毘沙門天(イSムStandard 願成就院モデル)

今回は、イSム様・Standard「毘沙門天」(通常版)のお話です。

以前お話した様に、四天王を購入すると貰えた「帝釈天」が欲しくて株式会社MORITA様に連絡を入れ、四天王(定価12万円)と同額かそれ以上を購入するということで帝釈天をいただきました。
この時、当時のショールーム(現在のロジスティックセンター)で出逢ったのが、
 Standard「如意輪観音」と
 Standard「毘沙門天」でした。
初回訪問前、「如意輪観音」(観心寺モデル)を購入することは決めていました。
あとのもう1体をどうしようかと悩みました。だって、未だこの時は阿修羅3パターンを持っていませんでしたし、他にも魅力的な仏たちがたくさん居たからです・・・。でも悩み続けている訳にもいかないので、感性に頼りました。
すると「目ぢから」の強さでアピールしてくる「毘沙門天」と目が合ったのでした。

 

相模国・願成就院(がんじょうじゅいん)が所蔵する毘沙門天立像がモデルとなっています。
寺伝では729(天平元)年5月15日とされ、願成就院大御堂(おおみどう)の阿弥陀如来坐像は行基(ぎょうき)によって造像され、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)が開眼供養を務めたとされています。この阿弥陀如来坐像は1160(永暦元)年、平治の乱後処置として伊豆国へ流罪にされた源頼朝が20年にわたる流人生活において信仰したという挿話があります。

360度、まわしてみましょう。

 

どの角度から見ても〝隙が無い〟凜とした姿をしていると高く評価されています。

 

鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』第九・文治五(1189)年六月六日条には、
  六日甲午、早旦、・・・(中略)・・・爲北條殿御願、爲祈奥州征伐叓。伊豆國北條内被企伽藍營作。今日擇吉曜、有叓始。立柱上棟。則同被遂供養、名而号願成就院、本尊者阿弥陀三尊、幷不動多聞形像等也。是兼日造立之尊容【云々】。北條殿直被下向其所、殊加周備之荘厳、令致鄭重之沙汰給、當所者、田方郡内也。所謂南條、北條、上條、中條、各並境。且執嚢祖之芳躅、今及練若之締搆【云々】。
                        ※【 】は割注(わりちゅう:直前の補足説明)
とあり、
 ・願成就院は北条時政の「御願」、奥州征伐の事を祈念して建てられた。
 ・1189(文治5)年6月6日、願成就院の立柱・上棟・供養が行われた。
 ・願成就院の本尊は阿弥陀三尊像、脇侍に不動明王・多聞天などが安置された。
 ・願成就院に安置する像は、願成就院の建立以前に造られていたものであった。
 ・北条時政は、先祖所縁の地を選び、願成就院を建てることにした。
ということが判ります。

寺伝とは異なり、実際の願成就院は1189(文治5)年6月6日のことで、北条氏庶流であった北条時政が〝北条氏の氏寺〟として創建したということです。
願成就院に安置する諸像は、建造物とは別の過程で制作されたということは意外です。

北条時政は1185(文治4)年11月に上洛し、1186(文治5)年3月25日に京を発しました。相模国鎌倉に帰還したのは1186(文治5)年4月13日です。
時政は京に滞在中、平安京内の治安維持をはじめ、平氏残党の捜索、源義経問題の事案処理、朝廷との政治交渉等の多岐の任務に当たっていました。その間のいずれかにおいて大和国奈良に居たと推測される運慶とコンタクトをとり、願成就院に納める諸像造像を依頼したと推定されています。

 

願成就院所蔵銘札によると運慶は1186(文治5)年5月3日、北条時政から依頼された諸像の造像を始めました。時政が鎌倉に帰還してから、およそ一箇月後のことになります。

現存・毘沙門天立像は、残念なことに顔の部分に多くの補修が施されています。
上瞼の目頭拡大、鼻先の修理などが大きな補修箇所といいます。

講談社『週刊 原寸大 日本の仏像』№40の「願成就院と浄楽寺 運慶仏めぐり」4頁にに掲載されている願成就院・毘沙門天の顔面アップ写真を見てみると、顔のところどころに補修の痕跡(の様な箇所)を確認することができます。
博物館刊行の展示図録や市販のムックなどを見ても補修の情報がほぼ皆無なので、専門の論文や学術専門書にあたるしかありませんね。当方は〝遊び〟でやっておりますので、そこまでは手を伸ばしませんっ。

イSム毘沙門天は、顔面の補修痕跡やヒビ割れ等の再現はしておらず、滑らか且つ質感の豊かな表情になっています。このスッキリした肌の質感再現により、今にも動き出しそうな生命力を感じさせる造形になっています。素晴らしい。

 

