大和国飛鳥寺(奈良県)その弐

2023(令和5)年末に大和国明日香を訪れた時のお話です。
倭国最初の本格的陣「法興寺」、いわゆる飛鳥寺を参詣しました。
現在の公称は、「鳥形山安居院」という真言宗豊山派の寺院です。

現在は周囲が田圃になっていますが、嘗てはこれらが境内地で堂宇等が建ち並んでいたと考えられています。

 

仏教受容を反対した物部守屋を倒した蘇我馬子が、蘇我氏の氏寺として創建しました。
594(推古天皇2)年に仏法興隆の詔が発せられ、聖徳太子(厩戸皇子)を始めとするヤマト政権の面々が仏法に触れる場となったと考えられています。

駐車場の隅っこから、駐車場入口の方向を見ています。
今でこそ駐車場ですが、ここにも堂宇があったそうですよ。

解説板には

  遠路ようこそ飛鳥寺へ!ご一読を
  現在の本堂は古えの中金堂(一等三金堂)の位置に相当し
 本来飛鳥大佛は千三百九十有余年間そのままに座したまうは
 奇跡の存在といえよう。
  平安期まではより以上に膨張し中世以後天災地変、自然崩
 壊のため境内は1/20に縮小されたが、この長閑なる青垣山こ
 もれる風景に麗しい殿堂があった昔を偲べばうたた感慨無量
 といえようか。
  聖徳太子は橘に藁小屋で生まれたまい、大陸の先生に先進
 国の学問を受け、その粋を取って国民の守るべき十七条憲法を
 示されたのがこの本尊に誓ってのことであった。
  蘇我馬子が決戦の暁、強引に飛鳥寺に着手したことは必然的
 に飛鳥文化の扉が開けゆく固い約束にもなった。
 即ち国家数千年の大計を果し得たことは権力の野望を充した
 一面見事な光彩を放ち得たといえよう。
  驚くなかれ!佛法最初という寺のいくつかある中でも又、
 シルクロードの終点といわれる寺のいくつかある中で飛鳥寺
 こそその終着点であり、日本の起点になったことは先ず疑い
 なき事実なり。
  太子の師恵慈、恵聡が都の本格的なこの寺に住まわれたこ
 とも感激すべき事実である。
 大化改新は勿論奈良朝然り、各宗の母胎揺藍の地になったこ
 と、又、世界に誇る万葉文学淵源の地ともいえよう。
  既に我らの記憶から遠ざかったけれども、この土、この塵
 に曽て輝かなりし遠祖の香り、血が、汗が滲んでいることを
 思い起せば心揺ぶられ身の鼓動を禁じ得ない。
  土地は枯れ、寺は寂びれて、み佛は傷つけども、領土・民
 族のあらん限り歴史のふる里ではある。悠久なる前に吾人は
 一瞬である。一生一度齪齷の中にも、此処に来た一時は大佛
 前に合掌し、古えの人の心にふれ、語り合い、民族の久しき
 ことを国土の万世なることを願い顧みつつ懐古の情を暖める
 ことは報恩の一端ともなるものか。又、後代日本を背負う若
 人の弁えでもあろうか。お互いの行く末無事安泰を黙祷され
 よ。飛鳥への憧憬、飛鳥への郷愁、此処に来て初めて満喫し
 得るものか。 諸氏の心情果して如何に。
     平成十四年四月吉日  住  職  謹  記
                                     」
という文章が記されています。

境内に立ち入るまで、周囲の光景に接しながら往時の「法興寺」に想いを馳せます。
楽しいですよ。

山門に向かいます。

1792(寛政4)年に彫られた「飛鳥大佛」の角柱に目が行きがちですが、この角柱を支えている台座となっているのは「法興寺」創建時の礎石なのだそうです。

古い時代(明治?大正?)の写真では、現在の駐車場の側に位置していたことが判っています。
「法興寺」礎石は、創建時から位置を変えずに土中にいるものと、掘り起こされて移動されてしまったものがあります。
それぞれが、嘗ては「法興寺」の堂宇を支えていたのですよ。
そう考えると、入口(山門前)でも充分に楽しむことができます。

