これまで高速道路利用時に標識ではチラ見していましたが、遂に大仙陵古墳の現地に行って来ました。
スケジュールの都合で、百舌鳥古墳群を楽しむことはできませんでしたが、堺市博物館と大仙陵古墳の御拝所を巡ったお話です。
大仙陵古墳は、5世紀前半~半ばに築造されたと考えられています。
大阪湾を臨む台地上巨大古墳が集中している百舌鳥古墳群の盟主的存在です。
日本国内で最大規模の前方後円墳ですね。
大仙公園の石造復元模型です。

1/250の縮尺です。
陪冢も説明付で再現されているところが嬉しいですね。
前方部が3段、後円部が4段で築成されています。
多くの前方後円墳では片側だけですが、大仙陵古墳は東西くびれ部分にそれぞれ「造出」(つくりだし)があります。
御拝所にはガイダンスの方と、その説明を受けている観光客の方々がおいででした。

外側を観察し、人気(ひとけ)が無くなるのを待ちます。

周濠の水・・・。
色からして、流れていない様ですね。
明治時代の頃、近所の子どもたちが〝泳いで渡り〟を繰り返して本体(前方後円墳)まで辿り着き、管理の役人に注意されていたそうですよ。

現在の大仙陵古墳は、周濠が三重になっていますが、いちばん外側・三重目の周濠は明治時代に掘削されたのだそうです。
江戸時代までは三重目の周濠は埋め立てられ田圃になっていたようです。
古地図には濠の一部と推測される池の様子が描写されているのですが、それが完全な集合であったかは議論の対象になっているとのこと。

古墳時代の海岸線は現在と比較すると、だいぶ内陸部に入り込んでいたと考えられていますので、大仙陵古墳は大阪湾を一望することができ、また瀬戸内海から大阪湾を往来する船からは葺石に陽が差して輝いているかの様に見えていたことでしょう。

宮内庁管理下の陵墓ということで、この立て札があります。
「 仁徳天皇
百舌鳥耳原中陵
一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚鳥等を取らぬこと
一、竹木等を切らぬこと 」
宮内庁が「仁徳天皇陵」と比定していますが、考古学的な根拠がある訳ではありません。
2019(令和元)年5月、「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産に指定されました(令和初・大阪府初)が、域内への自由な立入が禁止されている状態は変わらぬ様です。

倭国・日本側の歴史書で、仁徳天皇は
『 古事記 』
→「此天皇御年、捌拾參歲。丁卯年八月十五日崩也。御陵在毛受之耳上原也。」
この天皇の年齢は83歳で、丁卯(427?)年8月15日に崩御、
陵は毛受之耳原(もずのみみはら)にある。
『日本書紀』
→「八十七年春正月戊子朔癸卯、天皇崩。冬十月癸未朔己丑、葬于百舌鳥野陵。」
即位87年目の正月朔日、天皇が崩御。
この年の10月朔日に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られた。
と記されています。

入りたい気持ちはありますが、入りませんよ。
もう一段階、進みたいですよね(笑)。

左手に見えるのが三重周濠のうち、二重周濠です。
玉砂利が調えられていますね。
鳥居の手前まで、行きたいですよ。
あっこまで立入可能になりませんかねぇ。

全長486mの本体(前方後円墳)に現時点で最も近付ける場所です。
三重周濠のうち、二重周濠の外側・堰堤に立っていることになります。
完全な自由立入だと不届きな族が常識を覆す危険性が出てきますからね、逸脱行為ができない様な設備を配備して、立入を許可していただきたいものです。
陵墓とは謂い乍らも、考古学的な根拠に基づいていませんからね。
〝墓を暴く〟というのではなく、正当な学術的調査の成果を追究することは肝要でしょう。
〝天皇家の祖先〟がどの様な存在であったかは置いといて、日本列島の歴史を解明する上では、避けては通ることができない課題です。
大仙陵古墳は「大林組」様の推計によると、延べ680万人が動員され、15年8ヶ月を要したとされます。
現在の金額にすると約800億円がかかったといいます。
1757(宝暦7)年成立の『全堺詳志』(ぜんかいしょうし)には、大仙陵古墳の埋納施設の一部(石棺)が露出していたことが記されています。
「陵墓部 仁徳帝陵」の項に
「御廟ハ北峯ニアリ、石ノ唐櫃アリ、石ノ蓋長サ一丈五寸、幅五尺五寸、厚凡八寸、
浩曰 内ニハ尊骸並ニ明器等アルニ非ズ、空櫃也、千四、五百年ヲ歴タルナレバ、
盗賊ノ発キタルナラン、」
と、石蓋付の石棺が露出していたことを窺い知ることができます。
筆者兄弟の弟・高志養浩(泉溟)の知見として、石棺は空で1400年/1500年も経過していれば盗掘されてしまったのだろう、とまとめています。
1872(明治5)年に強い風によって前方部正面の2段目斜面が崩落、その場から埋納施設が露出したそうです。
この時、堺県令だった税所篤(さいしょあつし)の指示で緊急発掘が実施され、石室から石棺が確認されました。
この調査での出土品については
執筆:古川躬行(ふるかわみゆき)…堺市・菅原神社神官/国語学者
作図:柏木政規(かしわぎまさのり)…諸陵寮(宮内庁書陵部の前身)の役人
による
『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』
その添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図
としてまとめられました。
大仙陵古墳・前方部2段目斜面で発見された埋納施設は竪穴式石槨で、その中に長持形石棺が入っていたそうです。
堺市博物館の地階には、この絵図に基づいて復元された長持ち石棺の復元模型がありました。

ご覧の通り、触れることができるのです。

しゃがんでみると、石棺の内部に入ることができるのです。

石室内部は、赤く塗られています。
赤は魔除けと再生祈願の意味を持ちますからね。
こうして画像整理をしていると、この石棺内に入っておくべきだった(笑)と、後悔しています。
また訪れる気でおりますのでね、その時は周囲に人が居ようが意に介さず石棺内に入りますよ。
堺市博物館・1階「古代の古墳・仁徳陵」展示室に、1872(明治5)年に前方部から発見された石棺のスケッチをもとに復元された模型が展示されています。

楽しみながら撮影していたら学芸員の方が話しかけてきてくださり石棺のこと、手前に展示されている同形の長持形石棺(部分)についてご説明をいただきました。
こうした対応をしてくださると、とても嬉しいものです。

もともとの展示物・大仙陵出土の石棺模型に、石槨を新たに設置して展示をリニューアルし、埋葬東寺の様子がイメージしやすい様にしたのだそうです。

大仙陵古墳・前方部2段目斜面で発見された埋納施設の忠実な再現を、周回しながら楽しんでいます。
こうした力の入れ様には、心打たれますよね。
感動しながら撮影しましたよ。
何度でも訪れたいです。

副葬品の内、石棺北東に「金具存セザル鉄刀二十口斗」が再現されていました。
ここは数を合わせて欲しかったですね。

石棺の東側「甲冑并硝子坏太刀金具ノ破裂等」が再現されています。
左から、
短 甲:当時流行していた金銅製横矧板が鋲留めにされた短甲
冑 :金製歩揺を付け庇に透彫が施された眉庇付冑
ガラス皿:白いガラス皿
ガラス壺:緑色系のガラス杯
が残された図面に基づいて再現されています。
素晴らしい展示ですよっ。

復元石棺・石槨・副葬品を正面から見ています。
下世話な表現になってしまいますが〝金が取れる〟展示ですよね。
次回、大仙陵古墳を訪れる時は古墳を周回したいと考えています。
堺市博物館は・・・復元石棺に入ってきますね。
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