毛量豊かな頭髪を上にたくし上げ、これを二重の輪(もしくは紐)で固定しています。
髪の毛は頭頂部でいったん纏めて結び、更に上で折り返している「単髻」(たんけい)という髷の結び方をしています。
単髻の前方には宝珠形の飾り板を当て、その板に髷を固定するかの様に布で結び付けています。実際にこうした単髻にするためには髷の中に整形の為の板(もしくはその他の物)を入れなければなりませんね。これは彫像なので、そこは余り気にする必要は無いかもしれませんが。
髷を結んだ布の両端は、左右それぞれ反り上げさせており、サッパリ・スッキリした単髻に焔髪(えんぱつ)程では無いにせよ鋭角的な装飾があることで、頭部にアクセントが備わり〝勇ましさ〟が加わりますね。

 

イSム毘沙門天の最大の魅力は〝目ぢから〟。
玉眼ではありませんが〝玉眼の輝き〟を再現するため、6回にわたる彩色の重ねをおこなっているそうです。
「眼」(瞳)に筆を入れることができる職人さんは工房でも限られているそうで、高度な技術を要する箇所なのだそうです。「人形は顔が命」と言われますが、「インテリア仏像は眼(瞳)が命」ですね。視線を合わせると〝見られている〟感が凄くあります。

〝気味が悪い〟〝怖い〟・・・などと感じる方もおいでかと存じますが、お家に迎えたら家族・親族の様な存在になりますから〝護ってくれます〟よ(多分)。中途半端に拝んだりすると、いろいろと複雑怪奇な案件が生じるかもしれませんので、そこは自己責任ということで・・・。
当御所ではたくさんのインテリア仏像たちが居ますが当然拝んでいません。夫々が力を発揮したり、行動したり・・・は彼らの自由意志と認識しています。まぁ慣れですよ、慣れっ。

 

はい次、上半身を正面から観てみます。

毘沙門天に限りませんが、イSム様インテリア仏像は顔を観る角度・位置が変わると表情がガラリと変わります。
近づいてちょいと下から見上げると〝武骨な坂東武者〟と言うに相応しい顔をしていますが、毘沙門天の目線よりも上から見ることで〝可愛らしい〟表情になってしまいますね。

上半身の造形は左手に宝塔を、右手に三叉の戟を持っています。
願成就院の毘沙門天の戟を持つ右手の位置は胸脇・肩の高さにあり、更に右肘を外側に張り出していることから〝戦闘態勢にある〟緊迫感を醸し出しているのだといいます。
確かに、制止している上半身の姿から滲み出る〝威圧感〟は坂東武士が好みそうな佇まいですね。

 

右の掌の上に乗っかっている宝塔。

近づいて見ると「木目」の表現がありました。

彩色で、ポリーストーンなのにまるで木材で造られた様に見えてしまうのはイSム様の誇る高度な彩色技術の賜物ですな。

毘沙門天を左横から観ています。
左の掌(てのひら)に載せられている宝塔、ピントを合わせて観ると木製の宝塔に見えますね。でも、ポリストーンなのですよ(衝撃的事実です)。

先に紹介した「毘沙門天2020Limited」で判明した、左横から観ると正面では感じることの無かった〝嶮しい表情〟。通常版でも眉のラインの関係もあるのでしょうが、眼光の鋭い〝忿怒〟の念が溢れ出ています。

今度は同じ状態を右横から観てみました。

左から観た時よりも厳しさが和らいだ感じですな。観る人の感性にもよるのでしょう。

 

それでは次に、上半身を護っている装備について観ていきましょう。

装備は中国風の鎧ですね。胸甲の下に石帯を巻く装飾等は、天平期の神将形のパターンを採用していることが判ります。
肩甲など下甲を着し、その上に胸甲・腹甲などを重ねて金具や帯で締め付けています。
以前採り上げた「毘沙門天2020Limited」では、各甲や部位を金・銀・銅メダル・カラーで塗り分けられて凹凸・区分が判り易くなっていましたが、通常版ですと凹凸は判っても鎧が一体化しているように見えてしまいます。しかし、実際には本物に準じて忠実な鎧の造形を見事に表現しているのです。

 

中国風の装備であっても、坂東武者たちが好みそうな精悍・勇猛な武人の〝凜とした〟印象が伝わってきます。
鎧を纏っていても、鎧の下に厚い胸板、ポッコリしたお腹も含んで筋骨隆々とした身体が存在していることが判ります。腰を捻らせることで腰元に括れが生じ、胴体が引き締まっている様に見えます。
画像に見える左手に宝塔を掲げ、右手に戟(三叉の槍)をとる姿も、また中国における神将形像を模範としているスタイルだそうです。
願成就院モデルの毘沙門天は、左側に大きく腰を捻り、特に右手を高い位置にあげて戟(三叉の槍)を持つという、従来の神将形像とは異なる躍動感を感じさせる独自の魅力を有した像になっているのだといいます。

 

腰元を撚った太帯で引き締め、左右腰で結び付けた柔らかな天衣の様な布を前方に垂らして、前垂の上に載せています。制止している像ですが、硬い鎧の部分と柔らかな布の表現を重ねることによって〝実際に生きている感〟を受け取ることができます。

