特別企画⑦ イSム「掌」空也上人の燻し銀リペイント

つい先日紹介したイSム様のTanaCOCORO「空也上人」ですが、別にオークションで安価にて入手できた物に〝手を加えて〟みました(正確には〝手を加えてもらった〟なのです)。

一言で表現すると空也像に「燻し」を施した(リペイントした)ものです。

知り合いの「スペクトルお兄」さん(https://twitter.com/rsyouta)と話をしていて、
 「色、塗りますよ」
 「じゃぁ、仕事場に居る空也を塗ってくれる?」
 「どんな感じにします?金属っぽく塗りましょうか。」
 「燻し銀ってできる?燻し具合は任せるから。」
 「できますよ。じゃぁ、イメージを創るのでちょっと時間をください。」
と、いうことで変身した空也の全貌をご覧いただきましょうか。

 

重厚感が数段増して、格好良く変身してしまいました。法力もパワー・アップした感じ。

仏教に造詣が深かった源為憲の『空也上人誄』(くうやしょうにんるい)に
 「空也とは、自称の沙弥名なり」(原漢文:「空也者、自称之沙弥名也。」)
と表記されています。
「沙弥」(しゃみ)とは、正式な僧侶を目指している20歳未満の出家者を指しますが、官許の得度出家の手続きを経ていない民間の出家者のことを指す場合もありました。

史料には遺されていませんが、
 龍樹が表した『十二門論』 → 大乗仏教の「深い意義は空にある」
 『維摩経』 → 「空・無我を観じる故に、厭うことのない慈しみを行う」べき
と説かれている、仏教の根本概念・最重要な仏教の真理「空」を自らの沙弥名として選び、菩薩道に邁進していく決意をしたと推測されています。

生存中から〝皇族の出身〟と噂されたといいますが、自身の出生について語ることは無く、その真偽は不明です。
比叡山延暦寺において正式受戒をし「光勝」という僧名を授けられたにもかかわらず、沙弥名「空也」を生涯にわたって用い続けました。

 

さて、〝メタリック空也〟にぐるりと360度まわっていただきましょう。

 

 

京都・六波羅蜜寺に伝わる「空也上人立像」は、檜(ひのき)の寄木造の技法が用いられています。
像内の腹部に「僧康勝(花押)」という銘記が存在し、これを根拠として運慶の第4子・康勝(こうしょう)による造像であることが判明しています。

 

本物の像高116.5㎝と小振りな肖像ですが、写実的で躍動感を湛える彫像です。
玉眼が嵌入され、頬の肉が痩けており、痩せた体つきに首から鉦鼓(しょうこ)を提げ、これを右手の撞木(しゅもく)で打ち鳴らし、鹿角杖(かせづえ)を地に突きながら歩みを進めていく姿です。

 

特定の寺院に所属しない「聖」(ひじり)でしたから、着飾るような体裁ではありません。
簡素で丈の短な僧衣を纏いつつ、肩から垂らす金鼓を叩いて称名念仏を勧化する姿です。

通常版では判り辛いのですが、こうしてリペイントしてみると僧衣の重なり・合わせ目、そして皺(しわ)の浮き沈みが複雑かつ丁寧に表現されていることが判ります。

僧衣の右袖は垂れながらも左から吹く風に靡いており、やや右向きに顔を上げて念仏を唱えている行為と連動して、制止している像ではありながら調和のとれた「躍動」を表現しています。

なお、リペイントを請け負ってくれた「スペクトルお兄」さん(https://twitter.com/rsyouta)曰く、
 「本来の色合いを活かして(残して)塗った」
とのことです。
燻し銀の中に濃淡のカッパー(銅)を注してアクセントを加え、像の印象が単調にならぬよう工夫がなされています。さすがです。

 

首から提げた金鼓は顔ほどの大きさで、吊り下げる部品も含めるとなかなかな重量になるのではないでしょうか。腰が曲がっている様に見えるのも、こうした携行品が理由かもしれないと想像してしまいます。

 

 

この空也像の如く、鹿角杖(かせづえ)・金鼓(きんこ)・撞木(しゅもく)に丈の短い僧衣と素足に草鞋という組み合わせは、空也よりも後の時代の伝記・史料にはよく描写されているのですが、同時代史料に〝この姿〟で空也が表現されることは無いそうです。

今回は現物の記事を確認していませんが、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の『小右記』(しょうゆうき)には、空也没後50年も過ぎた1026(万寿3)年に空也が携帯した金鼓・錫杖(しゃくじょう)は空也の弟子・義観(ぎかん)に引き継がれており、これを藤原実資が入手したことが、さらに1032(長元5)年の話として藤原実資は空也念仏の継承者である新阿弥陀聖に譲与したことが記されているそうです。
この記事によれば、金鼓と表現されている鉦(かね)は肘に懸ける小さな物であり、軽くて叩いて出る音も小さかったようです。杖も鹿角杖(かせづえ)ではなく、地蔵菩薩が手にしているような錫杖であったといいます。こうした記載から、平安時代には空也の鹿角杖の説話は未だ誕生していなかったことが指摘されているそうです。

