大和国安倍文殊院(奈良県)

「安倍文殊院」は645(皇極天皇4)年の乙巳の変で蘇我本宗家が滅ぼされ、いわゆる「大化の改新」と呼ばれる一連の政治改革の初期に建立された寺院がもとになっているそうです。
乙巳の変後、改進政府では蘇我氏が独占していた大臣(おおおみ)を左大臣・右大臣と改編して天皇中心の政治体制が整備されていきました。
右大臣には蘇我入鹿のいとこで、クーデターに加担した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)が就任しました。これは論功行賞ですね。
上位の左大臣に任命されたのは、当時のヤマト政権における豪族の長老的存在であった阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)でした。
蘇我本宗家を滅亡させた乙巳の変は、軽皇子(孝徳天皇)・中大兄皇子らによるクーデターでしたから、飛鳥地方の豪族たちに〝俺たちも粛清されるんじゃないか〟という疑心暗鬼の念が強く拡がっていた様です。クーデター派(軽皇子・中大兄皇子)の敵は蘇我本宗家でしたから、他の豪族には従来通りヤマト政権を支えてもらおうと考えていたのです。そこで豪族の長老・阿倍倉梯麻呂を豪族が就任する最高位に据えることで人心収攬を図ったのでした。因みに阿倍倉梯麻呂は娘を軽皇子に嫁がせていましたので、左大臣就任は既定路線という解釈もできます。

その阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂とも)が阿倍一族の氏寺として建立した「安倍山崇敬寺」ですが、現在の安倍文殊院から西南約300mのところに位置していました。
この地域一帯は阿倍氏の本拠地だったと考えられています。
創建時の安倍寺跡は発掘調査の終了後に史跡の指定をうけ、史跡公園として復元整備(金堂・塔・回廊跡の基壇一部)がなされています。
左手に塔、右手に金堂を配する法隆寺式伽藍配置の大寺院だったそうです。

創建時「安倍山崇敬寺」(安倍寺)の跡では、発掘調査で山田寺式単弁蓮華文の軒丸瓦などが出土したそうです。この成果を根拠に「安倍山崇敬寺」(安倍寺)の創建時期は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が創建した山田寺の創建時期(641~685)とほぼ同時期のことであろうと推測されています。

「安倍山崇敬寺」(安倍寺)の伽藍は鎌倉時代の1185(文治元)年に多武峰・妙楽寺(現在の談山神社)の衆徒との戦禍に見舞われ、1234(文暦元)年に安倍寺別所(現在地:崇敬寺智足院別院の満願寺、満願寺の別名は文殊堂)で再興されたのだそうです。
更に安倍寺は東大寺末寺でもあり、造東大寺勧進職・重源との繋がりを以て快慶が「渡海文殊群像」を制作したのだといいます。

1559(永禄2)年から始まった大和国における戦闘は、三好長慶と安見宗房という対立構造のもとにおこなわれました。
松永久秀は三好氏の支援を得て大和国に侵攻、多聞山城を築き徳政令を出すなど大和国の支配者として行動しています。
1563(永禄6)年、松永久秀は多武峰を攻撃しますが、敗北・撤退しています。
この時に安倍寺も松永軍に攻め寄せられ、伽藍が焼失してしまったそうです。

現在の本堂は江戸時代・徳川家綱の治世だった1665(寛文6)年に再建され、明治時代の廃仏毀釈の荒波も乗り越え、「文殊院」という名称になりました。

 

カーナビの誘導通りに境内駐車場に入ってしまいましたので、境内案内図の主要箇所しか見学しませんでした。
次回の参詣時には、周辺も含めてまわってみようと考えています。

