大和国「中宮寺跡歴史公園」(奈良県)

大和国法隆寺を何度も参詣していると、斑鳩の里にある遺跡・寺社にも興味が増してきます。
聖徳太子や山背大兄王関連の寺院を参詣していると「中宮寺跡歴史公園」も気になってしまいます。

中宮寺は「鵤尼寺」や「斑鳩尼寺」「中宮尼寺」とも呼ばれる、聖徳太子(厩戸皇子)の生母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのこうごう)の宮殿を寺院へと改築した倭国・日本最古の尼寺です。
しかし平安時代になると創建時の伽藍は朽ち果て、1309(延慶2)年と戦国期の天文年間(1532~1555)に残っていた堂宇が焼失、法隆寺子院に避難してそのまま現在に至ります。
この天文年間(1532~1555)に慈覺院高祐尊智女王(じかくいんこうゆうそんちじょおう)が中宮寺に入り、1602(慶長7)年に法隆寺東院の東隣(現在地)へ移ったことで中宮寺は門跡寺院となりました。

現在、歴史公園となっている中宮寺の旧寺地は、現・中宮寺から450~500m東方に位置しています。
発掘調査がおこなわれたことで若草伽藍(最初の法隆寺)と同時期の7世紀前半に創建されたと推測されていますが、残念なことに中宮寺創建に関する詳細な状況は不明です。
1963(昭和38)年に始まった発掘調査は都合14次にわたり、奈良県・斑鳩町が断続的な発掘調査を実施したことで1991(平成3)年5月に国史跡、2001(平成13)年8月に追加指定を受け、2018(平成30)年に史跡公園化が実現しました。

 

「中宮寺跡歴史公園」に駐車場はありません。
法輪寺参詣者用駐車場を利用し、徒歩で向かうことになります。

道路沿いに公園の端っこまで歩き、南側から土壇へと向かっていきます。

江戸時代まで、中宮寺旧寺地の周囲には崩壊寸前の築地が存在したといいます。
創建中宮寺の築地塀よ、何故に昭和・平成・令和まで残ってくれなかったのか・・・。

 

築地塀は扨措き、土壇に近付いていきます。

東屋の横まで来ましたが、土壇まではもうちょいあります。

 

現代に整備された通路(T字路)に「南門」があった様ですね。

 

創建中宮寺のあった場所が、もう直ぐのところにありますよ。

 

創建中宮寺の伽藍は、建築史家の故・福山敏男氏が入母屋造の金堂と初層に板葺の裳階をつけた三重塔が南北に連なる四天王寺式伽藍配置を想定しましたが、本格的な調査が実施されずに遺跡は改変され、中宮寺跡の荒廃が進んでしまったそうです。

 

1983(昭和58)年、仏教考古学者の故・石田茂作氏が残存していた土壇の発掘調査を実施し創建中宮寺の金堂・塔の跡を検出、北に金堂、南に塔を並べた四天王寺式伽藍配置であったことを解明しました。

 

土壇の手前には、三重塔の心礎が発見された様子の解説と、心礎の模造品が展示されています。

 

反対側に回り込み

土讃を見ています。
此方側には「史跡中宮寺跡」の石柱が建てられていました。

 

さあ、愈々創建中宮寺の中核に足を踏み入れますよ。

ワクワクします(笑)。

 

階段を上がると

「塔跡」の標識が配置されています。

 

塔の礎石の手前、濃い茶色の正方形が見えます。
ここには
 心柱を立てるための「足場」の柱穴
という説明が付されています。

 

ご覧の如く、16個の礎石が配されています。

 

礎石の中央の

灰色の四角いところが
 心礎はこの下約3.4mに埋まっています
という解説が付された、心礎があった場所です。

塔の心礎は扁平な大形石英閃緑岩だったそうです。
心礎は深い地下式が採用され、創建時代の古い四天王寺/法興寺(飛鳥寺)/若草伽藍(最初の法隆寺)の塔心礎と同じであることも判っています。

発見された塔の心礎の上には、心柱の根元を固定する為の粘土が遺っており、その内側から埋納物(金環/金糸片/金延板小塊/琥珀棗玉/ガラス捩玉/丸玉/水晶角柱)が発見されました。
心礎には穴などの加工がなされておらず、心柱の根元に彫られた穴に埋納物が入れられたと考えられています。

 

「塔跡」から北へと進みますと

「金堂跡」が隣接しています。
創建中宮寺の金堂と塔は、軒が接する程に接近して建てられていたことが推測されるのだそうです。
金堂・塔がそれぞれ、かなり屋根が張り出していたものだったのでしょうか。

 

では、「金堂跡」に足を踏み入れます。

部分的な確認調査により、金堂跡は2度改作された痕跡が見出されたそうです。
創建中宮寺では凝灰岩切石による壇上積基壇であったことが推測され、平安時代にこれを縮小して瓦積基壇に改変、更に鎌倉時代になると花崗岩割石の乱石積基壇へと改造したことが解明されています。

 

「金堂跡」には礎石が28個配されています。

基壇上の礎石は、創建中宮寺の当初位置を維持しているものと考えられているそうです。

 

「金堂跡」の端っこから「塔跡」を望んでいます。
向こう側に三重塔、手前側に金堂が建っていたことを想像しています。
なかなか、楽しいものです。

 

公園の北端に立ち、創建中宮寺の土壇を望んでいます。

発掘調査では講堂や廻廊の遺構は検出されなかったそうです。
講堂・廻廊は未完だったのか、それとも跡形も無く消え去ってしまったのか、そもそも作られていなかったのか・・・謎ですね。

 

気になっていた「中宮寺跡歴史公園」を初めて満喫しました。
・・・とは言っても、少々急ぎ足でしたし、事前に何も調べることはしませんでしたのでね。
また、中宮寺についての理解を深めてから、「中宮寺跡歴史公園」を訪れようと考えております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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