摂津国今城塚古墳 + 今城塚古代歴史館(大阪府)

今回は宿所を朝早めに出て、大阪府高槻市の「今城塚古代歴史館」を訪れてきました。

 

久方振りの古代歴史館でした。
開館時間とほぼ同時に駐車場へと入りましたが、訪問客の多いこと!
子連れだけぢゃなく、ご年配の方々もおいででしたよ。


入館したら案内ボランティアのおじちゃんに声をかけられまして、何も知らないって体で説明をお願いしました。
片手に資料をはさみこんだ、分厚いファイルを持って、懇切丁寧な解説をしていただきましたよ。
40分超、おじちゃんを専属解説員として、いろいろと教えてもらいました。
画像は、おじちゃんにお礼を伝えてから2周目の巡回で撮影したものです。

弓と鎧は難しいですが、楯ならホームセンターで入手する材料で作れそうです。

 

こちら、今城塚古墳の円筒埴輪ですが

船の様子が描かれている(線刻)のだそうです。

 

画像では見辛いのですが、肉眼ではしっかりと見えています。
継体天皇(男大迹王:をほどのおう)が越前国・近江国を往来していたことを考慮すれば〝船の線刻〟が持つ意義は象徴的ですね。



壁面には、本物の地層を剥ぎ取ってきた標本を展示しています。

 

剥ぎ取り地層標本は、埋納・堆積物の様子が正確に判明しますからね。



今城塚古墳の葺石を積んでいる作業を再現したジオラマです。

前回も気分が高揚して、たくさん撮影しましたが、今回はおじちゃんに解説をしていただいたお陰様で

遺構に基づき、排水口まで再現されていることを知りました。


この墳丘のジオラマ、

 

本物の石で再現されているのだそうです。
解説で〝本物の石〟と聞きましたが、
 1)人工物ではなく、自然の石
 2)今城塚古墳から持ってきた石
の、どっちでしょうね?
2)の可能性は低いと思いますがね。



こちら、円筒埴輪が並べられています。

前回は、何の気無しに通り過ぎていましたが、左側から5本目までが今城塚古墳から連れてきた本物の円筒埴輪だそうです。
おじちゃんの説明が無ければ、気付きませんでしたよ。

 

忘れないように証拠写真を撮っておきました(笑)。
見切れていますが、こっから右側はレプリカ円筒埴輪だそうです。
レプリカ円筒埴輪は1本、5~6万円がかかっているのだそうです。
おじちゃんの説明が無ければ、知らないままでしたよ。


葺石積みのジオラマ、感動的です。

 

石が崩れない様に固定されていますから、 1)自然の石 でしょうね。
強制的に動員された感が無く、石の配列を考えながら積んでいる様子が見事に表現されています。



こちらは石室の材質についての展示です。

 

左手前が竜山石(たつやまいし)製家形石棺レプリカ、
中央が阿蘇ピンク石製家形石棺レプリカ、
右奥が二上山白石(にじょうさんしらいし)製家形石棺レプリカです。



真ん中の阿蘇ピンク石製家形石棺レプリカ、蓋が少々ずらされているため、中の

 

継体天皇レプリカの様子を覗き込むことができます。

継体天皇レプリカがね、生々し過ぎると別の意味で話題になっちゃいますからね。
こんな感じが丁度良いのです。
それは置いといて、銅鏡や剣・太刀、沓などの副葬品レプリカが充実しています。
銅鏡レプリカの形状も違えていますのでね、気合いが入っていますよっ。



奥の二上山白石(にじょうさんしらいし)製家形石棺レプリカですが、

内側には水銀朱が塗られていた様子を再現しているのだそうです。
石棺内に塗られた赤色も
 水 銀 朱 :丹砂(天然硫化水銀)は希少・高価だった。鮮やかな赤色。
 ベンガラ朱:好物や土などから容易に採取できる、やや暗めの赤色。
の2種類があり、今城塚古墳から発見された石棺の破片分析によって、この赤色は丹砂(たんしゃ)だったことが判明しています。
ヤマト政権の大王(おおきみ)、もしくは政権中枢にいた人物でしょうからね。

赤色は魔除けの他、死者の再生祈願という意味合いがあります。
発掘された墳墓から出土した人骨に赤色粉が残存しているのは、そうした願いが込められたことを物語っているのですよ。



