大和国飛鳥寺(奈良県)

2021(令和3)年末の駆足初詣、かなり久し振りに明日香村に足を踏み入れました。
年末であったことから博物館等の機関は休館となってしまいましたので、自家用車の機動力を活かして神社仏閣・遺跡を巡ろうと考えたのですが、案外まわれないものでした。
明日香村の歴史観光スポットといえば無限にある訳で、たかだが2・3日で巡ることは不可能なことは判っています。いろいろとまわって15時30分を過ぎた頃、飛鳥寺にやっと辿り着きました。

甘檮岡(甘樫丘:あまかしのおか)を中心に処々をまわることを想定していたのですが、カーナビを使うも道に迷い、細道のT字路で地元の方々の路駐や攻め込みの強さで後退を強いられるなど、ある意味、妨害に近い仕打ちを受けながらの道程でした。
はじめっから飛鳥寺狙いで向かえば良かった様でした。

 

飛鳥寺
〒634-0103
奈良県高市郡明日香村飛鳥682

もう天照大神が隠れてしまいそうな状態であることがお判りいただけるでしょう。

入口の「飛鳥大佛」の碑です。
江戸時代も後半の1792(寛政4)年、参詣の道しるべとして彫られたものといいます。

上の碑に気をとられてしまいますが、下の石に注目すべきなのです。
下の台石とされているのは、飛鳥寺創建時の礎石だそうです。
創建時のままの位置なのか、動かされてしまったのかは調べていませんが、失われてしまった創建当時の建造物のことを〝知っている〟礎石です。

門を潜って境内に立ち入りました。

こちら「塔心礎中心 地下三メートル」の案内が立てられています。
一見、普通の庭石に見えますが、これは礎石(そせき)のひとつであろうと考えられます。

1956(昭和31)~1957(昭和32)年に実施された発掘調査により、創建時の飛鳥寺の寺域は南北に293m、北辺が215m、南辺が260mの台形状であったことが判明しています。

飛鳥寺の構造は、中央に五重塔を据え、その周りに3つの金堂(中金堂・東金堂・西金堂)が配されていたことが判っています。この3金堂の周りは回廊(かいろう:屋根付きの廊下)で囲われ、その外側(北側)には講堂が置かれていたそうです。

この画像の石そのものが「塔心礎」ではありません。
この〝地下三メートル〟の位置にホンマもんの「塔心礎」が居るのです。
想像するだけでワクワクしてきます。

この「塔心礎中心 地下三メートル」の表示、後方にある大きめの案内板には
 「
   塔心礎位置(地下三メートル)
  ・推古天皇元年(五九三)正月十五日
   舎利を心礎に納める
  ・翌日 心柱を心礎の上に建てる
  ・推古天皇四年(五九六)塔が完成する
  ・建久七年(一一九六)落雷のため焼失
  ・心礎は一辺二、四メートルでその中央には一辺一、六
   メートルのの方形部分を平らに浅く削りその
   中心に約三十センチ角の方孔をほる
   さらにその孔の東壁下部に約十三センチ角の孔がほられている

  ・この舎利孔に納められていた舎利は建久七年の火災の後
   彫り出されその一部を舎利容器とともに木箱の中に
   入れ心礎より上部の地中に再び収めてあった

  ・心礎の周辺より発見された物には仏舎利の他に管玉金銀の小粒
   銀の延板勾玉赤瑪瑙帥升の切子玉銀製のくちなし玉赤青紺
   緑紫黄色の小玉金環金銅の鈴及び瓔珞馬齢などである

  ・これらの出土物からみて塔が建立された
   のは古墳時代後期とみなしてよいだろう
                                 」
という説明がなされています。

ここには記されていませんが、通常ですとバラバラになって出土することが多い挂甲(けいこう)が、全体像を想像できる状態で出土したといいます。これも蘇我馬子によって埋納されたのでしょうかね。想像と楽しみは大きく膨らんでいきます。

話が逸脱してしまいましたね。
塔の心礎で確認された埋納品は、案内板の最後にある如く〝古墳の副葬品〟に共通する遺物でした。
明確な区分は存在しないのですが、飛鳥寺は古墳時代から飛鳥時代へと過渡期を象徴する存在であったと言えるのです。
〝外来の宗教〟であった仏教が如何にして倭国(ヤマト政権)に受容され、消化されていったのかを考える上で、飛鳥寺は非常に興味深い題材ですね。

先ほどの案内板の左手側には、こうした平石が置かれています。
どのような経緯の石かは判りませんが、飛鳥寺の歴史を知っている石なのでしょう。

こっから身を180度転回すると

安居院(あんごいん)とも呼ばれる、現在の飛鳥寺の本堂の正面が視界に入るのです。
この現・本堂は、もともと中金堂が建っていた場所に位置しているのだそうです。

妄想になってしまいますが、この画像は五重塔が建っていた場所から中金堂を観ている訳ですよ。楽しいっ。
後述しますがね、この内側には「飛鳥大仏」が御座(おわ)しますからね。
「飛鳥大仏って、五重塔を見ていたんだ・・・」ということになるのです。

