桜ヶ丘遺跡出土4号「銅鐸」(播磨国)

此方は兵庫県神戸市灘区の桜ヶ丘遺跡、現地では「神岡」(かみか)と呼ばれていた丘陵の斜面から出土した銅鐸群(14本)のうち、国宝「4号銅鐸」(扁平鈕2式 四区袈裟襷文銅鐸)をモデルとした銅鐸レプリカです。

桜ヶ丘銅鐸群は1954(昭和39)年、六甲山の南麓にある採土場での掘削中、偶然に発見されました。

「埋蔵文化財包蔵地」と呼ばれるエリアにおける工事は、原則着工60日前まで国もしくは自治体に工事内容の届出をすることになっています。これを受け、地域の教育委員会や文化財担当者と土地所有者・工事請負業者との間で話し合いがもたれ、必要に応じて試掘が行われます。試掘の結果を受け調査内容の検討、調査費用の負担割合協議がなされ、特に問題が無ければ工事着工・再開ということになります。
この手順・手続を遵守すると、多くの場合工事中断と土地所有者の生活に多大なる影響が及ぶことから、余程の事が無いと黙殺される(=遺跡の破壊)ことが多いと聞きます。

桜ヶ丘遺跡の場合、陶芸用土の採取作業をしていた一般の方が掘り出して持ち帰り、そのまま店頭に陳列していたところ〝銅鐸発見が発覚した〟といいます。この事例は発掘調査まで繋がったので、まだ幸いなものです。

貴重な出土遺物が適切な処置をせぬまま個人所有となるか、骨董店を介して(介さずとも)転々と人手に渡っていくという事例が非常に多いのです。国・地域文化の解明か、現代人の生活重視かという難しい二者択一に直面するため、一概に〝こうすべき〟と断じることはできないのです。

さて、話を桜ヶ丘遺跡出土銅鐸に戻します。
一般の方が掘り出して持ち帰り、また時間も経過して出土地も地形が変わってしまったということで、発見時の埋納状況は事情聴取で、あとは発掘調査の情報を組み合わせて想像復元されたといいます。埋納抗の規模は出土地と目される斜面が崩落してしまったため不明ですが、埋納されていた銅鐸の錆の状況を調べると、桜ヶ丘銅鐸群は2群に分けられ埋納されていたことが推定されています。
現在は、出土地とは別の場所に『「国宝・桜ヶ丘銅鐸・銅戈」出土の地』の標識が立てられています。
文様で区別すると、
 流水文銅鐸(りゅうすいもんどうたく)  3本
 袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)11本
の2種類でした。
また、銅鐸絵画を有するのは1号銅鐸・2号銅鐸・4号銅鐸・5号銅鐸の4本でした。

なお、桜ヶ丘遺跡出土の銅鐸・銅戈は1970(昭和45)年、一括で国宝指定を受け、現在は神戸市立博物館が所蔵し、展示されています。

銅鐸絵画と文様は何を意味しているのか、幾つかの推論がなされていますが確定・断言は難しいところです。
銅鐸の発見状況から、祭り(=儀式)の際に音を発する楽器として用いられ、それが終わると土中に埋納されていたことが推定されています。

青銅製祭器の発見事例から、人びとの住環境から離れた場所で、現代まで開発の対象とはなりにくい〝人びとの生活を見おろす〟まぁまぁ高い場所に埋納される様です。埋納場所での祭祀痕跡が無いこと、埋納抗の周辺には施設痕跡が無いこと、埋納後に土を掘り返した形跡が無いこと・・・などが指摘されていますので、青銅製祭器の扱いについては未だ未だ不明な点が多いのです。

それでは、国宝・桜ヶ丘「4号銅鐸」(扁平鈕2式 四区袈裟襷文銅鐸)レプリカの様子を見ていきましょう。

本物を忠実に模しており、左側が桜ヶ丘「4号銅鐸」A面、右側が桜ヶ丘「4号銅鐸」B面です。

縦線・横線で構成される袈裟襷文がA面・B面で各4区画、表裏計8区画を分けており、その内部と裾(きょ)に弥生時代人の生活の様子をうかがうことができる、いわゆる〝銅鐸絵画〟が表現されています。

「4号銅鐸」A面に施されている4区画にそれぞれ便宜上①~④をふりました。

 

 

A面①区画の拡大画像です。
区画上部に「四つ足動物」が3頭、表現されています。この動物はイノシシのこども、ウリボウであると考えられています。
銅鐸絵画において、「丸い頭」は人とトンボに限られると考えられており、その観点から〝3人が田草をとる姿〟〝3人の田植えの姿〟という説もありますが、「短い尻尾」が表現されている以上、頭が丸いからといって腰を屈めた人と解釈するのは無理が多く、むしろ〝餌を食べる四つ足動物〟と考えるのが自然で〝イノシシのこども〟の可能性が高いとのことです。
ちなみに、このA面①区画は〝水辺〟を表現しており、他銅鐸の絵画に描かれている犬や人に囲まれたイノシシとは異なった姿をしていることから、水辺で水中の小動物などを餌とする〝タヌキ〟とする説もあります。

型持の孔(かたもちのあな)の右側には「クモ」であると考えられています。
四つ足の生物は、クモの他に〝アメンボウ〟という解釈もあります。
クモは8本足、アメンボウは6本足です。クモは静止状態の際に足を2本ずつ揃えるそうで、アメンボウ説で〝6本足を4本足に省略された〟というのは説明として苦しく、やはりクモであるという解釈が妥当であろうとされています。

 

