法隆寺 薬師如来坐像(企画・製作「株式会社京都ミニ仏像工房/製造元「株式会社ダッシュ」)

今回は、昨年(2021)夏の東京国立博物館・平成館で開催された

 聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」

で発売された「薬師如来坐像」のお話をしましょう。

この案内板の如く、
本館特別5室にて特別展「国宝 聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけ」が、
平成館にて聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」が開催されていました。
内容的には、極めて魅力的な特別展2つの同時開催でした。

2度目の聖林寺十一面観音展を観覧、次いで平成館1階ラウンジで模刻・十一面観音と遊んだ後に、2階特別展示室に向かいました。

西暦622年の4月8日、聖徳太子は病没しました。
2021(令和3)年はそこから1400年目の命日を迎えたということを記念しての特別展でした。

大和国法隆寺から多くの宝物・文化財が出展されましたが、今回の特別展と連動して製作・販売されたフィギュアは、法隆寺金堂内「東の間」本尊として安置されている国宝「薬師如来坐像」のものでした。

「阿修羅展」の時を基準にすると、フィギュアの外装は随分とスタイリッシュになったものです。
 企画・製作:株式会社「京都ミニ仏像工房」様
 製造元:株式会社「ダッシュ」様
ということです。

写真だけでなく、光背の銘文や、金堂のシルエット等を用いながらお洒落な化粧箱になっていますね。

聖徳太子が置かれた政治情勢のもとで、彼が標榜した「以和為貴」。
法隆寺において最も大切にされている言葉で、法隆寺の朱印帳のはじめには第一条が据えられていますし、聖霊院の朱印・墨書は「以和為貴」です。
折角なので『日本書紀』の表記に倣って「憲法十七条」にしていただきたかったですな。

判らんでもないですが「お取り扱い説明書」は、この様になっています。
ちびっ子にとって、仏像フィギュアの存在価値を認識するのは未だ早いのでしょうから。

粧箱を上から見ると「法隆寺印」。
印刷ではありますが、擦れ具合の再現などから〝有り難さ〟が増します。

 

箱を開けると薬師如来坐像は、この様なクッションで包まれております。

外部の圧力からは護られていますが、取り出す際に掴む場所や力の入れ具合によっては破損してしまうことがありますので、注意しながら扱わねばなりません。

 

サイズは小さいながらも、造形は見事なまでに本物準拠です。
色合いも、価格的には〝よく頑張っている〟ものになっています。

著名な法隆寺金堂「中の間」本尊の釈迦三尊像、向かって右側「東の間」の本尊で、釈迦如来像よりも少々小さく、宝珠形をした火焔光背を頭部後方に備えた独尊です。本来は独尊で、平安時代から脇侍が添えられたということです。

 

くるりとまわってもらいました。

 

像本体・光背と台座の3パーツの合体構成になっています。
小さい画像ですが、しっかりと造られているのが判りますね。

 

顔の表情です。

通常、法隆寺金堂内ですと右側のちょいと距離があるところに御座(おわ)しますからね。自然光が入ってくるものの少々暗いので、肉眼ではその表情をハッキリと見ることは難しいです。
飛鳥時代の様式美である杏仁形(ぎょうにんぎょう)の目や「アルカイック・スマイル」と呼ばれる口元の笑みが表現されています。
また顔面に遺っている鍍金の状態も、見事に再現されていますな。
図録・書籍等では表情・姿がしっかりと見えますが、よくできた仏像フィギュアでも擬似的に寺院内陣を楽しむことができます。

 

もっと顔に寄ってみました。
通常、この視点からは法隆寺金堂薬師如来坐像を見ることができません。
でも特別展「聖徳太子と法隆寺」では、ガラスケース越しではありましたが、極めて至近距離で薬師如来坐像と対峙することができました。
京都ミニ仏像工房・薬師如来は面長の輪郭で杏仁形の目を見開いて、なかなか口角をあげて微笑んでいます。よく特徴を捉えていますが、ここまで近付いて観ると、本物とは微妙に表情が違っていますね。それでもサイズ・価格的にはとても頑張っています。

