近江国小谷城(滋賀県)

2016(平成28)年の夏、近江国を訪れた折り、初めて小谷城跡に足を運びました。その際のお話をしましょう。

それまで近江国といえば、滋賀県立「安土城考古博物館」に行って安土城天守閣の復元模型を見学して喜んでおりました。公共交通機関を利用していたため、2~3時間程しか滞在できなかったこともあり、いずれ自家用車で訪れ、安土山に登ろうと考えるようになり、その願望を実現させました。安土城天主台まで到達したことで、〝次は小谷城に行こう〟という考えを持つようになりました。

とは言いながら、近江国も山城国・大和国に引けを取らず、訪れたい場所が幾つも存在しています。自家用車は機動性が高いものの、欲張って色々と廻ってから、やはり2時間程度の予定で小谷城に立ち寄りました。

 

この訪問は、良き晴天に恵まれました。

無料駐車場に車を停め、門に向かって歩みを進めました。

 

門には「小谷城戦国歴史資料館」の文字が。

 

門をくぐり抜けて振り返ると、

近江浅井家および家臣の皆さんの名が出迎えてくれました。
浅井長政を裏切った磯野員昌が、他の面々と並んでいるのは如何なものでしょう?

 

資料館の入口に設置されている顔出しパネル。
ちびっ子達だと燥ぎながら顔を出すのでしょうが、我々はそんな事やりませんよ。

資料館は山登りが済んでからということで、早速小谷城跡に向かいました。

ちなみに通常、とは言っても休日中心ですが、戦後ガイドステーションから「番所跡」まで、小谷城バス(シャトルバス)の運行があり、城跡の要所にて地元語り部ガイドが案内してくれるのだそうです。シーズンによって運航日は変わりますが、バスダイヤは以下の様になっていますので、訪れる折りにはご参照ください。

 

この時の訪問は月曜日だったので、バス運行はありませんでした。
バスの折り返し地点まで車で上がり、そこから徒歩で城趾に向かいました。

さぁ、いよいよ小谷城に入っていくぞという時、視界に入ってきたのがコレ。

しまったっ、山中を巡る際に金属音を生じさせるアイテムを忘れてしまいました。
まぁ、夏でしたのでね。
〝野生の獣には遭遇しない〟という強固な意思のもと、歩みを進めていきます。

 

城趾見学にあたり注意すべき「告」が、この様に示されています。
常識的な内容ですのでね、歴史に敬意を払い、遺跡を大切にする気持ちがあれば何の問題も無く受容することができる内容です。

さて、15時過ぎの訪問で、事前の調べもしておらず、更に慌ただしい状況下で城趾に入りましたので、番所跡、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、首据石、黒金門の写真は撮っていませんでした。次回訪れた際に、しっかり・ゆっくり写真も撮りながらまわろうと思います。

 

御茶屋の手前で視界が開ける場所があり、ここから虎御前山(とらごぜやま)を、そして琵琶湖を望むことができます。この画像では、琵琶湖は薄らと見えますね。

 

「浅井氏及家臣供養塔」です。いわゆる「大広間」の手前に位置しています。
この供養塔は、1971(昭和46)年に〝浅井氏400年〟に際して建てられたのだそうです。

後方に見える大きな石碑は

「小谷城跡之碑」で1929(昭和4)年に建てられたものです。

 

「大広間跡」の案内板です。

本丸手前が「大広間」、別称「千畳敷」(せんじょうじき)という南北85m、東西35mと山上・小谷城内において最大の曲輪(くるわ)となっており、礎石などから御殿や井戸・土蔵などが建っていたことが判っています。

 

現地の案内板です。

案内板の右手側から中央までが「大広間」です。

 

建物は失われてしまいましたが、現場の様子はこの様な感じです。

「大広間」=「千畳敷」のエリアには、礎石が残っています。
礎石の残存状況を撮影することを失念していました。やはり、もう一度訪れねばなりませんな。

 

大広間の突き当たりに見える石垣は、本丸の下段に該当するものだそうです。

小谷城の本丸は、近世の絵図では「天守」や「鐘丸」(かねのまる)と記されています。
本丸南の大広間側には石積みが良好な状態で遺っています。

 

案内板が示していますが、右手側に本丸へ上がっていく道があります。

 

案内板に従って、いよいよ「本丸」跡に入っていきます。

 

この高くなっている所が、小谷城の中心建造物があった場所です。

 

小谷城本丸の入口です。

 

こちら「本丸跡」案内板。そのまま本丸のエリアに足を踏み入れていきます。

 

