大和国法起寺(奈良県)

以前から気になっていたのですよ(笑)。
大和国法隆寺には、これまで、何度も参詣しています。
先の更新では、気になっていた「法輪寺」に参詣したことをお話しました。

この時(2025年3月初旬)はスケジュール調整で1日斑鳩と決めていました。
ですから、この標識にある様に「法輪寺」駐車場に車を停めて参詣したあと、「法起寺」へと徒歩で向かいました。
距離的には、大して遠くありませんでしたからね。
 (「河越御所」では歩いて20~30分程度を〝近い〟と定義しています。)

 

この道を真っ直ぐ進めば、法起寺に辿り着くのです。
初めての法起寺でしたが、不安はありませんでしたよ。

 

もう世の中的には携帯電話の普及により、公衆電話ボックスの必要性はほぼ無くなったことでしょう。

でもこうした飛鳥時代の寺院を意識して意匠を凝らした電話ボックスは、観光地の宣伝になりますからね。
是非共、存続を期待したいものです。

 

道を直進していくと、右手側に、気になる古墳が・・・。

富郷(とみさと)陵墓参考地ということで、〝伝〟が付随しますが「山背大兄王の墓所」だそうです。

斑鳩では「崗の原」と称され、聖徳太子(厩戸皇子)の後継者・山背大兄王(やましろおおえのおう)の墓所と伝わっています。
山背大兄王は父の没後、斑鳩の地に法輪寺・法起寺を建立したと云われています。
父・聖徳太子(厩戸皇子)は皇位を継承することはありませんでした。
山背大兄王も2度、皇位化粧のチャンスがあったものの、蘇我氏の政治介入により実現することはありませんでした。

643(皇極天皇2)年11月、所謂「上宮王家滅亡事件」が発生します。
蘇我入鹿が皇位継承をも目論む軽皇子(後の孝徳天皇)や中大兄皇子(後の天智天皇)らと連合し「上宮王家」斑鳩宮:(聖徳太子一家)を襲撃しました。
山背大兄王は斑鳩宮を脱出、生駒山に逃げ込むも銭湯は回避し、斑鳩寺(所謂「若草伽藍」)で家族とともに自害してしまいます。

この時は、この古墳のことを意識していませんでしたので立ち寄りませんでしたが、何れは訪れてみっようと考えております。

 

法起寺の山門に到着しました。

とてもこぢんまりした寺院です。
山門も小さく

 

築地塀も低いのです。

 

「法起寺」の看板も

薄くなっています。
「法隆寺地域の仏教建造物」の一部となっていますが、法隆寺と距離的にも離れているので、なかなか観光客が訪れ辛いでしょうな。

法起寺は山号「岡本山」という聖徳宗の寺院で、岡本寺・岡本尼寺・池後寺(いけじりでら)・池後尼寺などとも呼ばれていました。
嘗ては「ほっきじ」と読まれていましたが、寺院側の正式呼称は「ほうきじ」と定められています。
聖徳太子(厩戸皇子)が建てた七大寺のひとつに数えられていますが、伽藍の感性は聖徳太子没後から数十年恵果してからのことだそうです。

17時に閉門するということですのでね、法隆寺から法輪寺・法起寺という順よりも、法輪寺・法起寺を参詣してから法隆寺という参詣順が宜しいでしょう。
自家用車利用であれば、順不同ですがね。

 

山門を潜ると、ほぼ正面②三重塔が見えます。
手前の左手側、拝観受付があります。
朱印は、先にここでお願いします。
帰り際に声掛けすると渡してくださいますよ。
 「法華経広讃岡本宮」
 「十一面観音」
の2種類をいただきました。

朱印に「岡本宮」とあるのは606(推古天皇14)年、聖徳太子(厩戸皇子)が法華経の講説をした岡本宮を寺院に改築したことに因んでいます。

 

拝観受付に居たるまでの築地塀、

 

土の重ね塗りの状態が判り易くなっています。
そんなに古い塗りではなさそうですね。

 

こちらは鐘楼跡。

基壇が残っているだけですね。
残念です。

 

こちらは「南門」です。

法起寺境内側から見ています。

 

次回の参詣時は、回り込んで外側から観察してみますね。

 

この南門から、三重塔を遠目に望んでいます。

この三重塔の露盤銘には622(推古天皇30)年2月22日、聖徳太子(厩戸皇子)が没する前に山背大兄王へ岡本宮を寺院に改築することを遺言したことが記されているそうです。
・・・とは言っても法起寺三重塔露盤銘そのものは現存しておらず、『聖徳太子伝私記』に収録(引用)されているもので、文章に意味が通じない箇所があるそうです。
美術史家の故・会津八一氏が1931(昭和6)年に「法起寺塔露盤銘文考」(東洋美術 第9号)で露盤銘の誤写を指摘して露盤銘復元案を発表されました。
この結果、露盤銘は史料として信用されるに至ったとのことです。

