紀伊国高野山奥之院(和歌山県)その弐

宣言通りに2024(令和6)年夏、紀伊国高野山に登拝してきましたよ。
「生身供」(しょうじんく)を拝見するため、朝早で高野山奥之院に出向いたのですが、既に多くの参拝客がおいででした。
正直〝出遅れた〟感はありましたよ。
何せ、今回も強行軍でしたからね、致し方ありません。
因みに、朝5時30分頃の様子です。

 

「南無」は信仰する、敬意を表する、救済を求める、信頼している・・・という意味を持つ仏教用語ですね。
「大姉遍照金剛」とは本来「大日如来」のことを指す密教用語ですが、「弘法大師」空海の金剛名号(こんごうみょうごう)でもあります。

 

中央に大黒天等を祀る「供御所」です。
「弘法大師 奥之院」の朱印をいただける所ですよ。

「供御所」の隣、「護摩堂」です。
朝早でしたので蔀戸(しとみど)が下げられていました。
蔀戸が上げられていると内側の様子が見えてしまいますので、外からでも撮影はできませんからね。

 

昨年(2023年)は「御廟橋」の右手前に飯盛台が設営されていましたが、今年(2024年)は在りませんでした。
何故でしょうかね?

「御廟橋」から御廟拝殿の「燈籠堂」を望んでいます。
参拝客が多くいましたが、静寂な状態でした。
木々は太いし、石灯籠には苔が生しています。
視界に入るもの全てが永い歴史を感じさせてくれます。

あらゆる撮影は、この「御廟橋」の手前までとなっています。
ですから、ここより先の画像はありません。

御廟前に座り、御廟とその周囲の雰囲気を堪能しました。
風を受けて流れてくる線香の香りと草木が奏でる音、野鳥たちの鳴き声、射してくる天照大神の恵み(ここでは大日如来か)、般若心経を唱える寺僧、前を行き過ぎる参拝客・・・
ただ同じ場所に座っているだけでしたが、情報量過多の状態でした。
でも、極めて心地好いのです。
なかなかな時間、御廟前で過ごしていました。

もそっと御廟前に居たかったのですが、不斗立ち上がり「地下法場」へと向かいました。
大っきな五鈷杵と数珠が据えてあるところです。
御影前に立っていると、そこに寺僧が現れ、御影間の明かりをつけて片付け?をされていました。
明かりはダイヤル式らしく、寺僧がダイヤルをまわして光の明暗を調節をしていました。
地下法場の御影前が、「弘法大師」空海に一番近いところとされています。
通常は僅かな光が当てられているので御影は見えないのですが、ほんの十数秒ほど、御影前の様子を垣間見ることができました。
〝空海からの粋なプレゼント〟でしたよ。

「燈籠堂」を出て、「御廟橋」まで戻ります。

だいたい9時30分ぐらいの様子です。
振り返って「燈籠堂」を見ています。
観光客の方々が「燈籠堂」へと向かって行きます。
諸事ありましてな、他の場所を訪れていないのですよ。
奥之院が最も人影の多かったところ、という印象を持ちました。

 

壇上伽藍や金剛峯寺などを訪れるため、奥之院を出るのですが、連れに奥之院とは「御廟」と「燈籠堂」だけではないことを感じてもらうため、墓所の間を通過しました。

全てを見せようとした訳ではないのですが、

織田信長と、

その隣の

順慶法師(筒井藤政)、

そしてちょいと離れていますが

豊臣家墓所に立ち寄りました。

写真を撮ったのは三箇所でしたが、ついつい道沿いの墓所をいちいち見ながら歩んでしまいました。

「多田満仲墓所」と、源満仲の墓所がありました。
今春(2024春)、多田神社の門前まで辿り着いたのですが、16時だったために参拝はできなかったので、近いうちに再度出向こうと考えています。
なぁ~んて謂いながら、源満仲の墓所を撮影していないのですがね。

 

墓所通り(参道)はイカンですわ。
どうしてもキョロキョロしながら歩くと、歩みの速度が遅くなってしまいました。

 

更に、複数の大木が一体化しているものが彼方此方に生えていますので、ついつい立ち止まって見てしまいました。

こうした行動により、街に近い奥之院入口に到達したのが10時30分をまわっていましたよ。
奥之院墓所には〝嫌いな奴等〟も結構居るので心身共に疲弊してしまいました。
強行日程を組んだこともありましたのでね。
それにしても、墓所通り(参道)には注意を要しますぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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