夕方でしたのでね、ホントの駆け足で受付を済ませて安居院の中に入りました。
何年ぶりに対面したのでしょうか?小さい頃に訪れたので詳細かつ具体的な記憶がありません。
僅かでしたがね、他の観光客の邪魔にならぬ様、壁側に寄って「飛鳥大仏」を愛でていました。
歴史的に貴重な仏像であるという認識から〝写真撮影をしてはならぬもの〟と思っていました。
すると、観光客の方々はバシバシと写真を撮っているのです。
「何と不謹慎なっ」と思いながら、写真を撮りたい気持ちを抑え込んでいました。
〝寺院におけるマナー〟を知らぬ人びとが多くなったもの・・・と憂いたのですが、何と「飛鳥大仏」って写真撮影がO.K.なのだそうです。
「飛鳥大仏」を視界に入れた時、尊顔・手の位置・指先・座り方と釈迦如来像の姿にピントが合っていたため、撮影許可の表示には気付きませんでしたよ。

次、飛鳥寺を参詣した時には「飛鳥大仏」の写真を〝これでもかっ〟ってぐらい撮ることを決意したのでした。

 

安居院を出て、西金堂があったであろう辺りを西に進みます。

鐘楼の向こう側に夕日(天照大神)が居ます。
時間的に〝急がねばっ〟という気持ちが強くなります。

だって、ココに来たら行きたくなるじゃないですか。

「お手洗い」と違います。「蘇我入鹿(そがのいるか)の首塚」の方です。

蘇我入鹿の元に向かって小さな門を潜り、それでも折角だから振り返りました。
でも直ぐに方向転換して首塚に向かいます。

「ありゃ、こんなんだっけ?」という頼りない昔の記憶に基づき思いました。
周りに何も無かった様に記憶していました。いったい何時の記憶だって感じです。

他の観光客の方々が首塚を楽しんでおられたので、邪魔にならぬ様にせかさぬ様にと速度を調整しながら向かって行きます。

人影が無いのは年末の訪問ということもありますが、こうした心配りの結果なのです。

〝住みたい〟とは考えませんが、ここに住んでいると飛鳥寺と首塚と、そして蘇我氏の邸宅があったであろう甘檮岡(あまかしのおか)が散歩圏内なのですね。
ちょいと感動的。あっ、でも蘇我氏のファンじゃありませんので。

首塚に向かって、この道を前進していきます。

首塚の周辺は、この様に整備されています(「飛鳥寺西門跡」です)。

首塚に寄っていきます。

背後の甘檮岡に夕日(天照大神)がかかっていますよ。
この様な光景は、近所に住んでいなければ見ることができないものでしょう。
予定通りにコトが進まずに、それでいて欲張ったスケジュールにしたことで得られたサプライズでした。

首塚の正面?に近付いてみました。
「こんな風に整備されていたっけか?」と何も無かった様子を思い浮かべるのですが、もしかすると古い本で見た昔の首塚の写真を記憶と混同しているのかも知れません。
そういうことにしておきましょう。

この五輪卒塔婆(ごりんそとば)、鎌倉時代~南北朝時代の建立と伝わっているそうな。
案外、古い物なのですね・・・って、乙巳の変(蘇我入鹿殺害事件)からすればだいぶ時間が経過した新しい物です。

後世の成立ではありますが、『多武峯縁起絵巻』(とうのみねえんぎえまき)には中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿の首を下から斬り上げている描写があります。
斬られた蘇我入鹿の首が、飛鳥板蓋宮大極殿からここまで〝飛んできた〟と伝わっていますが、それは楽しい伝承でしょう。
蘇我入鹿を討ち取った中大兄皇子たちは、蘇我氏の邸宅があった甘檮岡を目指して進軍しています。
中大兄皇子たちは甘檮岡を前にして、飛鳥寺に入っています。この進軍の際に蘇我入鹿の首級を伴っていたのではないでしょうかね。
蘇我入鹿の首塚がここに在る理由を考えると、またまた楽しくなってきます。

普通、正面からの画像を撮ったら、それでおしまいですよね。

折角なので、真横からも撮ってみました。
すると、首塚の後ろに丸っこい石が・・・。
こんなん、これまで気付きませんでしたよ。

角度を変えて、背後の石に注目した図柄で撮ってみました。

何も見えませんし、感じる訳でも無いのです。
だって、蘇我入鹿の首塚からは何もありませんでしたからね。

グルッとまわって見ているのですが、五輪卒塔婆よりも、こっちの石の方が気持ち悪かった・・・と思いました。何故かは知りませんけど。

首塚のところに居たのは、ほんの数分のことでした。

ほらっ、夕日(天照大神)と甘檮岡のコラボレーション。
もう暗くなっていく・・・、近所に住んでいる人でなければ見るのが難しい光景を目にしているのですよ。貴重な体験です。

「飛鳥寺西門跡」を示す表示です。コレは気持ち悪くない。

蘇我入鹿の首塚と反対方向、飛鳥寺を見ています。ここに西門があったのですね。

蘇我入鹿の首塚に背を向けて、飛鳥寺の方をみている様子です。
観光地を訪れるのって、午前中から昼過ぎの15時頃までじゃないですか(固定観念です)。
この時間帯に、飛鳥寺に居るとは予期しておりませんでした。

「飛鳥寺が閉まってしまう」と慌てて戻ってきました。
別に安居院の横っちょを通らなくても、迂回して駐車場に行けば良かったものを。
勝手な思い込みで動いていますが、前に掲げた安居院の画像よりも暗くなった様子を撮ることができました。大したコトではありませんが、喜ばしい。

境内を出ましたが、折角なので振り返りました。
夕日(天照大神)がイイ感じで、バイバイしている感じ。
「飛鳥大仏」が〝また、来たまえ〟と言っているかの様でした。

この時は時間に余裕が無い訪問でしたが、次回はじっくりと時間をかけてこの周辺も愛でようかと考えています。

 

 

 

 

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