昨夏(2023)の登拝で、参拝しそびれた「金剛三昧院」を訪れてきました。
高野山の町のメインストリートから横道を入って暫く緩やかな上り坂を進んで行きます。
今回の参拝は都護で向かいましたが、駐車場もありますので車で体力温存することもよろしいでしょう。
世界遺産登録寺院
高野山別格本山 金剛三昧院
〒648-0211
和歌山県伊都郡高野町高野山425
℡ 0736-56-3838
表門の前に立っています。
こちらの表門は江戸時代の後半、徳川家斉の治世に建立されたと謂われています。
表門の上に掲げられている額には
「毘張尊」(びちょうそん)とあります。
この「毘張尊」とは、高野山を守った伝説の天狗といいます。
小牧・長久手合戦の際、和泉國岸和田城侵攻の動きを見せていた紀伊国根来寺に対し羽柴秀吉は1585(天正13)年に報復の紀州侵攻を開始しました。
羽柴秀吉は根来寺・雑賀衆を攻略、絶大な勢力を誇っていた高野山にも使者を派遣して降伏を勧告、全山焼き打ちの威嚇を見せました。
高野山は客僧・木食応其(もくじきおうご)を羽柴秀吉の元に派遣、木食応其の弁明・折衝によって高野山の存続が保証され、高野山の武装解除が実現しました。
この時(1585年4月)、高野山金剛三昧院境内の杉の大木に天狗「毘張尊」が降り立ったと謂います。
天狗「毘張尊」は、寺僧たちに羽柴軍との戦闘よりも信仰(宗教的活動)を優先すべきことを説いたそうです。
源・足利将軍家から尊崇を受け、権門として勢力を誇った高野山が軍事的に劣勢とはいえ、成り上がり者の羽柴秀吉に屈するのは屈辱でしょう。
高野山存続の保証を勝ち取った木食応其は〝客僧〟という立場でした。
羽柴秀吉の元に出向いた木食応其や、同行した高野山使僧たちの説得・活動を仮託したのが「毘張尊」なのではないかと推測します。
「河越御所」は日本の天狗たちと仲がよろしいので、「毘張尊」伝説は尊重したいと存じておりますよ。
天狗「毘張尊」に守られた高野山、ロマンがありますよね。
表門には
「 第十七番札所結願所
西国愛染明王霊場 」
「 世界遺産 別格本山長老坊 金剛金剛三昧院 」
の文字が掲げられています。
現在の表門は。江戸時代の文政年間(1818~1830)に建てられたものです。
金剛三昧院に伝わる重要文化財の銅鐘には「承元四年(1210年)十一月日鋳之」の銘が刻まれており龍頭を含めた95.8㎝の高さで、釈迦・薬師・阿弥陀三尊・地蔵・不動諸尊の名号と9種類の梵字真言等が鐘を取り巻いているそうです。
表門を潜ると、右手側に入山受付があります。
手続きを済ませると、とても丁寧な説明を受けました。
その場でいただいた境内案内図に、無造作な書き込みをされてしまいましたがね。
大丈夫、同行者が歴史はもとより寺院・仏像に興味がありませんでしたので無傷の境内案内図を貰い受けました。
左手側に国宝「多宝塔」がございます。
通路から「多宝塔」までは、これ程の距離がございます。
多宝塔に近付いて参りますよ。
この多宝塔は1223(貞応2)年、北条政子が源頼朝・源実朝供養の為、高野山に入っていた覚智(安達景盛)に命じて建立させたと謂います。
高野山で現存する最古の木造建築物だそうです。
承久の乱(1221年)を経て、幕府中枢は北条得宗家を中心に安定期を迎え、源氏将軍の称揚事業の一環だったことでしょう。
1225(元仁2)年10月、塔への入仏供養法会には臨済宗の明菴栄西が導師として招かれたそうです。
「多宝塔」内には非公開ではありますが、重要文化財に指定された「五智如来」が安置されているそうです。
多宝塔が建立された頃(1223年)と同じ頃、運慶によって造像されたと伝わっています。
金剛三昧院「多宝塔」は1952(昭和27)年に国宝指定を受け、2004(平成16)年7月に世界文化遺産(「紀伊山地の霊場と参詣道」)に登録されました。
堂内への立入は罷り成りませんがね、
床下に目線を移すと、礎石の上に柱が載せられていましたし、
銅を支える基壇も観察しました。
こうして床下の様子を観ると、塔の建立から、塔に参詣・保護した先達への思いを馳せることができます。
現場に赴くと、こうした楽しみがたまりませんね。
それにしても基壇が、あまり古いモノに見えませんがね。
素人目ですけれど。
後世の手が加えられているのでしょうか?
