山城国阿弥陀寺(京都府)

先日、仕事で平安京を訪れた際に単独行動をする機会がありましたので、以前から気になっていた場所を幾つか訪れました。
そのうちのひとつが「阿弥陀寺」でした。

そう、本能寺の変で自刃した織田信長の遺骸が納められているという寺院ですよ。
せっかくなのでね、諸所を巡りつつ阿弥陀寺へと向かいました。
地図でだいたいの場所を把握し、微調整をしながら徒歩で目的地に向かっていきます。

京都御所の北面・今出川通りを東行し、「大原口道標」を左折し寺町通を北上します。
寺町通に入ると急に人気(ひとけ)が無くなります。
暫し歩みを進めると、右手側に寺院が並んでいるのが見えてきます。

阿弥陀寺の手前にも興味深い寺院があったのですが、時間制限がありましたのでね。
寄り道は、また次回の探訪で。
こちら、
阿弥陀寺の築地塀です。

 

築地塀の途切れたところから阿弥陀寺本堂の姿が見えました。
おっ、奥の方に駐車スペースがある。
次回の探訪は車で来よう、と思うのですが

寺の檀信徒や寺内墓関係者でないと、駐車場の利用はできない様です。

因みに阿弥陀寺本堂は普段非公開で、「信長忌」(6/2)に開放されるとのこと。
6/2に入京するのは、現実的には難しいですなぁ。
なかなか人気があるイベントらしいです。

 

 

山門前に到着しました。

 

蓮台山 惣見院
阿弥陀寺
〒602-0802 京都府京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
TEL 075-231-3538

 

門柱に掛けられた「阿弥陀寺」の標識。

 

門の手前には「織田信長公本廟」の石柱が立てられていました。
ぱっと見、何の変哲も無い普通の寺院ですよ。
でもこの石柱の存在で、緊張感が走ります。
ま、此処に〝織田信長が居る〟と知った上で訪れていますからね。

 

門の入口を潜り、案内に従って進んでいきます。
迷い様がありません。
必ず、この本坊前に到着します。

入山(織田信長墓への参詣)についての手順について説明が示されています。
呼び鈴を鳴らし、中に入りました。
すると寺院関係者の方が迎えてくださいました。
入山料500円を納め、朱印2種類(「阿弥陀如来」「信長公本廟」)をお願いしました。
寺院関係者の方(おばちゃん)が優しく、
「どちらからお参りで?」と問われたので
「武蔵国の川越からです」と応えたら
「まぁ、遠いところからお参りくださいましたぁ。」
次いで「(朱印を)書いている内に、お参りなさってください。」
と仰ったので
「はい、よろしくお願い致します。」
と墓に向かいました。

 

 

案内表示に従って、墓へと向かいます。

 

この渡り廊下を潜り抜けて、進みます。

 

案内表示には

 檀信徒及び寺内墓関係者以外の方で
  境内入山・織田信長公本廟参拝希望者は
   必ず阿弥陀寺本坊(山門内左奥)にて
   ○護持協力金(入山料)
    一人 五百円(十八歳未満 百円)
       山納し許可を得て下さい 合掌
   (中略)
                 阿弥陀寺」

とありました。
門前にも同じ表示がありましたので、ちょいと〝しつこいなぁ〟と思うくらいです。
こうした厳めしい表示と、本坊での寺院関係者の方(おばちゃん)の穏やかな対応に著しいギャップを感じてしまいます。

 

さて、そのまま進みますよ。

逸脱し様が無い、完璧な誘導です。

 

向こう側に、目標物が見えています。

 

形式的に据えられた門から、信長の墓を観ています。
「あれが信長の墓か」と、誰でも判る様になっていますよ。

 

左手側に手水舎がございまして、

 

織田毛の「織田木瓜」が彫り出されていますね。
手間が掛かっていますが、信長の墓があるということで必要なものですね。

 

この手水舎のドラゴンは、この様な表情をしていました。
水の流れが、ちょいと寂しい。

 

標識も立っていますのでね、「あれが信長の墓だ」と誰でも確信を持てる状況でした。

信長の墓という情報は知っていましたが、写真ではそれほど確認していた訳でもありませんので、とても新鮮な気持ちで信長の墓に対峙しています。

 

