仏頭(イSム「掌」限定再販 2nd.Ver.)

イSム様より2020(令和2)年2月に200体限定復刻販売され、既に完売となってしまった人気商品「仏頭」のお話です。

初版と異なり台座が半透明に変わり、スタイリッシュな装いとなっています。
初版は入手しているので「そのうち購入しよう・・・」と思っていたら、気が付いたらイSム様公式Web Shopでは完売していました。慌ててAmazonで検索したら「残り1点 ご注文はお早めに」となっていたのでポチッとしました。現在でもAmazonでは在庫があるようですが、オークションでは高値が付いているようですね。

届いた箱を開けたところから話を始めましょう。

台座が〝キラキラ〟しているのが印象的でしたが、それよりも仏頭本体の色合いが初版と比較すると青っぽい(緑掛かっている)のが一見して判りました。

復刻された2nd.Ver.の台座は、透明な樹脂製の四角錐に円柱をのせた形態の物になっています。初版は四角い台座に本体が固定されていましたが、再版にあたって取り外しが可能になる変更は面白い試みだと感じます。ちょっとした違いでも、再度購入につながりますのでね。

 

円形の支柱に差し込むための本体底部の様子です。
本物は絶対にこの様な状態にすることはできませんが、頭部が焼け落ちた時に〝こんな風に落ちたんだな〟というシミュレーションを楽しむことができます。

台座に据えると、この様になります。
2nd.Ver.の醍醐味は、台座上で回転させることができるので、観る角度を簡単に変えながら〝飽きのこない〟ディスプレイを楽しんでいます。

敢えて台座を外して、正面から観てみました。
おーっ、この傾き具合が〝仏頭になってしまった〟背景を物語っています。
リアルな破損箇所の再現も相俟って〝素敵な絵〟になっています。
・・・背景を黒くしたら格好いい画像になったのにと後悔しています。

ちょっと角度を変えてみました。
この画像も、傾き具合と破損箇所のコラボレーションが美しく見えます。
やはり、こちらも背景を下と同様に黒くすれば良かったのにと悔やんでいます。

右側から観た画像です。
どの様に(どのくらいの高さから落下したのか、も含め)頭部が大破したのかを想像することができると思います。

後ろの正面から観た画像です。
吹き飛んだ頭頂部、罅割れた左耳の上部、左右の肩の破損部分。そして細やかですが後頭部に見える打痕が、炎上する建物の中で焼け落ちた頭部が受けた衝撃を物語っています。
顔面でも複数箇所確認される、こうした破損状況から、立像の頭部落下というよりも、座像の頭部落下・転がりを推測することができます。

左側から観ると首元から肩にかけての破損状況と、左耳の上部に深い打痕・罅割れ、大破した頭頂部。そして折れた耳朶と、火災の受熱による熔解状況の再現が、この像の受けたダメージを見事に表現しています。
単なる仏像フィギュアではなく、もはや芸術品の領域に達しています。これが「インテリア仏像」の真髄なのでしょう。

 

先に見た様に〝転がした〟飾り方でも楽しめますし、この様に台座に据えて回転させる飾り方でも楽しむことができます。「仏頭」2nd.Ver.は、1体で無限の飾り方を楽しめる優れ物なのです。

 

台座に据えて仏頭本体をクルクルと回して画像を撮りました。
左側から、また右側からと方向を変えて観てみると、同じ像でありながら破損状況と融解しかけた表面の表現によって表情が変わっているのが判ります。
本物の仏頭は典型的な丸顔ですが、イSム様「仏頭」は頬のラインがシャープになっているように感じます。

真横の左側・右側から観た画像です。
同じ像でありながら頭頂部の破損具合、耳朶環状の残存状況、打痕の有無・・・。
左右でここまでイメージが異なるのは火災による損傷の為せる業なのでしょうが、それを忠実に見事の再現されるイSム様の造型および彩色技術の高さも素晴らしいものです。
首元から肩にかけての裂け具合、頭部に見える複数箇所の打痕と損傷具合から、どの様に頭部が落下・転回したのかが分析できるのではないでしょうか。

擦れてできた傷、罅割れ、受熱によって生じたブツブツの様子も再現されています。

 

頭頂部の破損状況を、違う視点から観た画像です。
左耳の上・顳顬の部分に見える深い打痕から推定できる衝撃で、頭部が拉げている様子もしっかりと表現されています。こうした造型に対する〝こだわり〟が凄いですね。