再会を楽しみにしていた

復元挂甲(けいこう)は、何と上野国(群馬県)へと出張中でした。
復元挂甲では、首を防御する「頸甲」(けいこう)や肩を防御する「肩甲」(けんこう)、更に兜に見える当時の東アジアにおける最先端の流行が表現されています。

この復元挂甲と再会できるのは今城塚古代歴史館なのか、他の博物館なのか・・・。



壁面に展示された今城塚古墳の模型です。

特徴は内堤(ないてい)の北側面に長さ約65m、幅役6mの張り出しがあります。
この張り出しは4区画に分劃でき、形象埴輪を並べて葬送儀礼を表現していたそうです。

ヤマト政権の大王墳墓は大和国や河内国に集中していたのですが、この摂津国三島平野のほぼ中央に位置する今城塚古墳から、越前国・近江国と淀川流域に君臨した継体天皇の支配者としての顔を考察することができます。
この壁面展示で他地域の墳墓との比較ができますからね。
大変効果的な立体展示ですね。



張り出し部分の、形象埴輪の配列状態を図示しています。

 

その向こう側に、本物の形象埴輪(修繕済)たちが並んでいます。

今城塚古墳の内堤に復元された埴輪たちが並んでいて、そちらも壮観なのですが、古代歴史館内に並んだ本物の埴輪たち(少数精鋭)は本物ですからね。
どちらとも迫力がありますので、両方を楽しむのがよろしいかと存じます。



常設展も、そろそろ終わりに近付いてきました。
3体の四足動物の埴輪が並んでいました。
ただの見学でしたら、素通り間違いなしでしたよ。
でも、おじちゃんに色々と教えてもらったのでね。

この展示では「狩猟の場面」が表現されているのだそうです。
2匹の犬が、1匹の猪を追い立てている様子だそうです。



寄って見ると

犬は牙を剥いていて、猪は毛を逆立てています。
修繕して、出土地点を考慮して、この狩猟場面が再現されているのであれば、物凄い知力・労力が結集された展示ですよね。
何と奥深いことでしょう。



もう常設展の出口前です。

ここは〝中臣鎌足=藤原鎌足コーナー〟です。
大阪府高槻市と茨木市にまたがる「阿武山古墳」(あぶやまこふん)が、鎌足の墳墓と確実視されています。

1934(昭和9)年、京都帝国大学(現・京都大学)の阿武山地震観測所を建設するにあたってトンネル掘削工事が実施され、偶然石室が発見されたそうです。
当時最高級の漆塗が施された「莢紵棺」(きょうちょかん)から60歳前後で死亡したと推定される男性のミイラ化した遺体がほぼ完全な状態で確認されました。
当時の世情から、副葬品を根拠に〝天皇家の祖先〟の可能性が指摘され、直ちに埋め戻されたそうです。

 

埋め戻し直前、京都帝国大学の調査団が「X線写真(レントゲン写真)」撮影を実施し、資料は観測所倉庫に保管されたといいます。
1980年代に倉庫からX写真やネガが再発見され、デジタル解析・調査プロジェクトが始動しました。
その結果、被葬者は
 〝激しい衝撃で腰椎(背骨)を骨折〟し
 〝数箇月間、寝たきり〟の生活を経て
合併症によって没したことが判明しました。
死没に至る経緯は『日本書紀』の記載と符合することから、阿武山古墳の被葬者は鎌足と特定されました(断定ではありませんが確実視されている状態です)。

展示スペースには、復元された
 「金糸の冠帽」
 「ガラスの玉枕」
が並んでいます。
「金糸の冠帽」は鎌足が没直前に天智天皇(中大兄皇子)から下賜された「大織冠」だと考えられています。

阿武山古墳の立地を鑑みると、摂津国三島は中臣鎌足が乙巳の変前に隠遁した場といいます。
神祇関連の職務を担う中臣氏は、日本列島内に幾つかの拠点を有しており、摂津国三島(現・茨木市安威)は中臣藍連(なかとみのあいむらじ)の拠点で、中臣鎌足の別邸が存在していたと推測されています。
中臣鎌足=藤原鎌足が摂津国三島に埋葬されたのは、政治家として一旦の隠遁から再起を図った運命の地であったからに他なりません。



