山城国阿弥陀寺(京都府)その弐

平安京に行く機会がありましたでな、また阿弥陀寺を参詣してきました。
一度訪れているので往路は難なく進むことができました。
雲はありましたが、晴天でしたよ。

車の流れが途切れたところで、山門の様子を撮影しました。

 

道を渡り、山門を潜る前に・・・

 

一応〝織田信長がいる〟という画も撮っておきました。
それにしても、参拝客が居ない(二度目の参詣でしたが)。
まぁ、人気(ひとけ・にんきのどちらでも可)が無いので、ゆったりとすることができるのでイイんですよ。

 

山門の横っちょから入ります。
業者さんが、植木を調えていましたよ。

 

大丈夫、迷うことはありませんよ。

何と無く、雰囲気で進んで行けば

 

受付に到着です。
インターホンを押して、「どうぞ~、お入りください」という案内を受けてから中に入ります。
何も無しで人ん家に入るのは無粋ですからね。
前回同様、おばちゃんが応対してくださいました。
 「どっからのお参りで?」
と問われるので
 「武蔵国(埼玉県)の川越からですぅ。」
と答えると
 「まぁ~、遠いとこから。ようこそ。」
と労いのお言葉をいただきます。
入山料500円を納めて、おばちゃんに朱印をお願いします。
朱印は2種類あるので、両方をお願いします。
 「阿弥陀如来 あみだ寺」
 「信長公本廟 阿弥陀寺」
ですよ。
おばちゃんから「どうぞ、お墓にお参りになって。その間に(朱印を)書いときますよ。」と墓へと向かう様、促されます。

〝六月二日〟でないと本堂には入れない様ですからね。
信長の墓へと向かうしか術は有りませぬ。

案内板の指示で進めば、迷い様がありませぬ。
ここから織田信長・織田信忠のところへは一本道にございますよ。

 

途中、左手側に手水所がありまして、そこにはドラゴン(龍)がおりますの。
水はチョロチョロと流れております。
手水所に達する前で、既に織田信長・織田信忠の墓が視界に入っています。

 

 

二度目の参詣ですので、様子は理解しております。
初回の参詣(2023秋)は曇天、そしてなかなか強めな横風が吹いておりました。
立てられている卒塔婆がガタガタと音を立てて揺れる程でしたよ。

今回(2024秋)は晴天、風も無く、何とも穏やかな状態でしたよ。
今回は、「阿弥陀寺製玉」に遭うことがメインでしたのでね。

 

でも、順路的に織田信長・織田信忠と最初に遭遇するのでした。
  左 :「大雲胤殿三品羽林仙巌大居士」
      →織田信忠(信長嫡男)の墓
 中央:「總見院殿大相國一品泰巌大居士」
      →織田信長の墓
 右下:「照雲胤殿高巌徳公信孝居士」
      →神戸信孝(信長三男)の墓

一段低いのが神戸信孝だったとは・・・。
帰還してから知りました。
特段、接点がある訳では無いのでイイのですがね。

今回の参詣は、同行者も居りましたのでね。
話ながらの参詣でしたので、何~も不可思議なコトはありませんでしたよ。

センサー起動音も気になりませんでしたもん。
前回(2023秋)は、この起動音が〝武器をぶつけ合う格闘の音〟に聞こえましたからね。
何と平和な参詣でしたこと。

 

信長の向こう側に居る「阿弥陀寺製玉」の元へ赴こうとしたのですが、この背後(北側)に本能寺の変での討死衆が居りますのでね。
彼らには敬意を払います。

 

よく知られた森三兄弟ですよ。
左から「森力丸」「森坊丸」「団忠正」「森蘭丸」の墓です。

 

今回は、森三兄弟の墓だけに触れますね。
他の討死衆は、また別の機会に。
前回の更新でも、同じ様なことを記していました。
本能寺の変について調べるのは、ず~っと先のコトになりそうです。

 

「森力丸」
  →「源長氏」すなわち森長氏。森可成の5男。享年十五歳。

「森坊丸」
  →「源長隆」すなわち森長隆。森可成の4男。享年十七歳。

「森蘭丸」
  →「源長定」すなわち森長定。森可成の3男。
   本能寺の変で織田信長に手傷を負わせた安田国継(天野源右衛門)によって討ち取
   られる。享年十八歳。

本能寺の変についての記載は、『信長公記』巻十五(角川文庫2541 奥野高廣・岩澤愿彦 校注)を用いています。

  去程に不慮の題目出来して、
六月朔日夜に入り、丹波国亀山にて維任日向守光秀逆心を企て明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、是等として談合を相究め、信長を討果し、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕候。爰を引返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、諸卒に申触れ、談合の者共に先手を申し付け、
六月朔日夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国皆道なり。左へ下れば京へ出る道なり。爰を左へ下り、桂川打ち越し、漸く夜も明け方にまかりなり侯。
 既に信長公御座所本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。信長も御小姓衆も、当座の喧𠵅を下々の者共仕出し侯と思食され侯の処、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打入れ侯。是は謀叛候歟、如何なる者の企ぞと御諚の処に、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と言上侯へば、是非に及ばずと上意候。透をあらせず、御殿へ乗入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。御厩より矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五 、切つて出で討死。此の外、御中間衆、藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・小駒若・虎若・息小虎若初めとして廿四人、御厩にて討死。
 御殿の内にて討死の衆、
森乱森力森坊兄弟三人。小河愛平・高橋虎松・金森義入・菅屋角蔵・魚住勝七・武田青太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原鍋兄弟・針阿弥・平尾久助・大塚孫三・湯淺甚介・小倉松寿、
御小姓衆懸り合ひ懸り合ひ討死侯なり。湯淺甚助・小倉松寿、此両人は町の宿にて此由を承り、敵の中に交入り、本能寺へ懸込み討死。御台所の口にては、高橋虎松暫し支へ合ひ、比類なき働きなり。
信長初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鑓疵を被られ引退き、是迄御そばに女ども付きそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷出でよと仰せられ、追出させられ、既に御殿に火を懸け焼来り侯。御姿を御見せ有間敷と思食され候歟、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引立て無情御腹召され。