近付いて観ます。
「信長の墓」と言ってきましたが、「織田信忠の墓」でもある訳です。
阿弥陀寺清玉からすれば、織田信長も信忠もともに大事な存在だったのでしょう。

 

右側が織田信長の墓標、左側が織田信忠の墓標といいます。

 

諸説はあるのですが、

阿弥陀寺清玉は明智軍の幹部にも知られている存在だったため、寺内に立ち入ることが赦されたのだといいます。
織田家臣が信長の遺体を火葬していたところに阿弥陀寺清玉が到着し、その遺骨を阿弥陀寺に持ち帰ったそうです。
後に二条御所跡から織田信忠の、更に織田家臣たちの遺骸も阿弥陀寺に納めたといいます。

 

1917(大正6)年11月11日、寺内正毅内閣の時に故・織田信長へ「正一位」が追贈されています。
この折りに宮内庁の調査が実施され、阿弥陀寺の信長の墓が織田信長本廟所と認定されたのだといいます。

何れ近いうちに、また阿弥陀寺を参詣しようと考えております。
それまで、記録を調べてみますね。

 

まずは織田信忠の側からまわり込んでいきました。
グルッとまわる動画を撮影していたのですが、急に風が強く吹き付けてきて、墓標の後ろ側の卒塔婆がガタガタと音を立てて揺れ始めたのです。
それと同時に「キーン・・・キーン・・・」と金属音の如きが聞こえてきました。
なかなかなハード・スケジュールの最中、疲労も積もった状態での探訪でしたので、
  うわぁ、ハッキリと金属音が聞こえる。かなり疲れているわぁ。
と、思っちゃいました。
普段、こんな事はありませんからね。
本能寺の変で落命した人たちの墓の間を歩いた結果、本能寺の変を聴覚的に実感してしまったのでしょうか・・・

 

墓のまわりを一周したところです。
この時点で未だ「キーン・・・キーン・・・」と聞こえていましたよ。
何とも不可思議な現象、怪奇現象なのでしょうか?

 

 

信長・信忠の墓の左手側には森兄弟の墓がありました。
右が「森蘭丸源長定墓」
ひとつとんで
中が「森坊丸源長隆墓」
左が「森力丸源長氏墓」
です。

森長定(蘭丸)と森長隆(坊丸)に挟まれているのが
団忠正の墓です。
団忠正は、はじめ織田信長馬廻、のちに織田信忠側近となった人物です。
森長可(長定の兄)と昵懇だった様で、甲斐の武田征伐では共に先鋒を担いました。
血気盛んで、織田信長から叱責を受ける程だったといいます。
森長定(蘭丸)とも親交があった様です。

以前は、森兄弟の墓は並んでいたそうです。
団忠正の墓は、いつ頃にここに収まったのでしょうね。

勿論、他に本能寺討死衆の墓もありました。詳細は次回の探訪でね。

 

次いで、織田信長・信忠や本能寺討死衆の遺骸を阿弥陀寺に納めた阿弥陀寺清玉の墓に向かいました。

阿弥陀寺清玉の奔走があったことで、今回こうして阿弥陀寺を参詣することができました。
ある意味、感謝する対象です。

 

この後、今一度織田信長・信忠の墓に立ち寄り、阿弥陀寺本坊で朱印を受け取って寺を出ました。

 

 

結構な数の写真を撮ったのですが半分がデータ破損しており、残りの画像を駆使して何とか今回の更新が可能だったのです。
こうした画像データが壊れているということと、織田信長・信忠の墓で感じた怪奇現象は連動しているのでしょうかね?
謎です・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考までに、阿弥陀寺清玉の墓から織田信長・信忠の墓に戻ってきた時、

この画像のピンク色の枠内に見える、センサーが複数箇所に設置されていることを確認しました。
そう、金属音の様な怪奇現象は、このセンサーが作動していることで生じていた音でした。
こうしたセンサーの存在を認識すると、墓域内の幾つものセンサーが設置されていたことに気付きました。
世の中には不逞の族が居るということの証ですね。

 

 

 

 

 

 

 

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