さて、実際に見学した場所について、見ていきましょう。

境内に「西古墳」が存在しています。

古墳で国の特別史跡に指定されているのは以下の7例だそうです(文化庁HPより)。

奈良県 文殊院西古墳  1952(昭和27)年3月29日指定:原始
奈良県 巣山古墳     1952(昭和27)年3月29日指定:原始
奈良県 石舞台古墳   1952(昭和27)年3月29日指定:原始
福岡県 王塚古墳     1952(昭和27)年3月29日指定:原始
群馬県 山上碑及び古墳 1954(昭和29)年3月29日指定:古代
奈良県 高松塚古墳    1973(昭和48)年4月23日指定:原始
奈良県 キトラ古墳     2000(平成12)年11月24日指定:原始

因みに古墳群ですと
和歌山県 岩橋千塚古墳群 1952(昭和27)年3月29日指定:原始
宮崎県  西都原古墳群   1952(昭和27)年3月29日指定:原始
の2例が指定を受けています。

文殊院西古墳の石室を構成する石材は築造当初のままと考えられています。
石室内の石壁は同じ数・左右対称に組み上げられています。

画像にある如く、機械で切り取った石を組み上げているのではないかと思う程に精密な石の組み上げがなされています。
天井石は天然の一枚岩です。
中央部分には弧を描く様な彫りが施されています。
こうした特徴から、現代の技術で造られたと思ってしまいますが、文化庁は「原始」のものと規定しています。
阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の墓と伝わっているのですが、遺体・副葬品等は残念ながら遺っていません。
石室内に立ち入ることが可能で、石室内には石造・不動明王像が据えられています。
この不動は弘法大師・空海がつくった〝願掛け不動〟なのだそうですよ。

 

手水舎で勢いよく水を出している龍の姿はこんな感じです。

各所を訪れて手水者の龍の画像を撮っていますが、暇な時があれば比較してみましょうかね。
当分、その様な状態はありませんが。
安倍文殊院の手水者の龍は格好良いですね。

 

「別格本山 文殊院」とは、大和国の国分寺(総国分寺)で華厳宗総本山の東大寺の「別格本山」なのだそうです。

安倍文殊院
 〒633-0054
 奈良県桜井市阿部645
 TEL 0744-43-0002

 

こちらの本堂は、1665(寛文5)年に再建されたものです。
江戸幕府4代将軍・徳川家綱の治世でのことですね。
絵馬が掛けられていますが、その後ろ側が礼堂と称する能舞台になっています。

この本堂の奥には1973(昭和48)年に竣工した「大収蔵庫」が繋がっており、この「大収蔵庫」内に国宝「渡海文殊群像」がお座します。
絨毯敷きの階段をのぼると、ゆとりのある空間に群像が拝されています。
騎獅文殊菩薩は非常に人気がありますが、獅子は安土・桃山時代の後補だそうです。

因みに、文殊菩薩に向かって右側に立っている「善財童子」は、何時もお世話になっている株式会社MORITA様の「イSム」ブランドのたなごころシリーズで発売されました。
残念ながら、終売・廃盤になってしまいましたがね。
オークションだと10万円弱の高値がつけられていますね。
株式会社MORITA様と正規に取引されている業者さんは税込定価販売です。
異常な高値、もしくは怪しげな安価という場合、前者は悪質転売屋で後者は無在庫・無店舗の詐欺ヤロウの決まっていますからね。
人気のある仏像フィギュアは、ほんに稀にオークションで常識の範囲内の価格で出品されることがあります。
仏像フィギュアの知識だけではなく、オークションの品定め眼力(分析力)を持ち合わせないと、経済損失および心的外傷(トラウマ)を得ることになります。
ご注意くださいな。

 

本堂を出て、主張の強い建物に向かいます。

「金閣浮御堂 霊宝館」と称するのだそうです。
道内には寺宝等が納められています。

手前には
「 安倍仲麻呂望郷之詩 」
「 天の原
  ふりさけ見れば
  春日なる
  三笠の山に
  出でし月かも 」

と中国・唐で客死した阿倍仲麻呂の歌が刻まれています。
この歌については諸説あるらしいですよ。

 