南北40m、東西25mの区域に、如何なる姿の天守が建っていたのでしょうか。
彼方此方に礎石らしき物も確認できます。二層の天守が存在していたことが推測されています。
このエリアだけでも自然に生えてしまった木を伐採していまえば良いのに、と思ってしまいますが「国の史跡」に指定されているということで、あまりイジることができないのでしょう。木の伐採や運搬・処分の費用問題から今後も現状維持なのでしょうね。

 

小谷城本丸を徘徊していたら、陽射しが注してきました。
落城はしましたが、焼け落ちた訳ではありませんので雰囲気としては落ち着いている様でした。

 

それでも城を護る浅井軍の兵たち、城を落とそうとする織田軍の兵たちの熾烈な戦闘が繰り広げられたのでしょう。
木々の間に見えるのは、当時の戦士の姿ではありません。同行者が映り込んでいたために〝消す〟加工を施したものです。怪奇現象ではありません。
明るく温かな陽射しでしたので、浅井軍の方々が案内してくれているかの様でした。

 

記憶が定かではなくなってしまい、確証は持てませんが「本丸」から北側の「大堀切」を見た画像だったかと思います。次に訪れた時は、ちゃんと調べて何処の何を撮ったのかを明確にしておきますね。

 

「本丸」から「大広間」を望む画像?でしょうか。記憶が定かではありませぬ。

 

いったん「本丸」から降りて、北側の「大堀切」(おおほりきり)に向かいました。
本丸・大広間側の石積みの様子です。綺麗に石が積まれていますね。
5年前の画像ですがね、石が一部崩れている様にも見えます。
費用の問題があるでしょうが、遺跡の中核部分だけでも草木の処理をする必要があるのではないかと感じました。

 

本丸の南~西側をまわって「大堀切」に向かう途中、石積みの様子を何枚も撮ったのですが、全てがブレブレになっていました・・・歩きながら撮ったからです。
次回は立ち止まって撮影をしようと思いました。

 

「大堀切」の案内板です。

 

奥の「中丸」(なかのまる)に向かって行きます。

段々になっている「中丸」の何処かの様子です。
石積みが乱れている所・・・

 

部分的に石積みが良好に遺っている所・・・があります。

 

「中丸」の案内板が立っている所に到達しました。

 

 

そして「中丸」の様子を示す説明板。

 

 

また段々をひとつ上っていきます。
石積みが綺麗に遺っています。

 

立ち入り禁止を示すものでしょうか?
〝遺跡を後世に伝えていく〟という気持ちは大切にしたいので、この先には進みませんでした。

 

この先に進めそうですね。
資料館に立ち寄ることも考慮し、「京極丸」まで進むことを断念しました。

 

「刀洗池」の石碑まで到達しました。
この先に「京極丸」がある訳ですな。

でも時間の制限もあったので、これ以上奥へと進むのは止めました。
次回の訪問では、木下秀吉が「水の手谷」から侵入した京極丸西側の曲輪の様子は勿論、時間に余裕をもって小谷城の全体をまわろうと考えています。

 

ここで引き返しまして、「本丸」手前から右側への道を進みます。

そう、「赤尾屋敷」跡へと向かうのです。
この石碑から右手の道へ入ると少々、雰囲気が変わります。

 

まるで誘われているかの様に進んで行きます。
ホントに浅井軍の方々が案内してくれているかの様でした。見えませんけどね(てへ)。

 

「何も無んじゃねーのか?」と思いつつ、〝この先へ〟というのでそこそこ早歩きで進んでいきます。

 

「未だか?」「もうちょっとです」という感じで、進んでいきました。

 

この辺りから〝重苦しい雰囲気〟が強くなってきます。

 

「赤尾屋敷」の石碑と説明板が見えてきました。

 

ここから更に進むと・・・

キターッ、これこそが・・・

 

「浅井長政公自刃之地」の石碑。

 

近くに案内の立て札がありました。
「本丸」を出撃した浅井長政が、織田軍の進撃によって「本丸」に戻ることが叶わず、重臣の赤尾清綱(赤尾美作守)の屋敷で自刃したのだそうです。享年29歳。

『毛利家文書』内で見つけることができなかったのですが、『大日本史料』第十編之四所収という『増訂織田信長文書の研究』(上巻)245の元亀元(1570)年七月十日付吉田(毛利元就)宛織田信長朱印覚書に、以下の様な記載があります。