参考として『聖徳太子伝私記』(定本古今目録抄)の翻刻をあげておきますね。

法起寺塔路盤銘文
上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日臨崩之時於山代
兄王勅御願旨此山本宮殿宇即處専爲作寺及大倭國
田十二町近江國田卅町至于戊戌年福亮僧正聖徳御
分敬造彌勒像一軀搆立金堂至于乙酉年恵施僧正将
竟御願搆立堂塔丙午年三月露盤營作
「此寺【法隆寺】後在山或近名寺山或遠号花山此花山去
寺六七丁其山中自建久之比設龍池奉勧請善達龍王
【或云善徳或云語龍云々】自其以来降雨隨人噫此花山東端也當此
龍池丑寅方一丁之内有閼伽井當寺夏衆掬後夜水井
此龍王勧請者當寺五師一﨟大法師隆詮【寶光院々主也真言師也八十九入滅】歎此邊早損愁相具供養法衆十口【聖霊院供養家也】今忝籠波山今勧請給也即金剛佛子隆詮口决云向被龍池祈請時以年来所持御舎利一枚作【サヽ篠】舩入
之而浮于池水上即自西岸纏頸玉虵【長一尺許】經池
至中嶋真色極赤在暫時親寄子【サヽ□】舩之邊畢【云々】
時佛子流歓喜涙【親七日之内降雨畢】令相傳于顕真大法師給
【云々】
毎日三時修如意輪法【士々】後人守此等先證所可行
也従其時寺僧毎日一座仁王經講讃【士々】
「當上宮王院北去十町許有寺名三井寺亦名法林寺在
金堂講堂塔食堂等建立之様似法隆寺此推古天皇年
中所建【云々】百濟開法師園明法師下氷新物等三人合
造【云々】此寺奉爲聖徳太子山背大兄王建立【云々】然則
下氷新物者即大兄王歟【士々】
令此三井寺者自昔法隆寺末寺也而中昔依大和國
國司沙汰自法隆寺所出興福寺一乗院畢令此寺爲
太子御脳消恕推古天皇卅年壬午歳大兄王并由義
王立此寺【云々】大施主昔膳妃也【士々】
今者法隆寺敷地四面大旨被打入他庄北者興福寺
一乗院領南亦同之西方近衛殿領即西際目者聡明
寺西峯也當寺後山西之際目切立於岸第一明鏡
也其岸筋聡明之西浦也山峯上在方至之石令者堀
落平群河之枯水井碩碩之上有川中其石方七尺五寸
顕然也石面有銘文【云々】
                ※【】は割注

故・会津八一氏の「法起寺塔露盤銘文考」(東洋美術 第9号)を読んでいない(未入手)のですが、機会があればね、確認してみますよ。

 

『聖徳太子伝私記』によると、聖徳太子没後の638(舒明天皇10)年に僧侶・福亮によって弥勒仏を本尊とする金堂の建設が始まったといいます。
塔(三重塔)は684(天武天皇13)年、僧侶・恵施によって建設が始まり、文武天皇の706(慶雲3)年に完成したといいます。
聖徳太子の遺言を受けた山背大兄王が岡本宮の改築を始めてから法起寺三重塔が完成するまで84年もかかっていますね。

 

鎌倉時代と江戸時代に大規模な修理が行われていますが、日本最古の三重塔です。
1970(昭和45)年から1975(昭和50)年にかけての解体修理において、創建当時の姿が復元されたそうです。

 

法起寺三重塔の相輪は、この様になっています。
塔の相輪にも個性がありますよね。

 

二層(2階)・三層(3階)の高欄、塗りから新しいものであることが判りますね。
これは昭和の解体修理において復元されたものだそうです。

 

卍崩しの高欄です。
斑鳩の地に建てられた塔の雰囲気が出ていますね。

 

法起寺三重塔は初層の屋根から三層の屋根へと段々小さくなっています。
法起寺三重塔の初層・二層・三層は、法隆寺五重塔の初層・三層・五層とほぼ同じ柱間だそうですよ。

 

法起寺三重塔の前に立って、見上げています。
後世の修補があるとはいえ、飛鳥・白鳳期の佇まいを感じる木組みですね。

 

初層の扉が開いていました。
何故か、ここで撮影しただけで、内部を覗かないでしまいました。
次回の参詣時に、絶対覗きますよ(笑)。

 

石灯籠越しに法起寺三重塔を望んでいます。
法起寺は、法隆寺西院の伽藍(左側に五重塔/右側に金堂)とは逆だったと言われています。
つまり右側に金堂、左側に塔(三重塔)が配置されていたのです。

 

こちらは聖天堂です。

法起寺創建時、ここに金堂が建てられていたと伝わっています。
聖天堂の創建時期は不明ですが、現在の聖天堂は法起寺僧侶の順光が1863(文久3)年に再建したものだそうです。
江戸時代の終わりに近付く幕末期の建造物ですよ。

 

こちらは講堂。

発掘調査により、法起寺創建時の講堂は現在の倍以上の面積であり、左右から廻廊が伽藍を囲んでいたそうです。
現在の講堂は、法起寺僧・真政圓忍が1694(元禄7)年に再建したものです。

 

講堂前の石堂塔にご注目ください。
円形に箒目が残っています。
午前中の参詣でしたので、参拝客が少なかったからでしょう。

 

収蔵庫には、ガラス越しになりますが

重要文化財に指定されている十一面観音菩薩立像を拝観することができます。
10世紀後半頃、平安時代中盤の作品と考えられている、講堂の本尊だそうです。
頭・体の幹部は杉の一材から彫り出されているそうです。

 

そろそろ次の目的地へと移動する時間になりました。

三重塔に別れを告げて撤収です。
ここで向きを変えたところ

なかなか深刻な現実を目の当たりにしました。
・・・今後も法起寺に参詣しますよ。

大和国斑鳩は、法隆寺だけではないことを実感した遠征でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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