大和国石上神宮(奈良県)

六国史の最初『日本書紀』において「神宮」と表記されるのは
 伊勢国(三重県)の伊勢神宮
 大和国(奈良県)の石上神宮
の2つだけだそうで、倭国・日本国における最古級の「やしろ」といいます。

これまで何度か訪れていますが、その時に撮った画像を組み合わせて石上神宮のお話をしましょう。

無料駐車場が大きいので、満車で停めることができないということは通常ではありません(初詣などは別です)。

県道51号線に沿った入口の様子です。
左手に「官幣大社 石上神宮」と彫られた社号標が建てられています。
1883(明治16)年、神社から神宮号復旧を記念して、石上神宮の少宮司であった富岡百錬(鉄斎:とみおかひゃくれん/てっさい)の筆によるものだそうです。

参道に続く入口ではなく、駐車場への繋がる入口に入りましょう。

 

駐車場から参道に入るところ、鳥居の前にも社号標が建てられており、こちらは1928(昭和3)年11月の昭和天皇即位礼・大嘗祭を祝って建てられたものといいます。
表には「石上神宮」、裏には「昭和参年拾壹月建之」の文字が刻まれています。

 

石上神宮
 〒632-0014
 奈良県天理市布留町384
 TEL 0743-62-0900

 

 

さあ、参道に入ると大鳥居が見えます。
この大鳥居も1928(昭和3)年の昭和天皇即位にあたって建立された、台湾の檜(ひのき)を用いた明神造(みょうじんづくり)のものでした。

 

大鳥居に近づいていきます。
この大鳥居、2011(平成23)年3月に腐朽していることが判明し、調査の後に解体・部材取替などをおこなって同年9月に再建立されたそうです。

 

現在の大鳥居は、日本産檜の確保が困難であったため、カナダ産の檜が用いられているそうです。こうしたところにもグローバル化の波が押し寄せている様です。

 

こちらは早い時間帯に訪れた時で、光が指している雰囲気のある画像です。でも、残念なことに社額の文字が見えません。

 

 

こちらは昼を過ぎた午後に撮影した社額の画像です。
「布都御魂大神」(ふつのみたまのおおかみ)の文字が掲げられています。

いわゆる「神武天皇の東征」において、紀伊国熊野での苦戦に対し、天照大神の命をうけた建御雷神(たけみかづちのかみ)によって下された一振の横刀(たち)、すなわち「布都御魂」(ふつのみたま)を高倉下(たかくらじ)が神武天皇に捧げ、この横刀の力により神武天皇一行が〝起死回生〟を果たしたといいます。
この横刀を納めたことから、石上神宮は〝起死回生〟の利益(りやく)があるとなりました。

 

手水舎(ちょうずしゃ)近くに居た「丑」(うし)。
参拝客に愛でられているのが、色の剥げ具合でわかります。

 

 

石上神宮では約30羽の鶏(ニワトリ:各種あり)を放し飼いにされています。
「記紀」(『古事記』・『日本書紀』の総称)の挿話にみえる〝神の使い〟という挿話に因んで奉納された鳥たちで、時々の状況により羽数は増減しているそうです。

祓所(はらいしょ)は僅かですが一段高くなっているところに小さな白石を敷き詰めて注連縄(しめなわ)を張っているところで、鳥たちは自由に動いていますが、この清らかなエリアに集まっていることも多いのです。

 

野生の小動物に狙われることもあるそうで、飛び上がることができる鳥たちは木の上にのぼって夜を過ごし、飛び上がることができない鳥たちは専用の鳥舎に収養されるのだといいます。

 

 

石上神宮の境内には樹齢300~400年前後と推定される「神杉」が数本立っており、ここでは社務所手前の神杉の画像を掲載しています。注連縄がかけられ、しっかりと神気をまとっています。神宮の起源を踏まえれば〝若手〟ですけれどね。

 

 

参道が真っ直ぐに伸びていますが、拝殿・本殿は向かって左側・直角の場所に位置しています。境内で「山辺の道」が交差していることもあるため、この様な配置になっているのでしょう。

 

 

楼門(ろうもん)手前の様子です。
参道をこのまま真っ直ぐ進むと、奈良に向かう「山辺の道」となります。機会があれば歩いて奈良に向かいたいですね。

楼門に相対する右側は、幾つもの摂社が祀られている高台です。
石上神宮が布留山(ふるやま)麓の高台に位置し、鬱蒼とした森林の中にありますから、建物の裏側やその先はまさに〝神域〟たるに相応しい自然に囲まれています。

 

 

高台からの視点です。楼門を行き過ぎたところ、東回廊から拝殿、そしてちらりとですが本殿の屋根が見えています。拝殿前からですと、本殿はちょうど後ろ側に位置しているため全く姿を見ることができません。チラッと見えただけでも有り難いことです。

禁足地中に神体(「韴霊」:ふつのみたま)が祀られているという伝承を踏まえ、1874(明治7)年に当時の大宮司であった菅政友(かんまさとも)が政府の許可を得た上で禁足地を調査したそうです。すると多くの考古学的異物とともに神剣「韴霊」が発見されたといいます。この調査・発見をうけ、1910(明治43)~1913(大正2)年にかけて神剣「韴霊」を安置するための本殿が建立されました。
こうした信仰のポイントとなる建造物は〝古い・新しいを超越した存在〟ですので、チラ見しただけでも嬉しき事なのです。