 一、浅井備前守別心易色之由、帰洛之途中へ告来候、彼等儀近年別而令家来之条、深重無隔心候き、不慮
  之趣、無是非題目候事、

織田信長が朝倉義景討伐を進めていた時のこと。信長が帰洛の途中に浅井長政の別心を知り、長政のことを近年「家来」とし、信長としては大いに心を許していたのに、思いがけぬ事、致し方の無い事であると毛利元就に伝えているのです。続けて「浅井備前元来小身ニ候」であるから成敗するのは物の数ではないと啖呵を切っているのですが、浅井長政「別心」から約二箇月が経過して反撃に転じた状況での表現、そして毛利元就に対する外交的な対面も考慮した表現であることが考えられます。
織田信長は、妹(お市の方:従妹の説もある)を嫁がせた浅井長政のことを「家来」と表現しています。信長と〝同盟を結んだ大名〟は、いずれ織田家臣団に取り込まれてしまい、大名としての独立性・独自性を喪失してしまうという危機感を浅井長政は持ち、信長への「別心」を選択したのでしょうか。少々趣を異にしますが、信長の態度から徳川家康も似た様な状況に置かれますからね。

 

浅井長政が自刃した場所は、ピンポイントで確定はできません。
しかしながら、この上にあった本丸に戻ろうとしたものの織田軍によってそれが阻まれ、「浅井長政公自刃之地」の碑がある一帯の何処かで自決したのでしょう。

 

時が経ち、木々が生え、建造物は朽ちててはいますが、見上げた所に織田軍の幟が立ち並び、本丸に戻ることが叶わない状況での浅井長政が如何なる心情であったか、想像に難くありません。

 

浅井長政の家臣であった嶋秀安(しまひでやす)がまとめた『嶋記録』には、

(天正元年八月)廿八日浅井久政切腹、同廿九日長政最後、長政ハアツカイニテノケ給う約束也シガ、信長公高キ所ニアカリテ居リ、赤尾美作・浅井石見ヲ隔テサセ、イケドルヲ見テ、長政ハ家ヘ下リ入、切腹トソ、・・・

と記されています。

『信長公記』には
  天正元年八月二十七日 浅井久政、自害
      八月二十八日 浅井長政、自害
とあるのですが、

「徳勝寺旧蔵浅井長政像讃」によると
      八月二十九日 浅井久政、自刃
      九月一日   浅井長政、自刃
ということが記されており、また浅井長政が片桐直貞(孫右衛門尉)へ宛てた八月二十九日付の書状(成簣堂文庫:お茶の水図書館蔵)が遺っていることから、「浅井長政の自刃は九月一日」とすることが最有力視されています。

『信長公記』・『嶋記録』共に浅井久政・長政の自刃した日にちに異同はあれど、浅井氏救援のために出陣してきた朝倉義景の撤退を追撃して自刃させた織田信長は、
 八月二十六日 近江国虎御前山城に入る
 八月二十七日 木下秀吉に近江国小谷城攻撃を指示
 八月二十八日 織田信長自身は京極丸に上り、木下秀吉に小谷城本丸を攻撃させ

 八月二十九日 浅井久政、自刃

となります。

先にあげた『嶋記録』によれば、浅井久政の切腹により織田信長による近江国小谷城の攻撃は終結、浅井長政は織田信長と和議して降伏することになっていたといいます。ところが信長が「高キ所ニアカリテ居リ」織田軍を指揮して浅井長政と赤尾清綱・浅井亮親を分断し、両名を「イケドル」様を見て、浅井長政は「家ヘ下リ入リ」切腹したといいます。

 