眉間中央には、恐らく頭部が落下した際に外れてしまった白毫の跡があります。
飛鳥仏の杏仁形のように無機質な眼ではなく、人情味ある表現となっています。いわゆる〝仏顔〟の典型ですね。
瞳には初版ほどではありませんが、透明な塗料が施されているようです。この濃淡については個体差があるかと推察致します。
綺麗に通った鼻筋、本物よりも小さめになっている小鼻が、表情全体のバランスを整えています。
仏頭本物の表面には受熱によって生じたブツブツだけでなく、部分的に表面が剥落している箇所や、少ないですが当初の滑らかな面も残存しています。
イSム様「仏頭」は、さすがにそこまでの再現をしておらず、顔表面の全体にザラつきを施しています。こうしたデフォルメ(アレンジした表現)が、小さい造型にぴったりと適合しています。

鼻柱はほぼ平らで、鼻孔の表現はありません。
ふっくらとした口唇が閉じられています。唇左側の割れ傷がしっかりと再現されています。

鼻から頬、そして顎にかけての熱による損傷具合の再現具合です。
初版と同様に、激しく燃え盛る火焔を受けながらも〝生き存えた〟歴史をデフォルメしながらも見事に表現されていると思います。
2nd.Ver.の撮影では初版に観られたような〝怪奇現象/瑞祥〟がありませんでした・・・。
それが普通なのですけれどね。

 

初版のところでは〝仏頭が立像である〟という想定でいたのですが、色々と調べてみると坐像だった可能性が高いようです。
藤原道長らが見上げた時に、彼らの眼に映った山田寺の薬師如来像は、この様な感じだったのでしょうか?
造型がほとんど本物に準じているイSム様のインテリア仏像だからこそ手にした時、目にした時に時空を越えた想像をすることができるのです。何と楽しい〝遊び〟なのでしょう。

 

 

 

 

1180(治承4)年12月28日、平清盛の強い命令を受けた平重衡は、大和国東大寺・興福寺の反平家勢力を一掃するため、南都焼き討ちを実行しました。
藤原兼実(九条兼実)のもとに12月29日に平重衡が南都を「征伐」して帰洛したこと、興福寺・東大寺が焼失してしまったことなどが報告され、兼実自身が「世のため人のための仏法・王法が滅し尽くしてしまった」と通婚の極みの心情を日記『玉葉』に書き記しています。

焼き払われた興福寺ですが、摂関家・藤原氏の氏寺であったことから藤氏長者が主導し、1182(寿永元)年には復興事業がスタート、東金堂は1185(文治元)年に建物自体はできあがっていたそうです。
仏像制作の遅延については、図録『興福寺創建1300年記念 国宝興福寺仏頭展』(2013)に収録されている安田次郎氏(お茶の水女子大学教授)の「東金堂衆と山田寺薬師三尊」によると、理由は定かではないものの、仏像制作担当と決まっていた奈良仏師・成朝(せいちょう)に対し、京都仏師・院性(院尚:いんしょう)が抗議をしたことに端を発した係争が原因であろうと推測されています。

興福寺東金堂の本尊は、726(神亀3)年に聖武天皇がおばの元正天皇の病気回復を祈念して造立した丈六の薬師三尊像であったといいます。このことを念頭に東金堂衆は飛鳥・山田寺の銅造丈六の薬師三尊像の強奪を画策・実行に至ったらしいのです。
安田次郎氏は1186(文治2)年に京都・仁和寺が興福寺末寺・大覚寺領を押領した事件に注目され、興福寺はその報復として1187(文治3)年に仁和寺末寺・山田寺を襲撃して本尊の薬師三尊像を強奪したのだと推測されています。

興福寺・東金堂衆は大和国の武士等を率いることができる武士層を出自とする興福寺の軍団のひとつで、興福寺が関連するトラブルが発生すると訴訟・紛争を武力行使によって決着することを期待されていた「自力救済」の武装集団であったと推測されています。

1186(文治2)年、京都嵯峨の大覚寺領(興福寺末寺)が仁和寺によって押領されました。後白河院の子で和歌・書道に優れた「仁和寺宮」守覚法親王が関知しているか否かは不明でしたが、藤原兼実は守覚に仕える隆遍を召喚して押領の事実を伝えさせました。『玉葉』の記載によれば、守覚は兼実の要求を受け入れたらしいのですが、仁和寺の現場レベルでは事態が終熄した訳ではなかった様です。

