河内国叡福寺(大阪府)

2024(令和6)年3月末、短い休みがとれたので畿内に出向いてきました。
摂津国(大阪府)に宿をとりましたので、摂津国・河内国(共に大阪府)の内で何処を探訪しようかと思案しました。
これまで大和国法隆寺は何度も参詣しているのですが、「探訪エンターテイメント部門」に記事を掲載することが先延ばしになっている状態です。
そう、聖徳太子(厩戸皇子:うまやどのおうじ)に関係の深い寺院は未だ、ひとつも「探訪エンターテイメント部門」にあげていなかったのです。

ということで、聖徳太子関連寺院の最初を飾るのは、〝聖徳太子が眠る〟と謂われる河内国叡福寺を参詣してきました。

大和国から摂津国・河内国に入っていくところに位置しています。
周辺にも興味深い遺跡があったのですが、今回は時間制限もありましたので叡福寺にのみ注目してきました。

聖徳太子御廟所
上之太子 叡福寺
 〒583-0995
 大阪府南河内郡太子町太子2146
 0721-98-0019

山門前の駐車場に車を停め、入口周辺を彷徨います。

「聖徳皇太子磯長御廟」の石柱です。
〝聖徳太子がここに眠っている〟ということです。
諸説ありますがね。

横っちょの壁面には

「双龍連珠円文綾残欠」が描かれています。
部分的にしか撮影していませんでした。
こちらは、叡福寺に伝わる聖徳太子の着衣にある文様なのだといいます。
次回の参詣では、全体像が判る様に撮ってきますね。

石段の上には、叡福寺南大門が。
南大門の傍らには
「 参拝心得
  一、境内禁煙
  一、ゴミ持ち帰り
  一、ペット連れ禁止
  一、草木等の採取禁止  」
という注意書きが。
こうした事柄を明示しなければならない濁世なのですね。

南大門を潜り抜ける際、見上げると

「聖徳廟」の額が掲げられています。
左脇には
 「内閣総理大臣 岸信介謹書」
と文字があります。
こちらの南大門は1574(天正2)年に〝織田信長の兵火により焼かれた〟と謂われています。
その戦闘について具体的なことは判らない(調べていない)のですが、織田信長に属していた荒木村重が摂津国方面を中心に制圧を進めていたことなのでしょうかね。
豊臣政権の慶長期、豊臣秀頼が後陽成天皇の勅を受けて再建されたのですが、それもかなり傷んでしまったといことで1958(昭和35)年に再度建て直され、岸信介氏が総理大臣在任期のことに因んでこの額が揮毫されたのだそうです。

南大門には阿吽の仁王像が配されています。
何時の製作なのでしょうか?
そのうち調べてみますね。

南大門を抜けたら、

なかなか広大な境内でした。
ワイド写真で撮影しているので、不可思議な画像となっています(笑)。

山門を潜り境内の左手側にある「縁起」、長文ですが画像だと読み辛いので文字起こししておきました。

 「
  河内国 上之太子 磯長山 叡福寺縁起
  史跡 叡福寺 【昭和十三年五月十一日 大阪府古文化等保存顕彰規則により指定
         平成九年三月同規則指定から大阪府文化財保護条例指定に変更】 
                                *【 】は割注
   叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で磯長山と号する。この寺は戦後単立寺
  院となったが、もとは古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地であるかつての郡名や地
  名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守
  護する性格の寺院であるところから太子寺・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法
  隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院である。なお、一連の太子建立伝説をもつ
  八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」、羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太
  子」と俗称され親しまれている。
   寺院の創立は明かではないが、寺伝によると推古天皇三十年(六二二)聖徳太子
  の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当寺のはじまりで、神亀元
  年(七二四)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のよ
  うに東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えら
  れている。
   現在の伽藍は天正二年(一五七四)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再
  建されたもので広大な境内には金堂・聖宝殿・宝塔などの堂塔が建ちならび由緒あ
  る寺院としての風格を保っている。
   また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇二十九年(六二一)崩御の聖
  徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年二月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡く
  なられた聖徳太子、同妃膳部大郎女の参人が一所に葬られているところから、三骨一
  廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧
  知識の参籠が多く、現在も太子に会わんが為に善男善女の参詣が絶えることがない。
   当寺には重要文化財に指定された絹本着色文殊渡海図、高屋連枚人墓誌の他、数
  多くの貴重な文化財を所蔵している。聖霊殿(太子堂)は慶長八年(一六〇三)豊臣秀
  頼が伊藤左馬頭則長を奉行として再建したもので、桃山時代の特長をよく示してお
  り、宝塔は承応元年(一六五二)に建立されたもので、いずれも昭和五十二年一月重
  要文化財の指定を受けている。
   棟札によって享保十七年(一七三二)の再建が明確な金堂(附棟札)、肘木絵様と木
  鼻が聖霊殿とよく似ており十七世紀前半を下らない建築と考えられる鐘楼は、共に
  平成一三年二月二日に大阪府指定文化財となっている。また明治初期に塔頭、石塔律
  院跡から客殿庭園内に移建された巨大な石造五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、
  鎌倉末期の優作として、昭和五二年三月大阪府有形文化財の指定を受けている。
                            聖徳皇太子御廟所
                              磯長山叡福寺
                                         」

南大門を抜けて、右手側に手水舎があります。

 

龍が居りましたが、その口から水は流れていませんでした。

この時は、水が出ませんでした。
その様になっていたのでしょうか?