ボランティア解説のおじちゃんに
 「地図で調べたら、かなり山奥らしくてたどりつけないんじゃないかと思っているのです。」
と問いかけたら
 「何度か行ったことがあるよ。年に一回は行っているね。」
とのお答え。
訪れた経験があるというので、
 「迷わないで現地へ行くには、どうすればよろしいでしょうか?」
と問うと
 「京都大学地震観測所っていれれば大丈夫だよ:」
と教えてくださいました。
これで、何時でも中臣鎌足=藤原鎌足に逢いに行くことができます(嬉)。


今城塚古代歴史館内を徘徊しました。

すると、平面の「はにたん」

 

そして立体の「はにたん」

と、遭遇しました。

 

石室レプリカで展示されていた阿蘇ピンク石、大きな現物が展示されていました。

写真を撮っていたら、解説ボランティアのおばちゃんが話しかけてきてくれました。
歴史観に持ち込まれた時、もっと綺麗なピンク色だったのだそうです。
特に何をするでも無かったのに、こうして展示していただけで黒ずんじゃったと、おばちゃんは嘆いておられました。
自然現象ですからね、致し方ありますまいて。



今回は今城塚古墳に立ち入ることが目的でしたので、古代歴史館を後にして古墳へと向かいます。

車止めが〝お馬さんの埴輪〟(笑)。
島根県の加茂岩倉遺跡駐車場の車止めが銅鐸だったのを目の当たりにした時と同様の衝撃でした。



道路を渡って

 

あとは身を任せればよろしいのです。

斯様に迷い様の無い程、丁寧な案内(ルート)が定まっていますから、確実に古墳まで辿り着けますよ。



ここを進んで行くと

感動の「今城塚古墳」(本物)と対面できました。
なかなか大規模な古墳でしたね。



「埴輪祭祀場」、古墳の内堤部に設定された復元埴輪群のもとで各種埴輪を愛でています。
〝日本の兵馬俑〟とも称されているのです。

葬送儀礼の様子を西方から観ています。

これが「第四区」:儀仗等儀礼(公的儀礼空間)の様子です。
宮門外に水鳥(白鳥)、飾り馬・裸馬。牛が並んでいます。


このまま東へと向かっていきますと

警護等の武人と鷹飼人が、その後ろに地鎮の力士が、更に後ろに祭壇と盾が配置されています、
水鳥は〝大王の魂を冥界に運ぶ〟役割を果たすのだそうですよ。



塀で区切られた、ここから「第三区」:宮門内での鎮魂儀礼(公的儀礼空間)となります。
手前に水鳥(雁と鴨)、鹿角製柄頭大刀が並んでいます。

塀の際から武威を示す盾・靭(ゆき)・大刀、祈人である巫女、歌舞飲酒を表現する楽人、

 

匍匐(ほふく)儀礼を表現する獣脚(じゅうきゃく)、言挙げをする冠男子、副屋の蓋、祭殿と鶏が並んでいます。
この〝匍匐儀礼を表現する獣脚〟というのは、大王の葬儀で地面に這いつくばり哀悼や服従を、動物の脚に仮託した埴輪のことを指しています。



塀の右側から「第二区」:ここも:宮門内での鎮魂儀礼(公的儀礼空間)となります。
手前に木製柄頭大刀を並べています。

向こう側には巫女、福屋・甲冑、祭殿・鶏、そして門が配されています。



そして、この塀から「第一区」:招魂儀礼(指摘儀礼空間)です。

 

手前に蓋が並び、片流れの造りの喪屋、向こう側に副屋・祭殿・鶏・器台が並べられています。

身舎を吹き抜けにした入母屋造/寄棟造/片流れ造の家が一棟ずつ配置されています。
入母屋造の家には一羽の鶏が沿い、東西方向に5基の器台が並んでいます。
東側の柵列一と、西側の二区との間の柵列二には共に門が配置されておりません。
このうち入母屋造の一棟には、妻側の軒の周囲にには4尾の魚と1羽の水鳥が配されています。

大王の死後の宮殿の様子ですね。



埴輪祭祀場(通称「はにわバルコニー」)を後にし、今城塚古墳の内側に進んでいきます

円筒埴輪が容赦無く並べられています。
1本、5~6万円ですからね。

 