頭部には大きく肉髻(にっけい/にくけい)が表現されています。本物には螺髪(らほつ)が付けられていた痕跡があるそうですが、京都ミニ仏像工房・薬師如来ではそこまで再現されていません。

 

頭部と光背を左斜め前から観ています。
斜めからだと鼻は高くて幅が狭い、そして小鼻の膨らみはほとんど無いという飛鳥仏の特徴が判ります。

 

今度は反対側から観ています。
耳の形は如来像だと耳朶(みみたぶ)に孔(あな)があいていることが多いのですが、本物も京都ミニ仏像工房・薬師如来も共に孔が開いていません。
飛鳥仏の耳はほとんど長方形で、ほぼ直線的に下方へ垂れており、耳朶外側は直角に近い角(かど)があり、耳の上側・下側はほぼ同じ長さになっています。こうした特徴は本物準拠となっています。

 

本物は本体・光背共に蠟型鋳造(ろうがた)となっており、本体は懸裳(かけも)までをひとまとめに鋳造し、鍍金(ときん)を施しています。

京都ミニ仏像工房・薬師如来の光背は小さいながらも、そして文様の簡略デフォルメを施しながらも見事に荘厳さを伝えています。

頭部の緑青彩色が目立ちますが、顔面に残存する鍍金の様子が良き塩梅で再現されています。これは、なかなか真似できませんな。

 

ちょっと引いて、光背全体と薬師如来の胸あたりまでを観ています。

蓮華唐草文(れんげからくさもん)の蔓草(つるくさ)が、円光(えんこう)の環状部分に巻き付いている装飾が価格の割りには見事に再現されています。
宝珠形の光背、外側には渦を巻きながらゆらりゆらりと立ち上っていく様な火焔文が施され、その上に「七福薬師」(しちふくやくし)と称する7体の小さな薬師仏が配されています。因みに「七福薬師」は薬師如来のみならず釈迦如来の光背にも据えられることがあるそうです。

 

「薬師如来」ということで、
あげた右手の施無畏印(せむいいん)は、開いた手で指を伸ばすことで、敵ではないので畏(おそ)れることは無い、また人々に力を授けるという意を示しているのだそうです。
さげた左手の与願印(よがんいん)は、人々の様々な願いを叶える、またはその願いを叶えることを誓う意を示しているのだそうです。

 

視点を変え、右斜め前から観ています。
近年では仏像フィギュアの種類も増えていますが、本格的な飛鳥仏のフィギュアは未だ多くありません(食玩は除外しています)。
法隆寺金堂の薬師如来坐像は、「中の間」本尊の釈迦三尊像(623年完成)よりも制作技法が進んでいることから、釈迦三尊像よりも新しい制作と考えられています(諸説あり)。とすれば「東の間」本尊の薬師如来坐像は白鳳仏となる訳ですが、〝飛鳥仏に極めて近い白鳳仏〟と表現するのが適切なのでしょうか。
因みに、この施無畏印・与願印の組み合わせは薬師如来のみならず、釈迦如来において一般的に見られる印相なのだそうです。

 

中国・北魏様式の影響を受けた「裳懸座」(もかけざ)と呼ばれる、如来が着用しているスカート「裳」(も)の裾(すそ)が膝から台座の前方へと垂れている波紋状の描写が見事に再現されています。
本物ですと一部、襞(ひだ)に金色が遺っているというのですが、京都ミニ仏像工房・薬師如来では、そこまで再現されていません。でも裳の襞に応じて生じる色合いの変化は自然に表現されています。
薬師如来の裳懸座は釈迦如来のものを模範に造られているので極めて似ていますが、細部については微妙な違いがあることは既に指摘されている通りです。

 