空也の鹿角杖説話は、空也に懐いていた鹿が猟師に狩られてしまい、空也が猟師から鹿の角と皮を貰い受け、角は杖の先に装着し、鹿皮は「裘」(かわごろも:袋という説もあります)として身に付けたというものです。「裘」とはいうものの、着衣においてその造型を判別するのは難しいと言われています。
こうした姿をした、念仏を広める「空也僧」(くうやそう)は清涼寺本『融通念仏縁起』などに描写されているといいます。
こうした鎌倉時代の庶民に馴染んでいた空也僧の姿をもとに、康勝は空也上人像を造像したのでしょう。

 

後ろ側にまわってみましょう。

腰が曲がっていますね。
着衣の凹凸が鮮明に表現されています。
〝静の内から湧き出す躍動〟が伝わってきて、とても美しいですね。

 

 

〝カッパーを注した〟ことは秀逸な感性による彩色ですね。
これが無かったら、退屈な後ろ姿になってしまっていたことでしょう。

曲がった腰から足元にかけての画像です。
燻したリペイントによって、「静」の中に秘められた「動」が際立つ視覚効果が増しましたね。

 

素足に草鞋を履いています。
草鞋に淡くカッパーが注されています。こうした細やかな筆遣いも嬉しいものでした。

「スペクトルお兄」さん(https://twitter.com/rsyouta)は、「メタリックな塗装が得意」だそうです。
何の気なしに、軽いノリでリペイントを依頼したのですが、予想を遙かに超越した仕上がりにしていただきました。感謝・感激です。

 

次は「南無阿弥陀仏」の具象化を様々な角度から観ていきます。

 

 

 

 

 

康勝作「空也上人像」の評価が高いのは、「南無阿弥陀仏」の六字名号を小さな阿弥陀如来として具象したことによります。

燻しのリペイントにより、肌の質感が独特なものになりました。
金属色であるにもかかわらず〝冷たい〟印象ではなく、生きている〝生々しさ〟が強まった感じです。
こうした造形を創りあげた康勝の感性、それをシャープにデフォルメして商品化されたイSム様の技術、その上にお洒落なリペイントをしてくれた「スペクトルお兄」さん(https://twitter.com/rsyouta)のインスピレーションが融合することで、仕事場の机上にただ立っていたオークション落札中古品が〝素敵な空也像〟に変身してしまいました。
嗚呼、何と嬉しく、そして楽しいことでしょうっ。

 

次いで、「空也上人」通常版と燻し銀Ver.の共演です。

 

 

 

 

 

いつも「タブレット」のカメラで撮影した画像を掲載しています。
高画素・高画質ではありませんし、写真(画像)を撮ることにこだわりは特に持っていません。
その様な状態で2体を並べていますが、色合いの違いはお判りいただけたでしょうか?

 

今回の〝メタリック空也〟が、如何ほど〝映えている〟のか?

 

「スペクトルお兄」さん(https://twitter.com/rsyouta)から頂戴した画像をご覧いただきましょうかね。掲載許可はいただいておりますよ。

 

 

 

 

 

実物を見ているので〝素晴らしい仕上がり〟であることは判っていましたが、普段撮っているものと、いただいた写真(画像)の違いに驚き、絶句しています。

また機会があれば、「スペクトルお兄」さん(https://twitter.com/rsyouta)にリペイントをお願いしようと考えています。よろしくね。

 

さて、最後にこの像のモデルとなった「空也」がどういった人物(僧)であったのかを、慶滋保胤(よししげのやすたね)が撰した『日本往生極楽記』の記載で見てみましょう。

「沙門弘(空)也、不言父母、亡命在世。或云、出自潢流。口常唱彌陀佛。故號阿彌陀聖、或住市中作佛事、又號市聖。遇嶮路卽鏟之、當無橋亦造之、見無井則掘之。號曰阿彌陀井。播磨国揖穂郡岑合寺有一切經。數年披閲。若有難義者夣有金人常教之、阿波・土左兩州之間有島曰湯島矣。人傳、有觀音像靈験揚焉。剰上人腕上焼香、一七日夜不動不眠。尊像新放光明、閉目卽見。一鍜冶工、遇於上人、懐金而歸。陳曰、日暮路遠、非无怖畏。上人教曰、可念阿彌陀佛。工人中途果遇盗人。心竊念佛、如上人。言盗人來見稱市聖而去。又西京有一老尼。大和介伴典軄之𦾔室也。一生念佛上人爲師。上人令補綴一納衣。尼補畢命婢曰、我師今日可遷化、汝早可賫參。婢還陳入滅、尼曾不驚歎、見者竒之。上人遷化之日、著浄衣、擎香爐、向西方、以端坐語門弟曰、多佛菩薩來迎引攝。氣絶之後、猶擎香爐。此時音樂聞空、香氣滿室。鳴呼上人化緣巳盡、歸去極樂。天慶以往、道場聚洛修念佛三昧希有也。何況、小人愚女多忌之。上人來後、自唱令他唱之。爾後、奉世念佛爲事。誠是上人化度衆生之力也。」

「上人」の尊称が用いられたのは、日本に於いては空也が最初の事例といわれています。
善行を積む術も知らず、社会不安・疫病の蔓延という状況下において死んだら地獄に堕ちてしまうという恐怖と隣り合わせであった庶民や罪人たちに、「南無阿弥陀仏」の称名を奨励・浸透させ、社会事業も展開した民間布教者・空也は、古代の信仰においても画期的な存在として新たな道を拓いたといえるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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