山門前です。

 

山門前に据えられた鬼瓦です。

 

門を潜りまして、やっと境内に入ります。

前回の参詣では「飛鳥大仏」の画像を撮ってはならないと思い込んでいましたのでね。
その挽回という心持ちで堂内に向かいました。

本堂内は、それ程広くありません。
「飛鳥大仏」を拝観するのに程好き空間で、「飛鳥大仏」に集中することができます。

 

堂内入口から見て奥の方ですが「飛鳥大仏」の大提灯がさげられています。

 

本堂入り口から「飛鳥大仏」に臨んでいます。

 

「飛鳥大仏」に近寄っていきます。
何度参詣しても、感動の気持ちは新鮮です。

歴史的にも非常に貴重な仏像ですが、写真撮影が許可されていることは寺院側の大英断ですよね。
とは云っても造像は勿論、現在まで「飛鳥大仏」を受け継いできた先達に敬意を表して拝観させていただきます。

「飛鳥大仏」の正面に立ち、横のパノラマ画像を撮りました。
この画像を見ることで、何時でも「飛鳥大仏」に対面している気になれますよ。

今度は「飛鳥大仏」を、縦のパノラマ画像で撮りました。
賽銭箱の前に座って、見上げている状態が伝わることでしょう。

 

「飛鳥大仏」の正面に立って、通常の撮影です。
こうして「飛鳥大仏」の前で、楽しみながら撮影することができました。

他の参詣者の動きに配慮しながら、「飛鳥大仏」に近付いて撮りました。
蝋燭がLEDになっています。
防火対策等という点で、寺院も工夫されているのですね。

「飛鳥大仏」のお顔に注目です。
残念なことに螺髪が所々、損失しています。
でも、歴史を考えると能く残ったものです。
後世の補修もあるでしょうがね。

「造像当初の部分」と謂われる額の様子です。
継ぎ目等が見当たらないので、どの箇所が該当するのか判りません。

視点を下げていくと「飛鳥大仏」の顔面には、補修の痕跡が確認できます。
何度も罹災したことで、それぞれの時代に補修を受けたのです。
こうした補修痕を目にすると「飛鳥大仏」を次代に繋げようという先達の心意気を実感することができます、

正面だけでなく、左右の斜めからの「飛鳥大仏」の表情を楽しんでいます。

視点の高さが揃っていませんが、立ち位置を変えて「飛鳥大仏」の表情を拝観しています。

左横から「飛鳥大仏」の頭部に注目しています。
顔面が平たいですね。
耳の形状は耳朶環状(じだかんじょう)、耳の長さが顔面とほぼ同じです。

首が段々を付けながら太めになっています。
横から観ると、首+頭部が前傾しているのが判ります。
「飛鳥大仏」の像高は2m75㎝ですので、前傾させることで大仏の前に立っている人間に顔・視線が向く様にしているのです。
首の後ろまで螺髪があるのは、前傾した頭部を支えるために首を太くしたことによるものでしょう。

立てている右手は「施無畏印」(せむいいん)と呼ばれる印相です。
衆生(佛が救済する人びと)の煩悩や畏れを除く、という意味ですよ。

「施無畏印」の右手を注視していきます。
なかなか痛んでいるのが看て取れますね。

もっと近付いてみます。

一般的に、中指・薬指の先っちょが造像時の状態であると謂われています。
色合いからすると、他の指の方が古い様に見えちゃいますがね。

「施無畏印」の右手を、横から観ています。
袖に横線が入っていますね。
これはヒビ割れたり、ヒビ割れた所に銅を埋め込んだものではありませんよ。
飛鳥時代の大型仏像を鋳造する際、東大寺大仏と同様に段々と重ねて形づくったことを示す痕跡と考えられています。