 

下半身を護るために3枚程の甲が重ねられています。
分割した甲を重ねることで、実際の〝動き易さ〟を意識した装備が表現されています。

 

重ねた甲から〝重苦しい感〟を受けてしまうのですが、膝元に膨らむ袴の曲線、そして下衣のたなびく様子を合わせることにより、制止してはいるものの躍動感溢れる足元になっています。
装飾付きの脛当(すねあて)もお洒落です。

 

角度を変えて、足元の様子です。
右足を一歩踏み出した状態で、二疋の暴れる邪鬼をズシリと踏み付けています。
履いているのは、毛彫りが施されていることから「毛沓」(けぐつ/貫:つらぬき)であることが判ります。

 

では円形の光背を外して、毘沙門天の背面を観ていきましょう。

グイッと左に腰を捻っていることが見て取れますね。
腰の括れもあることから、前方から観た印象とは違ってスリム感が際立っています。

 

後頭部を観ていますが、襟甲・肩甲・背甲で隙間無く身体を防御しています。
兜を着用していませんが、流れ矢が飛んできても跳ね返してしまいそうな防御力を有していそうです。単髻の真ん中部分が膨らんでいることで格好良さが倍増しています。ここは運慶の感性が卓越しているところですね。

 

背中全体を観ています。
腰に掛けての絞り(括れ)に眼が行ってしまいますが、左右の腕に付いている鰭袖(ひれそで)の広がり、下に垂れている窄袖(さくしゅう)の揺らぎもまた躍動感を表現しているとともに、上半身の美しさ・格好良さ(優雅さ)を感じさせています。
隙が無い上に、美しさを伴わせる造形は運慶の腕にもよりますが、このバランスを見事に再現されたイSム様造形技術が秀でている証でしょう。素晴らしい。

 

角度を変え、右斜め後方から観ています。
だいぶキツメに帯が締められていることになりますが、腰の括れが凄い。そして綺麗です。
この画像からは、お腹ポッコリ感が全く感じることがありません。むしろ逆三角形の屈強な身体であることを想像してしまいますね。
腰から臀部に掛けての膨らみもまた美しく、腰の括れを強調する効果を持っていますね。

 

腰の部分を真正面から見た画像です。腰の捻りから生じる曲線が美しいのです。
講談社『週刊 原寸大 日本の仏像』№40の「願成就院と浄楽寺 運慶仏めぐり」6頁にに掲載されている願成就院・毘沙門天の背面の写真と比較すると、本物と見紛(みまご)う程の忠実な再現であることが判ります。又しても素晴らしいっ。

 

目線を更に下げ、背面から足元を観ています。
後方にたなびく衣は、柔らかな膨らみを見せながら躍動感を表現していますね。

 

踏み付けられている邪鬼は、毘沙門天本体と同時期の製作という見解が示されているのたそうです。邪鬼の顔と手足の一部は後補だそうです。

毘沙門天も力尽くで踏ん張っているという訳ではなく、毘沙門天自身の重量で邪鬼が押さえ込まれているので、極めて自然な体勢で安定した立ち方をしています。

 

『吾妻鏡』によれば1185(文治元)年5月21日、南都大仏師の成朝(せいちょう)が源頼朝に招かれて相模国鎌倉に到着しました。「南御堂」に安置する仏像を造像するための下向だったといいます。
これよりも前のことになりますが『養和元年記』治承5(1181)年7月8日条によれば、興福寺復興にあたり、金堂・講堂が京都の院派・円派に属する仏師たちに、食堂・南円堂が奈良仏師が担当することになっていたようです。成朝は奈良仏師の正統ではありましたが、若年であったこともあり興福寺主要建造物の担当から外されてしまったと推測されています。
源頼朝は、平清盛の依頼を受けて造像に携わっていた京都仏師の院派・円派に「南御堂」、つまり源氏の氏寺としての勝長寿院に納める造像を依頼する気は無かったと推測されており、これが奈良仏師・成朝を選び、相模国鎌倉に招聘して造仏に当たるよう依頼したのだと考えられています。
再び『吾妻鏡』の記載によりますと1185(文治元)年10月21日、「南御堂」に仏師・成朝が造立した丈六・皆金色の阿弥陀如来像が納められました。次いで同年10月24日に「南御堂」は「勝長壽院」と名付けられ、源頼朝・北条政子等や名だたる御家人たちも参席し、盛大に供養が行われました。ちなみに、この供養会には「先随兵十四人」の中に「北條小四郎義時」が参列しています。
北条時政は、奈良仏師によって勝長寿院に納められた阿弥陀如来像の姿を見たのち、各種任務を遂行するために入洛を果たしたと考えられています。

源頼朝が奈良仏師に造像を依頼したことを契機に、奈良仏師と坂東武士たちと関わりも生まれていったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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