 

 

東回廊の端っこ、この様になっています。
目立たぬ様に隅っこに消火設備が配置されています。歴史・伝統のある建造物は未来に伝えなければなりませんので、外観を損なわぬ様にこうした設備を充実させる必要があります。

 

 

東回廊の側から楼門を見ています。
石上神宮の楼門は、どの角度から見ても凜々しく格好良いのです。

 

 

光の具合で、楼門が神々しく見えています。
ヤマト政権で政治・軍事を担った物部氏(もののべし)の総氏神として信仰されていますが、その長きにわたって神域であることが、この神々しさとして現れているのでしょう。

 

 

高台の中間あたりから、楼門を正面から見ています。
この楼門は、後醍醐天皇が即位した1318(文保2)年に建立されたもので、重要文化財に指定されています。かつては上層に鐘が吊されていたそうです。明治初めの神仏分離令により鐘は取り外されて売却されてしまったそうです。

 

 

高台から降りて、正面から楼門を見上げています。
上層の中央に掲げられている木額には「萬古猶新」(ばんこゆうしん)という文字が配され、これは〝古きものだが時が経っても鮮やかさを持っている〟という意味で、長州出身の陸軍軍人・政治家であった山県有朋(やまがたありとも)の筆によるものです。

 

 

楼門をくぐり抜け、拝殿の前に来ました。

 

「石上大神」と総称されていますが、祭神は

 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
  →神武東征のおり、建御雷神から賜った横刀に宿っていた神

 布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
  →饒速日命(にぎはやひのみこと)が天降りする際、天神御祖(あまつかみみおや)から授けられた十種   神宝に宿っていた神
   十種神宝は、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼3種のこと。
   死者を蘇生させる力を秘めているそうです。

 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)
  →ヤマタノオロチ退治の時に素戔嗚尊(すさのおのみこと)が帯びていた十握剣剣(とつかのつるぎ)に   宿っていた神

の三柱です。

第10代の崇神天皇の治世(崇神天皇7年=570年?)、現在の地に祀られたといいます。

院政を開始した白河天皇が特に石上神宮を崇敬して、現在の拝殿(国宝指定)を寄進したといいます。この拝殿は、平安京大内裏の中和院の正殿・神嘉殿(しんかでん)を1081(永保元)年に移築したものだそうです。平安京の建造物は失われてしまいましたが、石上神宮を訪れれば平安宮の一部と逢うことができることになります。
なお建物修繕については、室町時代の1470(文明2)年に修復、江戸時代の1684(貞享元)年に上葺、1733(享保18)年修補、1740(元文5)年上葺、1798(寛政10)年修復、1859(安政6)年屋根替、と計6枚の棟札が現存しています。この様に後世の手が加わっていますが〝移築〟によって貴重な建造物が現在に伝わっている、稀有な事例ですね。

 

こちらは2020年末におこなった駆足初詣で訪れた際の石上神宮拝殿の様子です。
通常とはまた異なった装いですね。

 

年末でしたから、初詣の準備が整えられていたものの、参拝客はそれ程多くはなく、落ち着いて参拝することができましたよ。

 

 

 

 

石上神宮といえば「七支刀」(しちしとう)ですね。
売店(授与所)では各種の札・守りを授与していただけます。
〝起死回生の利益〟を得ることができる七支刀の守り(朱・紺2種)が人気ですね。
縁を結びたいと考えた社寺を訪れた際、「神の札」ではなく「木の札」をいただくことを心掛けています。石上神宮では「木の札」をいただきました。

「七支刀」は、通常「神庫」(しんこ)に納められており、石上神宮で公開される機会はありません。ただ、博物館・美術館といった施設で企画された展示に出品されることがありますので、情報を確認しながら、七支刀を拝観できる機会をうかがいましょう。

 

初めて石上神宮を訪れた時、スケジュール的に大和国(奈良県)の観光スポットを〝ハシゴする〟かたちで境内に入りました。何とも言葉に表し辛いのですが、境内立ち入りを〝嫌われている〟感じを受け取りました。此方としては敬意を以ての参拝でしたが、〝喜ばれていない〟感が強いのです。後々、状況を鑑みると、石上神宮の前に立ち寄ったのが「法隆寺」でした。しかもこの時から朱印を頂戴することを始めたので朱印帳は法隆寺で購入したものでした(神社用は別のものを用意しています)。つまり、〝蘇我氏の気〟をプンプンに漂わせて〝物部氏の神域〟に立入ってしまったのです。これは迂闊なことをしてしまいました。売店(授与所)で若い男の職員の対応も不躾で、不快な思いもしています。
参拝するにあたって、歴史的な経緯も考慮していかねばならないと痛感させられた経験でした。その後2度参拝していますが、〝嫌われている〟感は解消された様ですが、〝喜ばれていない〟感は続いています。法隆寺の朱印帳は、あともう少しで終わるので、朱印帳を変えてから参拝するか、・・・それともこのままの状態で参拝して石上神宮の神々に受け入れてもらうか。〝闘い〟は未だ未だ続きそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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