台座を後方から観ています。
本物だと、この部分をじっくり観察することは不可能ですからね。

薬師如来の台座は上下2段構造で、下段の花の装飾が単弁となっているのが古く、上段のものは複弁で新しいのだそうです。この特徴は金堂「中の間」本尊・釈迦三尊像の台座にも共通するのだといいます。そこまでは気付きませんがな。

本物をそこまで観察しなかったのですが、台座の全面に絵が描かれているのだといいます。剥落が著しいので、絵画には気付きませんでしたよ。パネル展示があったそうですが。

なお、この台座の絵画については
三田覚之(みたかくゆき)氏の論文「法隆寺金堂薬師如来像台座画の想定復元について」(『MUUSEUM』第693号 2021年8月)をご参照ください。
こんど東京国立博物館に行った時、売店で購入してきます。

 

天蓋(てんがい)の目線になって、薬師如来を観ています。
本物をこの様に見るには、工事・修繕といった機会でもない限り不可能です。
裳(も)の広がりが美しいですな。

 

京都ミニ仏像工房・薬師如来の素晴らしいところは幾つもありますが、その中でも特筆すべきは光背裏面に刻まれた銘文の再現です。

一見して、〝ここまで再現しているのかっ〟と驚愕ポイントですよね。

因みに、本物(法隆寺金堂「東の間」本尊・薬師如来)の光背銘は以下の通りです。
【 原文 】
池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳
次丙午年召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然
當時崩賜造不堪小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉

【 書き下し文 】
池邊大宮に天の下治ろしめしし天皇(用明天皇)。大御身勞賜ひし時。歳は
丙午に次りし年。大王天皇(推古天皇)と太子(聖徳太子)を召して誓願し賜ふ。我が大
御病太平きならんと欲坐す。故、将に寺を造り薬師像を作り仕奉らんと詔りたもふ。然れども、
時に當たり、崩し賜ひて造り堪へざれば、小治田大宮天の下治ろしめしし大王天
皇(推古天皇)及び東宮聖王(聖徳太子)、大命を受け賜ひて、歳は丁卯に次りし年に仕奉りき。

【 意訳文 】
 586(用明天皇元)年に発病された用明天皇は、病気平癒のために寺と薬師如来像をつくりたいと祈念されましたが、それを果たせずに病没してしまいた。そこで(用明天皇の)遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が、607(推古天皇15)年に薬師像を造り奉りました。

 

拡大してみると、

・・・読めない。いや、画像がブレているので、実物をしっかり見れば、更に頑張れば銘文を読むことができます。ところどころ、判読が難しい箇所もありますがね。

「中の間」本尊・釈迦如来像の光背銘は、14字×14字と整った配列で文字が陰刻されています。釈迦三尊像は鋳造製作時に溶かした銅がまわりきらなかった箇所に補修「鋳掛け」(いかけ)をしていること判っています。これに対し「東の間」中尊・薬師如来坐像では鋳掛けがなされた痕跡は認められず、この観点から技術的に進歩していることが指摘され、釈迦三尊像よりも薬師如来坐像の造像が新しいものとするのが有力視されています。その様に新しい造像と考えられている薬師如来坐像の光背銘は5行(1行面:16字/2行目:20字/3~5行目:18字)と各行の字数が不揃いであり、彫りっぱなしで表面処理が施されていません。造像の後の追刻(ついこく)の可能性も指摘されています。

 

奈良時代の747(天平19)年成立の『法隆寺資材帳』には、法隆寺創建が607(推古天皇15)年と記載されています。
法隆寺金堂「東の間」本尊・薬師如来坐像の光背銘文によると、薬師如来坐像の造像は607(推古天皇15)年とされ、『法隆寺資材帳』にある法隆寺創建年と同じであるといいます。しかし、これは用明天皇が薬師如来造像を発願した586(用明天皇元)年から21年も経過していることになります。

法隆寺金堂「中の間」本尊・釈迦三尊像造像はその光背銘文によると623(推古天皇31)年、聖徳太子没の翌年とされています。
すると、
 「中の間」本尊・釈迦三尊像…623(推古天皇31)年の造像
 「東の間」本尊・薬師如来像…607(推古天皇15)年の造像
となるのですが、造像技術の違いにより607年造像とされる薬師如来像の方が新しい造像であることが判っています。