A面②区画の拡大画像です。
型持の孔の左側には「鳥」が描写されています。
鶴という説もありますが、鷺(さぎ)が有力視されている様です。鷺が銜(くわ)えているのは、他の銅鐸絵画から「魚」であると推定されており、〝鷺が魚を銜え、落としている〟場面と言われています。中国の土器・青銅器等にも同様の図柄を施しているものがあるそうです。

 

A面③区画の拡大画像です。
「工」字形の道具を持つ〝丸い頭〟をした人を表現していると考えられています。
この図も他の銅鐸絵画を参照に考察されているのですが、その解釈は
(1)海で漁をしている人
    →船を表現せず、脚を曲げて座っているようにして船に乗り漁をしている様子を表現していたのではないかとの推測。
(2)機織りをしている人
    →「工」字形の道具を〝紡績用の道具〟として、糸を巻き付けているとの推測。
(3)工具を振る人
・・・というものがあります。さて、どの解釈が正しいのでしょうか?

 

A面④区画の拡大画像です。
狩猟をする人を表現していると考えられています。
〝丸い頭〟をした人が左手に弓を持っており、右利きでったことが判ります。その利き手で動物の頭を押さえている様です。
他の銅鐸絵画を見るまでもなく、桜ヶ丘「4号銅鐸」の裾部分にはA~B面にかけて14頭の「シカ」が表現されているので、頭を押さえられているのは〝角の無い雌ジカ〟と判断できます。どこまで縮尺が表現に反映されているのか不明ですが、サイズ的には雌の仔ジカであるかも知れません。

銅鐸絵画で描かれる動物で最多なのは「鹿」だということです。
鹿は人間が生産する農作物を食い荒らす害獣と見なされていた反面、特に牡鹿は毎年角が生え替わること、体毛の色合いや模様が農耕リズムに合わせて季節的に変化するという特徴から特別な呪力を有する聖獣とも認識されていたようです。
『古事記』『日本書紀』の説話には鹿(特に白鹿)を山神の化身とする記載もあり、宮中においても鹿角・鹿皮が神々への捧物とされていました。
奈良時代に編纂・献上が命じられた『風土記』のうち『播磨国風土記』に収録されている「国占め」(くにしめ)神話中の「五月夜」(さよ:讃容)の地名起源説話に見える、〝生け捕りにした鹿の腹を割き、その生血がついた土地に種籾を播いたところ、一夜のうちに苗が育ち、それを田に植え付けることができた〟という鹿の血を呪術的に用いた行為が知られています。
他には、ある一定の狩猟手続きや地域による独特の作法などに則って〝鹿を狩猟〟し、その肉を神々への贄(にえ)として捧げたり、祭りの場における人びとの共同飲食に供されていたそうです。鹿が農作物を荒らす地域においては祭りにおける共同飲食が害獣駆除の性格をも有したと考えられています。

 

次に、「4号銅鐸」B面に施されている4区画にそれぞれ便宜上⑤~⑧をふりました。

 

 

B面⑤区画の拡大画像です。
型持の孔の右側には「トンボ」が表現されています。
トンボ(蜻蛉)はヤゴ(幼虫)である時に田圃でボウフラ(棒振:蚊の幼虫)を、成虫になるとウンカやヨコバイを餌として稲の害虫を駆除するところから、豊作に結び付けられて〝田圃の神〟〝豊作の象徴〟とされています。

 

B面⑥区画の拡大画像です。
型持の孔の上部に〝四つ足の生物〟が表現されています。A面①区画にある描写と同様に「クモ」と判断するのが妥当の様です。
型持の孔の左側には「カマキリ」が描写されています。
クモもカマキリも共に農作物の害虫駆除をしてくれる〝捕食生物〟です。秋の収穫を豊かにしてくれる〝田圃の守り神〟として認識されていたのでしょう。

 

B面⑦区画の拡大画像です。
これは2匹の「イモリ」と考えられています。和名「井守」(いもり)は、水田に生息することから〝田圃を守る〟という意味にちなむという説もあります。田圃の中で他の両生類の卵・幼生や揺蚊(ゆすりか)・水虫(水生昆虫)といったイネの害虫を捕食することから、⑥のクモ・カマキリと同様な存在と認識されていたようです。

 

B面⑧区画の拡大画像です。
〝水の豊かさの象徴〟とされる「カメ」と考えられます。他の銅鐸絵画では魚を捕食する様子が描写されている「スッポン」の可能性も指摘されています。
「カメ」は甲羅が呪術で用いられることから、シカと同様に聖獣視されています。しかしながら産卵のために上陸したカメは、祭りなどの特別な時に、特別な作法を以て捕獲され、共同飲食に供されたといいます。

 

鈕(ちゅう)には各種の突線刻模様が施されています。

 

 

裾(きょ)の部分にはシカの親子が描写されています。

 

内側の様子です。長い間土中にあって錆・汚れが生じた、本物の銅鐸のような状態です。

 

「昭和銅鐸」は製造メーカの名称でしょうか。WEB上で検索をかけてみましたが、情報を得ることができませんでした。ここまで本物に忠実なレプリカを制作する会社はたいへん貴重な存在です。

 

舌(ぜつ)は動物の骨や金属の棒状の物があります。
レプリカとはいえ内側を痛めることの無いように竹割箸を束にして重量を持たせ、銅鐸自体を揺らすと竹製舌が内壁面に当たって、心地良い金属音が鳴り響きます。

「銅鐸絵画」の解読は興味深いのですが、奥深いので難解です。銅鐸絵画にご興味をお持ちの方は是非、国立歴史民俗博物館編集 構成・佐原真『歴博フォーラム 銅鐸の絵を読み解く』(1997・小学館)をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

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