資料館の売店で購入した、有限会社おぎした印刷 復刻『浅井三代記』の「淺井長政最後之事」にはこの様な記載があります。

 ・・・九月朔日ノ事ナルニ、又四方ヨリ息ヲモクレズ責タリケル。長政手廻小姓ニムカヒ問給ヒケルハ、親下野守殿ノ御手ハ如何御入候ゾ、何成ユカセタマフト有ケレバ、昨日廿九日ニ御自害被成シト承リ候ト申上レバ、長政聞タマヒ我夢計モシラザルナリ、今ハ何ヲカ待ベキ父ノ弔合戦ヲナサントテ、九月朔日ノ巳ノ刻計ニ門ヲヒラキ二百計ニテ切テイデタマヒ、猛勢ノ中ヘ面モフラズ切入四方八面ニハタラキ、敵何程トイフ數󠄁ヲシラズ切伏切伏一足モヒカズ相戦フ事、高祖ノイキホイモカクコソアラメトシラレタリ。
 カヽリケル所ニ、木下・柴田・前田・佐々此人々、長政ガ働クニカマワズシテ跡ヘ廻リ丸ノ内ヲ取切ハ、長政カナワジトオモヒ引カヘシ給フモ、ハヤ其時味方殘スクナニ討取レワズカ手廻ノ勢五、六十ニ成ケルガ、我丸ノ内ヘ懸入ムトセシ所ヲ木下・柴田ガ兵、稲麻竹葦ニオッ取巻。
 長政本ヨリ剛将ナレバ、ムラガレル敵ノ中ヲ一文字ニカケチラシ、丸ノ中ヘカケ入ントスル所ヲ、敵門内ヲハヤ堅メツレバ、我詰ノ城ノ左脇ニ赤尾美作守屋形有ケルガ其中ヘカケ入タマフ。敵相續キ込來ル所ヲ淺井石見守・赤尾美作守・同新兵衛ナド爰ニ有トテ踏留リ相戦フ。老武者トハイヒナガラ好敵數󠄁多討取シガ、四方ヨリツヽマレ三人ナガラ生捕レテゾ行ニケル。長政ハ美作守ガ家ヘ入ケルニ、寄手其マヽ込入ントセシヲ、淺井ガ小姓共ニ淺井オキク・脇坂佐介ナドヲハジメ、タレカレトイフ者共、四角八面ニ戦ヒ防ギケル。其時長政モ又立出長刀ヲ以四方ヲ拂ヒタマヘバ、敵モ流石ニ入ザリケリ。
 淺井日向守長政ヲ引取御介錯可仕ト申ケレバ、心得タリトテ頓テ御腹メサレケル。日向守モ頓テ介錯仕ル。長政満ル年ハ二十九、オシマヌ者ハナカリケル。則日向守モ腹カキ切テ伏タリケル。中山新兵衛・同中山九郎次郎・木村太郎次郎・木村與次・淺井オキク・脇坂左介並居テハラヲ切ニケル。誠ニ此長政十六ヨリ武將ヲ取、一度モニブキ事アラザリケルガ、最後ギワ迄カク手バヤク御腹メサレシ事、古今マレ成剛將ナリトテ、敵モ味方モ感ジケル。

この記載によれば浅井長政は9月1日、前日(8月29日)の父・久政自害を知り、巳の刻(午前10時頃)に小谷城本丸の門を開いて出撃したといいます。織田軍(木下・柴田・前田・佐々)が浅井長政の奮戦にかかわらず本丸を奪い取ったことで、長政は「赤尾美作守屋形」に駆け込んだ様です。織田軍は赤尾屋敷に殺到しましたが、浅井亮親・赤尾清綱・赤尾清冬などが踏み留まって奮戦、しかし織田軍に押し切られ生け捕りとなりました。浅井長政が入った赤尾屋敷に織田軍が入ろうとしたところ、長政小姓の浅井オキク・脇坂左介などが立ちはだかり、長政も「長刀」で侵入しようとする敵兵を薙ぎ払ったので織田軍は赤尾屋敷に入ることができなかった様です。その状況下、長政は浅井日向守からの介錯申し出をうけ自刃したといいます。

『信長公記』の日付はさておき、

 八月廿七日夜中に、羽柴筑前守京極つぶらへ取上り、浅井下野・同備前父子の間を取切り、先下野居城を乗取り候。爰にて浅井福寿庵腹を仕候。
 先程に、年来目を懸けられ候鶴松大夫と申候て、舞をよく仕候者にて候。下野を介錯し、去て其後鶴松大夫も追腹仕り、名誉是非なき次第なり。羽柴筑前守下野が頸を取り、虎後前山へ罷上り、御目に懸けられ候。翌日又、信長京極つぶらへ御あがり候て、備前・赤生美作生害させ、・・・

と、織田信長は「京極つぶら」(京極丸)に入って浅井長政・赤尾清綱を自害させたと記しています。

 

後世の軍記物にある記載を用いて、浅井長政が自刃していく経過を追ってみました。
また機会があれば、文書・記録を読み合わせて調べてみたいと考えています。

 

「浅井長政公自刃之地」で手を合わせ、赤尾屋敷跡を後にしました。
すると、遅れてきた同行者が血相を変え「追い掛けられている感じがするっ」と走ってきました。戦場跡で何と気持ち悪い事を言うのだろうと思いましたが、同行者は小谷城内で浅井氏を貶める様な発言を何度かしていたので〝追撃された〟のでしょう。是非も無い。

 

この後、山を下りて麓の「小谷城戦国歴史資料館」に立ち寄り、『浅井三代記』を始めとする土産物等を購入しました。もう閉館間際のところでしたよ。
資料館だったか売店の方にうかがったところ、小谷城の全体を観てまわると2時間ほどかかるのだと教示いただきました。
次回、小谷城を訪問する時は早い時間帯からの半日超ほどを予定しようと考えています。

 

Web上で調べていたら、「ロテル・デュ・ラク」のグループ施設「北近江リゾート」様が「浅井・小谷城」を再現したという情報に触れました。建物内には入ることができないとのことですが、小谷城を訪れた時にはこちらにもうかがおうかと考えております。考えただけで楽しい気持ちが込み上げてきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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