手水所の横っちょ、金網があるところですが、瓦と石で覆われていました。
こうした粋な演出がステキですね。

何処に配されていたのかは不明ですが、礎石が集められてオブジェを為しています。
礎石たちは、かつて何処に居たのでしょうかね?

 

宝塔と金堂に向かいます。

宝塔に向かう左手側、礎石が並んでいました。

この礎石たちは何時の時代、何を支えていたのでしょうかね。
とても興味があります。

 

宝塔前に
「     一六五二年再建(重要文化財)
  宝塔  東面に釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊像を
      祀る。西面に金剛界大日如来を安置し、四本の柱
      には四天王像が描かれている。          」
という解説が立てられています。
残念ながら、入ることができませんよ。

金堂前にも
「    一七三二年再建(府指定文化財)
  金堂 本尊は如意輪観世音菩薩坐像。脇侍は不動明王と
     愛染明王で厨子の東南西北には四天王を祀る。  」
という解説が立てられています。
残念ながら、こちらも入ることができませんでした。

金堂の手前には、意味有り気な礎石が。
こちらも、そのうち調べておきますね。

「寶蔵」の拝観を楽しみにしていたのですが・・・閉館でした。

 

この後、いろいろと立ち寄ったのですが、聖徳太子の印象・雰囲気が薄まってしまうので割愛しています。
聖徳太子廟に向かいますね。

南大門を潜って、正面に位置しているのが聖徳太子廟ですよ。

聖徳太子廟に向かって歩んでいきます。

燈籠のところに着きました。
聖徳太子廟まで、あともうちょいです。

この石段の上に、聖徳太子が眠っているのですよ。
気分が高揚してきました。

仁王門に立って、聖徳太子廟の前に佇みます。

この仁王門には、東に持国天が、西に増長天が配置されています。
仁王門は1688(元禄元)年、徳川綱吉の命を受けた高木正陳(まさのぶ:主水正)の寄進によって再建されたそうです。
高木正陳は河内国丹南藩(たんなんはん)主で、他にも上の御堂・回廊・鐘楼の寄進をしたといいます。
徳川綱吉・桂昌院(本庄光子)親子の寺社再建策の一環でしょう。
徳川家の財源も、綱吉の頃には相当厳しくなっていましたからね。
大名に命じて、由緒ある寺社の再建を請け負わせたのでしょう。

「推古天皇皇太子聖徳太子
    磯 長 墓」
 一、みだりに域内に立ち入ること
 一、魚鳥等を取らぬこと
 一、竹木等を切らぬこと
    宮 内 庁      」

ここには聖徳太子だけでなく、
  穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのおうじょ:聖徳太子の生母)
  膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ:聖徳太子の妃)
が共に葬られているとのこと。
皆、仲が良かったですからね。

霊屋(たまや)の正面に立っています。

菊紋フェンスがあるので入ってはなりません。
ですからフェンス前に立ち両手を伸ばして撮影しました。
素敵な画です。

唐破風屋根の上に龍が据えられています。

下には、恐らく阿弥陀三尊が据えられています。

霊屋の創建は何時のことか判らないらしいですが、他の建物と同じ頃のものではないでしょうか。

霊屋を左右から見ています。
屋根が三層になっていますね。

聖徳太子の磯長墓は、叡福寺北古墳とも呼ばれています。
段のある円墳ですね。
石塀が立ち並んでいます。
これは「結界石」と呼ぶそうです。
奥の結界石は古そうですね。
結界石の間が通路になっていますが、通常は立ち入りできない様です。

横っちょにまわりこんで、ワイド写真として撮影しました。
バランスがイマイチ、ワイド写真は難しいです。
高さが7.2m、直径54.3mなのだそうです。

次回の参詣時では、バランスの調ったワイド画像を撮影する様に努力しますね。

この「叡福寺北古墳」の横っちょに上り道がありましたので当然、上るぢゃないですか。
そしたら

「五字峰」経塚の供養塔だそうで、供養塔を囲んでいる結界石は江戸時代のものだそうです。

到着時には曇天だったのですが、境内を彷徨っていると青空が見えてきました。
心地好き、参詣となりましたよ。
「寶蔵」が閉館していたのが残念でしたのでね、また参詣しますよ。
朱印をお願いして待っている間、授与所をウロウロしていましたが「歴史エンターテイメント部門」で紹介する様なグッズは見つかりませんでした。
金堂ぐらいは入りたかったですね。

・・・って、聖徳太子を祀っているのに全く商売っ気が無いのですよ。
広い境内も静寂に包まれていましたからね。
諸説あり、となっていますが、雰囲気的には聖徳太子が眠っていそうでしたよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当サイト内のすべてのコンテンツについて、その全部または一部を許可なく複製・転載・商業利用することを禁じます。
Al l contents copyright (C)2020-2024 KAWAGOE Imperial Palace Entertainment Institute / allrights reserved