そして1187(文治3)年3月8日、興福寺・東金堂衆等による山田寺「金堂丈六藥師三尊像」強奪事件が発生するのです。

藤原兼実の日記『玉葉』(名著刊行会『玉葉』第三 巻四十八 文治三年三月九日条)には、この様に記されています。

九日、辛亥、別當僧正被示云、東金堂衆等、不觸衆徒僧綱等、又不申長吏、自由奪取山田寺【仁和寺宮領、在大和國】、金銅丈六藥師三尊像、欲奉安件東金堂云々、只今承及此由、加制止之處、已奉引出途中云々、自由所行無申限云々、件堂家直觸申彼宮之由、云々者、可停止之由、早々重可被下知旨、返答了、又可尋申宮之由仰了、                                     *【  】は割注

藤原兼実のもとに興福寺別当の信円から報告が入りました。その内容は東金堂衆等が興福寺当局(衆徒・僧綱・長吏=別当の信円)に無断で山田寺の本尊・薬師三尊像を奪取したということでした。「自由」とあるのは現代語の意味とは異なり〝勝手に〟〝気儘に〟といった統制の効かない振舞として兼実による非難の念が含まれています。奪取の理由は、建物の再建が成っていた興福寺東金堂に安置するためといっています。
兼実は東金堂衆等に「制止」を加えましたが既に薬師三尊像は興福寺への道中途上にあったというので、更に兼実は「彼宮」(仁和寺の守覚法親王)にも重ねて東金堂衆等へ「停止」の「下知」を発したことを伝えました。
結果として興福寺の軍団は、山田寺の本尊・薬師三尊像を東金堂へと納めてしまいました。

 

安田次郎氏は従来の説に疑問を呈し、

「何故、東金堂衆が」奪取をしたのか?
 東金堂は早期再建が実現している。
 〝しびれを切らす〟のは再建が長引く他の堂舎の集団であるべきで、東金堂衆ではない。

「何故、山田寺なのか」
 距離的に興福寺と山田寺は近い訳ではなく、丈六の金銅像と脇侍2体を運ぶのは大変な労力を要する。もっと近くに相応しい仏像は無かったのか?
 また山田寺が平安時代末~鎌倉時代初期に荒廃し始めていたという証拠は無い。

ということを指摘しながら、
前年(1186・文治2年)の仁和寺による大覚寺領押領事件への報復としての山田寺薬師三尊像強奪事件という経緯を推測されています。
とても魅力的な説であると感じます。

 

藤原兼実の日記『玉葉』(名著刊行会『玉葉』第三 巻五十五 文治五年八月二十二日条)には、

此日下向南都、爲奉禮南圓堂佛、【不空羂索観音像】、兼又爲檢知造寺也、・・・次向東金堂、別當權別當同以相伴、【金堂前参會也】、余昇壇上【脱沓階上壇下也】、招上別當覺憲一人問佛之間事、【此佛、先年堂衆等盗取山田寺金銅佛奉安置也、彼時雖有沙汰遂以止住、今奉拜見之處、事太相應、誠機緣令然事歟】、・・・
                                       *【  】は割注

とあります。

藤原兼実は「南都」(奈良)に下向し、興福寺南円堂の不空羂索観音像を礼拝しました。更に造寺の進展状況を確認する目的もあったといいます。
東金堂において先年(1187・文治3年)に東金堂衆等が「盗取」った「山田寺金銅仏」を見て、興福寺へ移された事情はさて置き〝今拝見奉ったところ(山田寺の)仏は(東金)堂に相応しく、誠に良き機縁によるものだ〟と山田寺薬師三尊像が興福寺東金堂に収まったことを正当化しています。

 

時は過ぎ1356(文和5)年、隣の五重塔の火災が飛び火して東金堂に延焼しました。旧山田寺薬師如来像は幸いにも運び出され、一時的に食堂へ置かれました。
1369(応安2)年に東金堂が再建され、旧山田寺薬師如来像が堂に納められます。
そして1411(応永18)年、落雷で発生した五重塔の火災が東金堂に延焼しました。この時に旧山田寺薬師如来像が頭部を残して焼失、現在の状態になってしまいました。
現在の東金堂本尊は1415(応永22)年に新造された銅造の薬師如来像で、新らたな本尊の台座が不自然に高いのは、焼け落ちた旧山田寺の仏頭を納めるための措置と考えられています。

 

 

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