詣しますよ、岩船寺っ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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