『日本書紀』の670年に該当する記事に以下の様なものがあります。
(原文)
 夏四月癸卯壬申、夜半之後、災法隆寺、一屋無餘、大雨雷震、
                  (一屋モ余ルコト無シ、大雨フリ雷震ル)
(現代語訳)
 夏四月三十日の暁、法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。

上記の様に、法隆寺については670年全焼の記事はあるものの、その後についての記載は見られません。法隆寺側にも焼失やその後に関する史料が一切存在しないとされてきました。

 

2004(平成16)年7月、奈良文化財研究所が法隆寺に用いられている木材を年輪年代測定法を用いて判明した伐採年を発表しました。
・金堂の天井板   …材の伐採年が667年と668年
・五重塔の2層雲肘木…材の伐採年が673年
・中門1層大斗   …材の伐採年が699年頃
この科学的なアプローチによって、現在の法隆寺西院伽藍は聖徳太子による創建法隆寺の建築ではないことが指摘されました。また様式的な観点から、金堂→五重塔→中門の順に建てられたことも確実視されることになりました。

すると有名な「法隆寺再建・非再建論争」はどうなってしまうのか?ここで「再建・非再建論争」について整理することはしませんよ、凄く複雑な話なので。1939(昭和14)年12月から発掘調査がおこなわれ、南北に配置された2つの基壇が確認され、これが塔と金堂の基壇と推定されました。こうして「若草伽藍」が創建時法隆寺である(可能性が高い)と考えられ、再建・非再建の論争に一応の決着がついたこととなっています。

それから65年後の2004(平成16)年に実施された聖徳太子の創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)の発掘調査で、焼けた壁画片が発見されました。1200度以上の高熱で焼かれたと推測されています。この焼損痕のある壁画片によって、創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)が火災に遭ったということの確証を得ることができました。

創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)の焼失は疑いの無い歴史事実であることが確定しています。火災の痕跡が無い現在の法隆寺西院(金堂内の壁画焼損の話は除いて)は、創建法隆寺焼失後に「再建」されたといわれています。

創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)は、塔・金堂などがタテ一列に配された四天王寺式伽藍配置であり、聖徳太子の住居であった斑鳩宮とほぼ同じ角度で建てられていました。斑鳩宮は643年に蘇我入鹿と反・山背大兄王の行動をとった皇族たちに襲撃され、焼失してしまいました(上宮王家滅亡事件)。

「火災後の単なる再建ならば、同じ土地に建て替えるのが自然」と指摘されたのが建築家・建築学者の武澤秀一(たけざわしゅういち)氏です。

現在の法隆寺西院は、創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)のあった場所とは違うところに建てられているのです。丘陵の麓で起伏に富んだ土地に全面的な整地作業を施し、そうした場所に塔・金堂をヨコ一列に配した法隆寺式伽藍配置で建てられたのです。

武澤秀一氏の指摘は
「大々的に土木工事までしてわざわざ敷地を変え、建物配置もガラッと変えるのは単なる再建とはいえない。今ある法隆寺が建てられたのは、火災とは別の、もっと深い理由があったのではないかと考えられる。」
そして
「今ある法隆寺がすべて火災の後に着工されたというのも疑問の余地がある。」
というものです(武澤秀一氏著『法隆寺の謎を解く』ちくま新書601 2006年 より)。

〝単なる再建ならば、同じ土地に建てる〟
指摘されると納得できますが、この指摘に出会わなければ気付きませんでした。

飛鳥・白鳳期の頃ですと木材は建物のヴィジョンが明確になってから、その都度、伐採がおこなわれていた様です。現在の如く、伐採した木を製材して蓄えておくということは無かったということです。

 

