この前(2026年2月下旬)、公共交通機関+徒歩で河内国壺井八幡宮に参拝した時のお話です。
いつもは自家用車で行き来していましたが、公共交通機関を利用したので近鉄「上ノ太子駅」から歩いての往復でした。
具体的には探訪エンターテイメント部門(その弐)の「河内国壺井八幡宮/壺井権現社(大阪府)その肆」をご参照くださいな。
さて壺井八幡宮をあとにし、「通法寺」跡へと向かいます。
勿論、徒歩ですよ。
何度か訪れていますからね。
この画像は、近鉄「上ノ太子駅」から歩いて判り易い最短ルート?で、出てくるところです。
壺井八幡宮の方向を見ています。
「通法寺」跡は、この反対側へと進みます。
この次の曲がり角を左折するのですよ。
歩くと細い道を進むことになります。
写真を撮っておけばよかったですね。
次回の課題ですね、
10分も歩きませんよ。
「通法寺」跡に到着です。
建物は失われていますが、江戸時代の山門は遺っているのです。
明治時代になると廃仏毀釈の影響でしょうね、廃寺となったそうですよ。
「通法寺」は「石丸神社」となりましたが、1907(明示40)年に壺井八幡宮へ合祀されたのだそうです。
山門には
「郷祖」 「氏源」
(「祖郷」 「源氏」)
と墨書された板が掲げられています。
額じゃないのです。
軒丸瓦を観察すると、三巴紋(みつどもえもん)に連珠文(れんじゅもん)が合わさっています、
火除けの呪(まじな)いですよ。
山門を潜って斜め左手側には
「源義家の墓」があります。
「通法寺」の創始については2説あるようで
1)1043(長久4)年 源頼義、仁海谷(にんかいだに)において千手観音を発見、
自身の居館南側に精舎を建立して「通法寺」と号したことを始まりとする。
2)1043(長久4)年 源頼信、草庵を創建。
前九年合戦後に源頼義が河内源氏の菩提寺として増改築したことに由来する。
というものでした。
墓石には「源頼義朝臣之墓」と刻まれています。
朝臣(あそみ/あそん)とは主に五位以上の貴族に授与された八色の姓(やくさのかばね)の2番目を起源とする称号です。
< 源頼義官歴 >
1036(長元9)年10月14日 相模守
1051(永承6)年 陸奥守
1053(天喜元)年 鎮守府将軍兼任
1056(天喜4)年12月29日 陸奥守更任
1063(康平6)年 2月27日 正四位下、伊予守
1075(承保2)年 7月13日 没(享年88)
(年月日は旧暦です)
墓域は石柵で囲われ、中に入ることはできません。
石扉が閉じていますのでね。
開けて立ち入ることは可能でしょうが、そこは古(いにしえ)の名将の墓ですからね。
敬意を以て参じましょうね。
三葉葵ではなく、笹龍胆であるところが嬉しいですね。
墓域内で大きくなり過ぎたのでしょう。
伐採された木の根っこ。
観察すると、複雑怪奇な生え方をしていますね。
「通法寺」境内の木、同じような特徴があるのですよ。
この「源頼義の墓」があるところ、元々は「観音堂」が建っていたとのこと。
源頼義の遺言により、遺体は観音堂の下に埋葬されたと言います。
建物は現在失われていますが、『河内名所図会』を観察すると、当該地には「御魂者」(おんたましゃ)と記載され、向拝(こうはい)を有した宝形造(ほうぎょうづくり)の建物が描写されていました。
因みに現在(2026年2月下旬)の石柵内の状況は、こんな感じ。
案外、雑然としているの。
「源頼義の墓」からちょいと離れて、「本堂」があった方角を観ています。
横向きのパノラマ画像にございますよ。
「通法寺」境内は、横に長うございます。
「源頼義の墓」から「本堂」跡に移動してきました。
「本堂」跡を、横向きパノラマ画像で撮影しています。
この画像ではハッキリとしませんが、礎石が配列しているのですよ。
礎石の配列から江戸時代の建立された「本堂」は東西15m、南北14.5m、0.5mの基壇の上に存在していた様です。
現在の礎石の配置から、江戸時代に建立された「本堂」は桁行五間、梁行四間の建物が復元でき、『河内名所図会』に見える通法寺本堂の挿絵と合致するのだそうです。
「本堂」南面には東西4.8m、南北1.8mにわたって敷石(しきいし)が見られます。
これは「本堂」に向拝(こうはい)が存在していたことを示しているのですよ。
この敷石、一辺38cmの花崗岩の切石を使用したものだそうです。
東西に12枚、南北に5枚使用されているのだそうです。
・・・残念っ、この画像には全部が写っていなかった。
Googleマップで空から見た「通法寺」境内跡の様子です。
(Googleマップより作成)
因みに「本堂」北の尾根には「稲荷社」(小堂)があったと推測されています。
「本堂」跡に生えていた樹木が伐採されています。
建造物は無くなっても、情景に想いを馳せるためには樹木は不要ですからね。
江戸時代の「鐘楼」が見えています。
「鐘楼」の正面に立っています。
それほど大きいものではありませんが、基盤の上にしっかりと立っています。
そのまま後退りすると
石階段がありますぞ。
位置・向きからして「鐘楼」の正面に施された石段であることが判ります。
今一度、「鐘楼」に近付きます。
徳川綱吉の元禄期・再建とはいいましても、山門と同様に保存状態は極めて良好にございます。
「本堂」も遺しておけば良かったのにねぇ。
「鐘楼」内に入りますと
梵鐘が吊り下げられていた痕跡がありました。
残念ながら明治時代の廃仏毀釈の折り、梵鐘の行方は不明となってしまったそうです。
しかし『羽曳野市史』には「通法寺鐘銘」として、梵鐘に刻まれていた銘文が伝わっておりました。
「
磯長山畦 香呂城中 弘通密法 安置円通
継絶構殿 興廃建宮 華鯨孔月 霜鐘響空
驚長眠夢 開掩耳聾 衆罪露滅 諸業水融
脱其刀海 出彼鉄籠 攘災国富 除厄民豊
樂只君子 福寿無窮
」
というものでした。
文章的には江戸時代の作文ですよね。
「鐘楼」の斜め後方、現在は果樹園となっているところですが
石階段が遺っております。
ここには「本坊」もしくは「鎮守」が存在したと考えられています。
「鎮守」跡の南に、花崗岩で造られた「寺法通」(通法寺)の文字が彫られた手水鉢があります。
下の部分は埋まっているため、動かすことは難しい様です。
この手水鉢から離れ、「鐘楼」・「本堂」跡・「観音堂」跡(源頼義の墓)を望んでいます。
ここから後退りすると、源頼信・源義家の墓へと向かう道路に出ます。
因みに、右手側後方には「源氏館跡」の碑が建てられています。
次回の参詣時には、もっと細やかに「通法寺」跡を撮影してきますね。
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