この門を抜けると・・・

 

ヤマト政権の大王墳墓(今城塚古墳)に立ち入ることになります。

「河越御所」として大王墳墓への立入は初となります。
感慨一入にございます。



〝ここから入ってね〟と言わんばかりの石段です。
ここから今城塚古墳の本体に身を投じます。

大王墳墓の凜とした雰囲気に感動し、更に気分が高揚してきました。
深呼吸してから、歩みを進めました。



墳丘の高いところに来たら、道が複数に分かれており、

この先へは「立入禁止」ということで、進みませんでした。
道があるのにね。
こうした場合、
 1)「立入禁止」とあるので道があっても進まない
 2)「立入禁止」は草が生えている場所で、道は進んで構わない
という解釈ができるのですが、万全を期して 〝1)〟 を選んでおります。
今城塚古墳へ初めての立ち入りですからね。
無理・無茶はしません。
今後、今城塚古墳に何度も通って、場の雰囲気に馴染んでから考えますよ。



違う道を進むと、方形の墳丘を巡る道が数本ありました。

こういう時は〝考えず〟に、〝気の向くまま〟に動きます。
おそらく〝導かれている〟ので、そのまま身を任せて動きます。



一旦、外側の様子が把握できる場所に出て、

 

また、草叢の中に入っていきます。

 

画像はたくさん撮ったのですが、かなり端折って掲載しています。
この後、うねうねと道を進み、おそらく後円部あたりに到達しました。

 

「前方後円墳」の呼称は、江戸時代の学者「蒲生君平」(がもうくんぺい)が『山陵志』(さんりょうし)で〝必象宮車、使前方後円〟という説明をしたことから生まれた表現です。
 「前方」…奥側で、被葬者が眠る場
 「後円」…手前側で、儀式の場や拝所として機能
という億・手前という空間認識は、現代の学術的見解と一致していると見做されています。



ここを進んで行くと、ちょっと上り坂になっており

 

右側の木の辺りに立つと

下り坂になっていました。



多くの人びとが立ち止まったであろう場所(草が生えていない)に立ち、振り返ると

三つ叉に分かれた木が生えていました。
継体天皇がここに居るとは思いませんが、前方部では生命力を感じたところですね。



また道を進んで

前方部の墳丘から出ました。

 

残っている周壕に面しながら円堤に向かっていきます。

 

180度振り返ると

埋め立てられています。

1568(永禄11)年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛作戦を展開した際、今城塚古墳に織田軍が入ったそうです。
敵対する三好三人衆(三好菜逸・三好政康・岩成友通)の芥川山城への圧力をかける為だった様ですよ。
その際に、内壕の一部を埋め立てて通路を造成し、「切岸」「櫓台」「土塁」が築かれた遺構が確認できるそうです。
そこまでは意識・観察しなかったので、次回は室町時代末期の軍事要塞へと転用された今城塚古墳を歩いてみますね。

 

ボランティア解説のおじちゃんが
 「織田信長が、新しく城として造り変えたことから〝今城〟と呼ばれるようになった」
って教えてくださったことを思い出しました、



右側が古墳、真ん中が織田軍によって埋め立てられたところ、左側が内堤ですね。

この高低差から、織田軍が駐留したことが現実味を帯びて感じることができました。
かなりの軍勢を収容できたことでしょう。
勿論、堤の外側にも織田軍は溢れていたことでしょうがね。



実際の「今城塚古墳」、楽しかったですよ。
ボランティア解説のおじちゃん、とても丁寧にお話してくださって今城塚古墳の他にも関連史跡について教えていただきました。
古代歴史館の解説ボランティアおじちゃん/おばちゃんが親近感いっぱいで説明してくださるので、是非お話をうかがってくださいな。
素敵な思い出になるでしょう。

後円部で、半分が斜面になっていたのが気になっていたのですが、それは1596(文禄5)年に発生した「慶長伏見地震」による崩落によるものだったそうです。
今城塚古墳の真下に活断層が通っていて、後円部の南側半分が滑落したのだそうです。
後円部だけでなく、前方部もガタガタな感じがしました。
前方部は織田軍駐屯による改造がなされていますから、今城塚古墳の本来の姿ではなくなっているのですが、それでも「今城塚古墳」がこうして形を遺していることは貴重なことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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