「多宝塔」の正面入口でしょう。
この仲に、運慶作の「五智如来」が居るのですね。
姿が見えずとも、想像するだけで楽しくなりまする。
ネットで検索すると、内陣の様子(五智如来のお姿)を確認することができますよ。
国宝ですから、簡単に修繕とはいきません。
それでも往時は、綺麗な白壁に鮮やかな朱塗りの柱・扉が映えていたことでしょう。
朱塗りが経年により剥落していますがね、用材を守ってきたことでしょう。
装飾を兼ねた木組も様子も良好に遺っています。
連子窓も、内側には風雨が入らぬ様に加工が施されていますね。
色の剥落や、用材の傷みが気になりますが、国宝ですので余程のコトが無い限りは現状維持ですよ。
でも、この状態こそが先達から受け継いだ伝統なのですがね。
綺麗な白壁、柱や木枠には鮮やかな朱塗が幌超されていました。
これは〝歴史を伝える〟画像なのですよ。
「多宝塔」の周りを巡っています。
多宝塔、同じ様相ではありますが、四面それぞれが違う表情を見せてくれます。
この時は、右上の木の枝が緑色でした。
秋だと紅くなるでしょうし、冬だと茶色になることでしょう。
雪景色の仲での多宝塔・・・想像すると楽しくなります。
正面②戻って、木組の様子を見上げています。
色は剥落していますが、実に細やかに木材が組まれていますね。
緻密な仕事を為した大工たちの努力・工夫によって、塔は何百年経っても、こうして建物は顕在なのです。
この画像を観ているだけで、感動モノですよ。
曇天で暗くなってしまいましたが、相輪と塔の上部を観ています。
「多宝塔」って2階建てに思われがちですが、1階建てなのですよ。
目に見えることが全てではない、思ったことが正しいとは限らない・・・林材僧からの禅問答を受けているかの様です。
多宝塔の対面、木の階段が設けられていて、そこを上っていくと「六本杉」が立っています。
この「六本杉」は、「毘張杉」(びちょうすぎ)とも呼ばれています。
天狗「毘張尊」が舞い降りたという伝説の杉の木ですよ。
注連縄で囲われており、根元が3本に見えますが、途中から6本に分かれています。
根元が繋がっている2本の木は彼方此方で見ることができますが、ここまで連動している大木は珍しいですね。
「毘張杉」の隣には「経蔵」が建っています。
大和国東大寺の正倉院で知られている「校倉造」、三角材を井桁に組み上げる建築技法をを採用しているのが判ります。
「経蔵」内には、刊行物の版木「高野版」「金剛三昧院版」500枚が所蔵されていたそうです。
「毘張杉」と「経蔵」の位置関係は、こんな感じ。
すぐ近く、隣り合っているのです。
参道の突き当たりには
「本堂」が見えまする。
雰囲気がありますね。
「本堂」に近付いていきます。
参拝客としては外国人が中心で本坊・客殿・庫裏に屯っていましたが、こちら「本堂」には誰も居ませんでした。
ガラス越しに、本物の金剛三昧院・愛染明王が居るのです。
ちょいと緊張してしまいましたよ。
だってココの愛染明王、おっかないんだもん。
勿論、画像は撮っていませんよ。
人目があろうが無かろうが、ルールは遵守しますよ。
「河越御所」は外国人と違ってズルはしませんからね。
(高野山での外国人の行動、そして詐欺征伐の結果から、厳しい物言いになっています)
ガラス越しに「本堂」の内側を拝観(覗き見)しました。
堂内が暗かったこと、外の明るさに目が慣れていたこと・・・で、愛染明王のお姿は薄らとしていました。
金剛三昧院の宿坊に宿泊すると、朝の勤行で堂内に立ち入ることができる様ですがね。
「河越御所」は宿坊が嫌いにございます。
余程の事が無い限り、寺院の宿坊に泊まることはありません。
金剛三昧院の愛染明王には興味がありますが・・・、でも源頼朝の念持仏なんですよね?
源頼朝は好きになれませんのでねっ。
また今後も高野山には登拝しますし、金剛三昧院にも参詣するでしょう。
タイミングが合えばね・・・、考えておきますよ。
この後、外国人が自由に振る舞っている本坊入口のところで待機、タイミングを見計らって金剛三昧院の朱印をいただきました。
こうした時世ということもあり、寺僧って英語を話すんですね。
我が儘言ってそうな外国人に対し、丁寧に英語で答えていましたよ。
〝外国人たちに割り込むな〟と言ってくれればイイのに。
少々ウンザリしながら待機して、朱印を頼むタイミングを見計らっていると、寺僧が申し訳なさそうに声をかけてくれました。
大丈夫、寺僧が悪い訳ではないからね。
また、参詣しますよ。
Tシャツ・短パン姿で奥院・燈籠堂に上がって居眠りする様な外国人が居ない季節を狙ってね。
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