大和国休ヶ岡八幡宮(奈良県)

またしても2021(令和3)年末に楽しんだ、大和国での駆足初詣のお話です。
ある有名寺院に向かっている途中のことでした。「瑠璃宮」って・・・。

この立札から北西に直線距離約700mと少々離れておりますが、「瑠璃宮」とは孝謙天皇(阿倍内親王)が752(天平勝宝4)年に造営させた離宮(別荘)のことでだそうです。
今回、このある著名寺院を訪れた時、瑠璃宮のことを知りませんでしたので、帰還してから調べましたよ。瑠璃宮は著名寺院の西の高台の地に営まれていたそうですが、孝謙天皇は重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が復位すること)して称徳天皇となり、奈良時代末の混乱期を過ごしましたから、この頃は瑠璃宮を訪れることは少なくなったのではないでしょか。称徳天皇の没後、朝廷は都を山背国長岡京・山城国平安京と現在の京都府内に遷都してしまいます。平安京遷都を機に瑠璃宮は衰退、廃墟となってしまったようです。その地は、著名寺院が長きにわたって管理していたといいます。1960(昭和35)年あたりから住宅地開発がおこなわれ、瑠璃宮跡地は「離宮ヶ丘町」と命名されつつも一般住宅が立ち並ぶようになりました。瑠璃宮跡地を示す石碑があるというのですが、民家に挟まれた判り辛いところに建っているそうです。Googleマップの航空写真で確認すると〝判り辛い〟のがお判りいただけるでしょう。次に、この著名寺院を参詣する際に足を伸ばそうと思いました。

 

駐車場に車を停めてから、著名寺院に向かっていた訳ですが、この様に綺麗に整備された参道を進んでいきます。

 

キョロキョロと周囲を見回しながら進んでいくと、

塀の残痕でしょうか?
いったい何時の頃の物なのでしょうかね?

 

そのまま参道を進んでいくと、親子連れがガイドさんの案内で立ち止まっていました。
ガイドさんが結構長い時間、語っているので、いったんその場を離れます。
すぐ横に近鉄橿原線の線路が敷かれていたので、そこを渡って反対側に行ってみました。

こんな感じ。
建物のほぼ真ん前で、ガイドさんの案内がおこなわれていますね。
慌てず、焦らず、腹を立てず周囲の風景・様子を楽しんでいると、ガイドさんの説明が終わるのです。
線路を再び渡って建物の前に戻ります。

 

せっかく寺院名を伏せていたのに・・・。立札でチラ見えしてましたがね。
先ほど線路の向こう側から見えていた朱塗りの建物は薬師寺の鎮守「休丘八幡宮」(やすがおかはちまんぐう)でした。
この案内板には、薬師寺に参詣する前にこの休ヶ岡八幡宮に参拝するのが作法と説明されています。知りませんでした。こうして神仏からいろいろと教えられているのですよ、多分。
「心穏やかに」境内へ立ち入ります。

 

手水がありましたが、水は出ていない。
大丈夫、物質的にはダメかもしれませんが、心は浄めて歩みを進めます。

 

あら、神々しい。
鳥居・石灯籠・社殿の組み合わせが美しいです。

 

んっ?何だ、この画像はっ?

 

石灯籠越しに社殿を見ていたのですよ。こんな遊びをしていると、とても楽しい。

 

そんなに大きくないのですけれどね、凜とした雰囲気漂う素敵な社殿です。
ホント綺麗に整備されていますよ。

 

ちょいと斜めから社殿の全体像を観ています。
いやーっ、美しいですなぁ。

 

社殿に近寄ってみる。
祭神は、神功皇后・僧形八幡神(そうぎょう/そうけいはちまんしん)・仲津姫命のお三方ですと。

 

 (    仲津姫命     /      僧形八幡神      /    神功皇后    )

 

休ヶ岡八幡宮は寛平年間(889~898)に宇佐八幡神を勧請し、八幡神を安置するために創建されたと伝わっています。
現在の社殿は1603(慶弔8)年、豊臣秀頼によって再建されたもので、重要文化財の指定を受けています。
中央の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の社殿に、八幡三神が安置されていました。国宝に指定されている八幡三神は現在、奈良国立博物館に寄託されているそうです。

〝僧侶の姿をしているのに神〟という矛盾している様に思われる表現ですが、これは矛盾することではありません。
日本列島には古来より神が信仰対象として存在しており、6世紀半ばに朝鮮半島を介して仏教が伝来してきました。
人類の歴史を顧みれば、信仰・宗教が異なることで戦争に繋がっていく事例は何時でも何処でも起こってきたことです。
しかしながら稀有なことに、日本列島においては仏教受容についての政治・軍事抗争は発生したものの、その後、仏教が鎮護国家のための政治的なイデオロギーへと調整されていき、奈良時代に既存の神道と伝来宗教の仏教が融合していくのです。これが「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)という考え方で、平安時代に仏教側の視点から「本地垂迹説」(ほんじすいじゃくせつ)が、鎌倉時代に神道側の視点から「神本仏迹説」(しんぽんぶつじゃくせつ)が発生しますが、〝神と仏の融合〟は長きにわたって人びとに浸透し続けてきたのです。

さて八幡三神には逢えませんでしたし、朱印をいただくこともできませんでしたので、社殿に手を合わせて失礼しました。

 

薬師寺に向かって行く途中、鳥居が目に入ったので注視してみました。
「孫太郎稲荷神社」だそうです。

詳細については不明な点が多い様ですが、平将門討伐で戦功を挙げた藤原秀郷(ひでさと)の後裔・藤原頼行(よりゆき)によって創建された稲荷社に起源があると考えられています。藤原頼行は秀郷の子・千常(ちつね)の系統で、文脩(ふみなが)の子・兼光(かねみつ)の子息です。頼行は、奥州藤原氏初代・藤原清衡(きよひら)の実父である「亘理権大夫」藤原経清(つねきよ)の叔父にあたります。藤原頼行の系統から藤原足利氏、小山氏、下河辺氏、結城氏などが出ています。
藤原頼行後裔、怪力で有名だった足利家綱(いえつな)もしくは佐野義綱(よしつな)が再興し、いずれも〝弥太郎〟を称していたことから「弥太郎稲荷」と呼ばれるようになったそうです。

狐の顔が嶮しいのと、参拝を継続できない稲荷には関わらないことを旨としています。
あまり狐との相性もよいものではありませんので、ここは敬意を以て素通りしました。

 

更に参道を道なりに進んでいきますと、

見えてきましたよ、薬師寺「南門」が。今回は「南門」からの南受付を通っての参詣でしたが、公共交通機関を利用すると「與樂門」(よらくもん)からの北受付になります。

 

左手側には、1981(昭和56)年に再建された「西塔」(さいとう)。

 

右手側を見ると、2021(令和3)年2月に全面解体修理が竣工した「東塔」(とうとう)の姿が。

いよいよ、大和国薬師寺「白鳳伽藍」に足を踏み入れていきます。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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