受付で拝観手続きをすると

「七まいり」グッズを受け取り、参拝方法について説明を受けます。
生涯で七難に遭わぬ様にという魔除け祈願だといいます。
説明では「~ならないように、とお願いしながらまわってお札を1枚ずつ切り離して納めてください」ということでした。
原則、願掛けなぞしませんが〝郷に入りては郷に従え〟の喩え通り「七まいり」を実行してみました。

「金閣浮御堂」の周りは〝廻ることができる〟様になっています。
一周まわるごとに浮御堂の正面に設置されている賽銭箱に、金色の「魔除おさめ札」を切り離して一枚ずつ入れていきます。

 

「仲麻呂堂」の額を掲げた浮御堂の正面に立ち、いよいよ「七まいり」を始めます。

通常は「~ならないように」と念じながら廻るのだそうですが、「河越御所」の基本路線に「魔除け」はありませんのでね。
「破魔」「斬魔」「滅魔」というのが行動基準になっていますので、無心でまわりましたよ(笑)。

・・・とは言いながら、浮御堂の裏側はこんなんなってましたので、つい
 「おいおい、これは通れない人も居るんぢゃないか?」
と思ってしまいました。
「河越御所」は願掛けをしませんので全く問題はありませんが、真面目に願掛けをされる方々はここで雑念を生じさせてしまうことでしょう。
罠です、お気を付けくださいな。

因みに「河越御所」の面々は、この細道は正面を向いた状態で何なく通過しています。
体格によっては横向き・蟹歩きの方がよろしいでしょう。
通路の細さで願掛けを妨げぬ様にご注意ください。

こうした状況なので、体調によっては一周で「魔除おさめ札」を納めても大丈夫という説明があるのでした。
でも普通、「七まわり」の説明を受けたら、7周したくなりますよね(笑)。

 

はい、7周しました。
浮御堂の中に入り霊宝(笑)を拝見させていただきました。

浮御堂を出て、陸地に戻ります。

 

陸地に戻りまして、本堂とは反対側へと向かっていきます。

いろいろとあるのですが割愛し、気にとまった事柄だけお話しますね。

安倍文殊院の境内には阿倍倉梯麻呂の墓と伝わる文殊院西古墳の他に、もうひとつの古墳が存在します。
「閼伽井古墳」(閼伽井の窟とも)の表示もある文殊院東古墳です。
古墳時代終末期(飛鳥~白鳳時代)の造立といわれ、「閼伽水の井戸」という昔から枯れずに水が湧き出ることに由来する呼称だそうです。
墳形や規模については不明で、室町時代には既に入口が開いていたと伝わっています。
石室の玄室部分は自然石の組み合わせ、羨道部分は切石の組み合わせという自然石から切石へと変遷していく過渡期の構造と位置付けられています。

 

次~ぃ。白山堂です。

安倍文殊院の鎮守として「白山大権現」の額を掲げています。
室町時代末期の造営と伝わっています。

全てとは言いませんが、大和国の寺社には白山堂・春日堂が備わっているものが幾つもありますのでね。
宗教的亜ネットワークの存在をうかがい知ることができます。

 

そしてこの「合格門」をくぐり、石段を上っていくと

 

 

2004(平成16)年の安倍晴明千回忌に合わせて再建された晴明堂です。
人気の陰陽師を祀っています。
手前の黒光りしているのは如意宝珠だそうです。
撫でることができるそうですよ。
触りもしませんでしたがね。

ちょいと画像が斜めになってしまいましたが、キラリと光る銀の円形には
 五芒星(晴明桔梗)
が彫り込まれています。
次に参詣する機会があれば、もっとしっかりと撮影しますね。

 

この向かい側には

「安倍晴明 天文観測の地」の碑が建っています。
真偽はわかりませぬが、安倍晴明が修行した場所なのだそうです。

 

池の手前にはこの時期、草花で干支が表現されるのだそうです。
2024(平成6)年は辰年ですからね。
身体の白い龍が象られていました。

国宝「渡海文殊群像」は、とても良かったですよ。
お世話になっているイSム様に騎獅文殊菩薩像を制作していただきたくなってしまいました。
今度、お願いしてみますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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