顔から右手までの様子が判る画像です。
袖と同様に胸元、そして右頬にも横のラインが入っています。

罹災した後の修繕痕との関係については調べておりませんが、この横のラインが造像手法に因むものであれば、ロマンが広がりますね。。

右手を拡大して撮った画像です。
案外と爪が長いのですね。

袖から右手が出ているのですが、継ぎ目の状態から補修されていますね。

この画像だけだと、手首もろとも袖の上部がもげてしまったヒビの如く見えますが、横のラインの長さを考慮すれば、そうではないことが判ります。

素人推測ですが、こうして諸事考えていると、とても楽しいのです。

表面も金属だからツルツルッっていう状態ではなく、ゴツゴツ/ザラザラといった感じです。

衣を纏った右腕の様子です。
横のラインが2本見えますね。
下のラインは、ほぼ直線といって良いでしょう。
上のラインは蛇行しています。
肘に近付くにつれ、大きく曲がっています。

肘がほぼ直角に曲がったところは、明らかに後世の補修箇所ですね。
色合いからですが、腰から下の部分と、上の部分も違いが明かです。
時間があれば専門的な書物で調べてみますね。

左手は掌(てのひら)を上に向ける「与願印」(よがんいん)という印相です。
「与願印」は、衆生の願望を成就させることを意味したものです。

「与願印」の左手を拡大しています。
指が綺麗に揃っていますね。

左腕を横から観ている画像です。
右手に比べると、手首の継ぎ目がスッキリしています。

左腕と結跏趺坐している大腿部の横のライン、鋳造の痕跡なのか、それとも補修された際の継ぎ目なのか?どちらなのでしょうね。

「飛鳥大仏」の両手は、木で補修された部分が多いそうです。
「飛鳥大仏」を調べれば調べる程に、いろいろな事が判ると共に疑問も湧き出てきます。

「飛鳥大仏」を左横から観ています。
石の台座に結跏趺坐しているのですが、底面が真っ平らかと思っていましたが、この画像を見ると膝頭に重心が置かれ、腰の位置が高くなっていることが判ります。
像の底面を斜めにしてバランスをとっているのでしょう。

「飛鳥大仏」は、造像当初から移動していないと伝わっています。
この石の台座との関連も先行研究がありますのでね、また今度調べておきますね。

上半身の着衣表現は、中国大陸や朝鮮半島にも同様の作例があり、飛鳥時代の特徴なのだそうです。
横のラインが何本も見えますが、これも鋳造時の痕跡なのでしょうかね。
当初の鋳造痕であれば、とても興味深いのですがね。

「飛鳥大仏」の前に「日本最古の仏舎利」が据えられています。
本来は塔に納められるものですが、「法興寺」の塔は失われていますからね。
それはそうと、仏舎利の撮影許可って・・・何と寛大なことでしょう

「飛鳥大仏」の左手前に

いわゆる「飛鳥大仏」、丈六釈迦如来坐像は三尊形式であったことを示す図が配置されていました。
残念ながら脇侍は遺っていませんが、

この様に「飛鳥大仏」の左右に、脇侍を差し込んでいた穴があります。
次の参詣時に、もっと判り易い画像を撮ってきますね。

まぁ、満足するくらいに「飛鳥大仏」の画像を撮りました。
併し乍ら、飛鳥寺に至るまで諸所に立ち寄り画像を撮りまくっていたため携帯電話のバッテリーが無くなってしまう、慌てて撮影したのでピンボケ画像が多くなってしまった・・・という痛恨のミステイクをしてしまいました。
次回は充電器を用意しての参詣にしようと考えています。

時間も遅くなってきましたので、本堂を出ます。
勿論、朱印をいただき、売店で土産物を購入しましたぞ。

 

「飛鳥大仏」の居る本堂を、五重塔があったであろう位置から見ています。

この礎石配置は、創建時のものでしょうかね。

本堂の画像を撮り、くるりと向きを変えると五重塔の心礎中心地の標識があります。
発掘調査では、古墳の副葬品と同じ物が納められていたことが判明しています。
権威・権力の象徴が、古墳を築造することから中国大陸・朝鮮半島の技術を用いた寺院建築に切り替わっていく変遷を物語っています。

本堂の屋根に鬼瓦が重ねて据えられていました。

この時の参詣は、これにて終わりです。
蘇我入鹿には逢いに行きませんでした。
だって、蘇我入鹿とは友達ぢゃないんだもん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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