「富本銭」鋳樟(大和国)

毎年「発掘された日本列島 新発見考古速報」という展示が開催されています。
最近では東京都江戸東京博物館がその最初の会場となり、その後は全国の博物館を行脚していきます。
かなり前のことになりますが、「発掘された日本列島 新発見考古速報」は上野の東京国立博物館からスタートし、各地の国立博物館をめぐっていました。
その頃は国内の有名遺跡で出土した遺物が注目を集め、展示前には人集りができていました。
その時期のミュージアムショップには特設売店が併設されており、販売するグッズも出土遺物を模した、しかも出来映えの良い物がずらりと陳列されていました。

本日紹介する「富本銭」鋳樟のレプリカも、このような時期に特設売店で陳列されていた物でした。

富本銭は、既に近世(江戸時代)の知識人・好事家たちにその存在が知られており、厭勝銭(まじない銭)という認識で扱われていたそうです。

1694(元禄7)年に刊行された『和漢古今寶銭図鑑』には、銭貨と絵銭・本物と偽物の区別が未発達なために誤った情報もありますが、「富夲銭」表記で掲載されています。また、丹波国福知山藩主で蘭学者・文化人でもあった朽木昌綱(竜橋)の手による1798(寛政10)年の『和漢古今泉貨鑑』には、富本銭に大小2種類の存在を指摘し、これを厭勝銭と位置づけて「冨夲七星銭」と命名しました。

富本銭は円形方孔銭であり、方孔の上下に「富夲」の2字が鋳出されており、また方孔の左右にはそれぞれ亀甲形に7つの点が鋳出されています。この7つの点は七曜星と呼ばれる、中国の陰陽五行説の思想を表現した模様です。

ちなみに昔の銭貨が方孔であるのは、そこに正方形の棒を通して何枚もの貨幣を固定し、側面の鋳型からはみ出した銅(バリ)を鑢で磨いて円形に整えるためです。

この鋳樟レプリカでは、6枚の富本銭鋳造が再現されています。
ただ単純に6枚の富本銭を付けている訳ではなく、鋳造失敗の2例が再現されていることが高評価ポイントです。
銅鏡や銅鐸は詳細な線刻・模様を鋳出さなければなりませんから、砂の鋳型に線刻・模様を彫り込みます。同一の鋳型で複数の青銅器を鋳造するのですが、5~6回の鋳造以降になると線刻・文様がだんだん不明瞭になっていったり、鋳型にヒビが入ったりしてできあがった物の精度が低下してしまいます。
古代の銭貨は量産が前提になりますから、砂製鋳型よりも強度がある土製鋳型を用いています。土製鋳型は加工し易く、さらに原形の型抜きが可能といった特徴があります。
実際の土製銭貨製作鋳型は壊れ易く、また土中では残りにくいということもあるので、この鋳樟レプリカはこうした背景を物語ることができる、とてもレアなアイテムなのです。

 

当方図書寮には富本銭関連の書籍が無かったのでWEB上で富本銭の出土に関連する情報を検索し、略年表にしてみました。齟齬があるかも知れませんので、正確な情報を必要とされる方は専門書等をご参照ください。

〈 日本国内における「富本銭」出土 〉
 1969(昭和44) 平城京跡から出土
 1985(昭和60) 平城京跡で和同開珎などとともに出土
 1991(平成3) 藤原京跡から出土
 1993(平成3) 藤原京跡から出土
 1995(平成7) 群馬県藤岡市の上栗須遺跡から出土
 1997(平成9) 大阪府大阪市天王寺区の難波宮・細工谷遺跡から出土
 1999(平成11) 奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出土
 2007(平成19) 藤原京跡から出土

1999(平成11)年の飛鳥池遺跡での発掘では、富本銭の不良品、残り滓、鋳型、溶銅などが確認され、溶銅量から富本銭9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかとなりました。アンチモンの含有割合などが初期の和同開珎とほぼ同量であったことから、〝富本銭は和同開珎のモデル〟であったと推測されているそうです。
また、2007(平成19)年の藤原京跡から出土した富本銭9枚のうち、8枚は少なくとも従来のものとは異なる字体であり、飛鳥池遺跡から出土した富本銭よりも厚手であったことが判明しています。

藤原京大極殿院南門における調査にて、藤原京地鎮祭遺構が発見されました。
南門付近において平瓶の口縁部に富本銭9枚、内部に水晶9点が確認されたそうです。
この時に確認された富本銭9枚のうち、8枚は少なくとも従来の物(飛鳥池遺跡出土品)とは異なる字体であり、また厚手であったことが判明したそうです。更に出土9枚のうち、4枚はアンチモン含有が確認されていないそうです。

字体の相違については、「銅」誌第166号 銅の歴史物語
(http://www.jcda.or.jp/Portals/0/resource/center/shuppan/dou166/d166_03.pdf)
に出土品の写真と字体比較イラストが掲載されていますので、ご参照ください。

  飛鳥池遺跡出土・富本銭 …「富」字がウ冠、「夲」
  2007年藤原京出土・富本銭…「冨」がワ冠、「夲」

このことから、2種類の「富本銭」が存在していたことが判明したのだそうです。

さて、別個に蒐集した「富本銭」レプリカを紹介致しましょう。

赤味がかった錆を再現した「富本銭」(「富」字)です。

 

緑錆の出ている様子を再現した「富本銭」(「富」字)です。
この2枚が、入手しやすい「富本銭」レプリカです。

 

出土品をイメージして再現した「富本銭」(上部が潰れているので「富」か「冨」が判読できません)です。

 

実際には存在しませんが(出土例もありません)、〝絵銭〟としての銀の「富本銭」です。

 

鋳樟レプリカの背面になります。裏側についてはあまり手を加えられていませんね。

棹の部分に「造幣 泉」の刻印があります。これは「造幣局泉友会製」ということを意味しています。

 

『日本書紀』天武十二年(683)夏四月壬申(4/15)条に
「詔曰、自今以後、必用銅銭。莫用銀銭。」
(詔して曰く、今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫れ。)
と、天武天皇から銅銭使用の命令・銀銭使用禁止命令が出されたことが記載されています。

また『日本書紀』天武十二年(683)夏四月乙亥(4/18)条に
「詔曰、用銀莫止。」
(詔して曰く、銀を用いることを止むること莫れ。)
と、天武天皇から銀銭使用禁止命令の撤回が出されたことが記載されています。

この『日本書紀』に見える「銅銭」とは富本銭を、「銀銭」とは無文銀銭を指すと考えられています。

研究者の間でも、富本銭は
・流通を意図した貨幣として鋳造された物
・流通品ではなく、厭勝銭として鋳造された物
・流通を意識した物だが、無文銀銭との関わりから流通は停止され、結果的に厭勝銭とされた。
というように、未だ富本銭が広く流通していたと断言できる根拠は確認されておらず、新聞記事などのセンセーショナルな表現の様に定義されていないのが現状です。

 

 

 

 

 

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