居合刀紹介 「おそらく造」刀身 朱呂塗鞘糸巻短刀拵

しばしばお世話になっている「慈成」様が、残念ながら9/30(水)を以って模擬刀剣製品の販売停止を発表されました。独創的な居合刀の特注などをお願いしてきたので、今回の販売停止は痛恨の極みです。そこで今回は、販売停止となった「短刀、前差 全製品」のうち、「おそらく造」刀身 朱呂塗鞘糸巻短刀拵のお話です。

まずは、此方「朱呂塗鞘糸巻短刀拵」の外装をご覧ください。

 

鞘を払うと「おそらく造」の刀身が姿を現します。

 

 

「おそらく造」の刀身に集中した画像です。真鍮刀身は九寸です。
この短刀のモデルとなった本歌は、室町時代末期の永禄年間、駿河国島田派の刀工「助宗」によるもので、武田晴信(出家して信玄)の馬手指(めてざし:右側に差す)でした。刀身の差表元方に仮名文字彫「おそらく」が施されていることから、この形状の短刀は「おそらく造」と呼ばれています(但し諸説あり)。

本歌の特徴である棟の削り落としや切先の先反りは再現されていません。刀身彫もありません。価格面の都合でしょうが、黒染の鎺に梵字彫刻がなされていれば素敵でした。

鎬造り(しのぎづくり)の刀身で、刀身のほぼ半分が切先となっています。
横手から先がまるで別刀身の如く〝鋭さ〟が際立っています。
この刀身であれば、充分に頼れる馬手指として機能するでしょう。
刃文は「湾れ乱れ」(のたれみだれ)になっています。

 

柄巻の「鉄紺」色と「朱」色の鞘は相性がよろしいのです。

 

武田晴信(信玄)は、1559(永禄2)年2月、三度目の川中島合戦後に出家しました。
〝甲府五山〟のひとつ甲斐国長禅寺の岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を導師としての得度で、これを機に「徳栄軒信玄」(とくえいけんしんげん)と号しています。
1551(天文20)年、武田晴信31歳の時に都の仏師宮内卿法印康清(くないきょうほういんこうせい)を招請して自らを範とした不動明王を造像させたといいます。また、晴信は康清に円光院所蔵の毘沙門天も造像させています。さらに武田氏代々が諏訪明神を尊崇していた伝統を受け継ぎ、諏訪明神を軍神として崇敬し諏訪法性の籏を軍旗としました。他にも八幡信仰、浅間信仰にも篤かった人物であったと伝わっています。
こうした武田晴信のイメージと、「信玄公宝物館」に伝存する軍配団扇に施されている梵字を繋ぎ合わせ、金具は「梵字図」で揃えたのだそうです。

これまで意識してきませんでしたが、燻し銀の梵字金具と「鉄紺」色も相性がよろしいですね。

 

柄は四寸で、よく見ると「両立鼓」になっています。
柄下地は白い鮫皮を短冊着としたものです。
目貫は差表が仁王「阿」梵字図です。

 

目貫は差裏が仁王「吽」梵字図です。
柄頭・縁金具は梵字図の燻し銀加工が施されています。
切羽は銀仕上げの物を装着しています。

 

鍔は削り込み式ではなく、波紋状の刻みが入っている黒無地の喰出鍔が装着されています。

 

鞘を朱呂塗としたのは、武田軍で装備を朱塗で統一した部隊をイメージされたとのことです。善きことです。
正絹昼夜(鉄紺・白)の下緒が、またお洒落です。

 

模造刀(居合刀・長物・短刀)は〝そのうち買えばいい〟という油断をピンポイントでついて絶版になってしまいます。色々とオトナの事情はあるのでしょうけれど、〝もう手に入らない〟というのは心底残念に感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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