 

『信長公記』を著したのは太田牛一(おおたうしかず)ですが、本能寺の変の現場には居なかったそうです。
しかし現場に居合わせた人びとから取材して記事をまとめたのだといいます。

山城国本能寺の攻撃に関する記載だけ、見ていきますね。
 ・夜の明け方、明智軍は本能寺を包囲し、4方向から境内に乱入した。
 ・織田信長や小姓衆は「下々の者共」の喧嘩と認識した。
 ・鬨の声が上がり、御殿へ鉄炮が放たれたことで「謀叛」と認識した。
 ・織田信長の問いかけに森長定(蘭丸)が「明智が者と見え」と報告した。
 ・織田信長は「是非に及ばず」と言った。
 ・織田信長は御殿に入った。面御堂の御番衆も御殿に入った。
 ・馬小屋から出撃した24名が討死。
 ・御殿内で小姓衆27名が討死。
 ・織田信長は、はじめ弓矢で応戦した。
 ・織田信長は弓の弦が切れた後、鑓で応戦。肘に鑓傷を負った。
 ・織田信長は御殿の奥深くに移動、内側から戸を閉め、「御腹召され」た。

今後もまた阿弥陀寺や本能寺を訪れるでしょうから、他にも古記録・古文書等を詠んでみて、本能寺の変についてを学ぼうと思いまする。

 

さて討死衆のもとを離れ、母粋の奥へと進みまする。
何せ前回の参詣では、〝怪奇現象〟により撮影した画像の半分ほどが破損しておりました。
その破損されたデータの大部分が「玉誉清玉」(ぎょくよ せいぎょく)の墓周辺および帰り道を撮影したものでした。

 

玉誉清玉に伝えたい。
 「河越御所」は清玉上人の敵ではない
ことをね。
そ~したらね、先にも触れました通り、何とも平穏な参詣となりました。

玉誉清玉の前に到達しました。

なかなかな広さをとっていましたよ。

こっから墓石まで、進みましてな。

やっと

玉誉清玉の前に到着です。

阿弥陀寺で朱印を頂戴すると、「阿弥陀寺略記」を挟んでもらえます。
記載内容は以下の通りですよ。

<上段>
 点分24年開基清玉上人坂本より芝薬師蓮台
野(今出川大宮付近)に八町四方の堂宇を構え
正親町天皇の勅願所として建立、織田家と大
変深い尾因縁の清玉上人は、天正十年六月二
日本能寺の変を聞き、急いで本能寺へ駆けつ
けられたが、信長公すでに自害された後で、〝私
の身体を絶対敵に渡すな〟5との最後の言葉に
家来衆思案中、清玉上人御遺体を再び火中に
入れ、誰の遺体か解ぬ様にして、法衣に包み
当寺へ持ち帰り、翌日二条城で亡くなられた
信忠公など、過信百十余名の遺体をも埋葬供
養されました。その後秀吉織田信長公遺体分骨を
清玉上人の元へ再々申し入れるが、断固とし

<下段>
 て聞き入れられず、寺領朱印も遠慮され、秀
吉は大徳寺に一山を建立して、盛大に葬儀を
行いその為、当寺は人々から余り知られなく
なり、叉、天正十五年後陽成天皇勅願所にな
るが同年、現今の地に移転し、地域も一町四
方で、大変狭くなり、信長公・信忠公重臣の
方々のみ、墓石をたて、あとは一ヶ所に埋葬
されました。天文・永禄年間古文書・信長信
忠信秀公木像・信長公手槍・弓掛・鞍掛・清
玉上人自筆の討死衆過去帳・勅願など寺宝と
して現存、本尊阿弥陀如来は、丈六木造で、
浄土宗鎮西派に属す。境内には芭蕉・皆川淇
園の句碑・墓標等もあります。

 

本能寺の変当日、玉誉清玉は本能寺境内へと立ち入り、織田家来衆から織田信長の遺体を預かって荼毘に付し、織田信長遺骨を阿弥陀寺に持ち帰ったのだそうです。

その後、羽柴秀吉の要請にも応じなかったところが素敵ですが、寺が受けたダメージは大きなものでした。
でも、玉誉清玉が羽柴秀吉に屈しなかったということで、現在も阿弥陀寺に参詣する人びとが一定数おいでであることは事実ですからね。
玉誉清玉の功績を称えましょう。

 

玉誉清玉の墓から、遠目で本能寺討死衆たちを見ています。

今回の阿弥陀寺参詣は、これにて終了です。

 

境内を出る前、公開はされていませんが寺宝を納めているという本堂の前に立ちました。
六月二日に、ここ(阿弥陀寺)に参詣するのはなかなか難しいですね。
強引に有給休暇をとったら、顰蹙買っちゃいますからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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