2004(平成16)年の奈良文化財研究所によって発表された、法隆寺に用いられている木材の伐採年を、何天皇の治世下であるのかまとめた年表です。決して〝○○天皇が伐採させた〟というものではなく、たまたま○○天皇の時代に伐採されたということが直ぐに判断できるよう意図したものです。

 

670(天智天皇9)年に創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)が火災に遭う前、その2年前・3年前に伐採された木材が現在の法隆寺金堂の天井に用いられています。このことから建築史学者の鈴木嘉吉(すずきかきち)氏は〝火災の前から現在の金堂の工事が始まっていた可能性がある〟という指摘をされています。

聖徳太子の遠忌記念特別展で販売されていた京都ミニ仏像工房・薬師如来坐像の光背銘文から、だいぶ話が脱線してしまいました。
本物の法隆寺金堂・薬師如来坐像の光背銘文には、創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)の本尊が薬師如来だと刻まれていますが、若草伽藍が創建された頃の倭国(日本列島)に薬師信仰は未だ伝播していなかったとみられています。倭国(日本列島)で薬師信仰が盛んになったのは680(天武天皇9)年頃といいます。とすれば光背銘文に「薬師像」と刻まれていますが、創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)の本尊が「薬師像」でなかった(釈迦像であった)可能性が高い、というのが武澤秀一氏の指摘です。

『日本書紀』には
 「九年春二月、皇太子初興宮室于斑鳩。」
  【 書き下し文 】
  「九年(601年)春二月、皇太子(聖徳太子)初めて宮室を斑鳩に興てたまう。」
  【 現代語訳 】
  「九年春二月、皇太子(聖徳太子)は初めて宮を斑鳩に建てられた。」

 「冬十月、皇太子居斑鳩宮。」
  【 書き下し文 】
  「(十三年:605年)冬十月、皇太子(聖徳太子)斑鳩宮に居す。」
  【 現代語訳 】
  「(十三年)冬十月、皇太子(聖徳太子)は斑鳩宮に移られた。」

と、聖徳太子が601年2月に斑鳩に生活拠点を移すことを決定して斑鳩宮造営に着手したこと、605年10月に斑鳩宮へ移住したことが記されています。
残念ながら創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)の着工・竣工に関する記載は見られませんが、普通に考えれば斑鳩宮と創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)は建物の向き(方位)は同じであることからセットで計画・建築されたものと推測されています。倭国(日本列島)において寺院建築(伽藍造営)が始まって間も無い頃ですから宮と寺が同時なのか、宮のあとに寺なのかは記録が無いため断言できません。聖徳太子が斑鳩宮に入った時、創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)はどうであったのか?
武澤秀一氏の推測では、寺の着工は宮の完成後とみるのが自然だとしています。
聖徳太子の斑鳩宮への移住が『日本書紀』の記載にある605年10月ですから、この頃に寺の造営が始まったとすれば、2年後の607年に金堂・五重塔といった主要伽藍ができあがったとは考えにくい。「しかし一部が完成していた可能性がある」との指摘されています。発掘調査により金堂が五重塔に先行して建てられたことが判明しており、それは本尊仏を納めるためであろうと推測されています。金堂の着工が聖徳太子斑鳩宮移住の605年と仮定し、薬師如来光背銘文に見える、607年に「仕奉りき」が金堂と像であるとすれば、金堂の工期は2年と想定することができ、金堂が竣工し、その金堂に本尊仏が納められたのではないか、という解釈をされています。創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)の五重塔は金堂が完成した後、かなりの時間が経ってから建てられたことが判っているそうです。

こうした発掘調査および建築・美術史の観点(推測も含む)から、武澤秀一氏は現在の法隆寺金堂「東の間」本尊・薬師如来坐像は、「中の間」本尊・釈迦三尊像よりも新しい製作であり、現在は確認することができない創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)の本尊仏をイメージして造像されたものだと評価されています。
現在の法隆寺では、釈迦三尊像と並び薬師如来坐像も〝本尊と位置付けられ〟、更に〝根本本尊〟と呼ばれているそうです。

『日本書紀』にある670(天智天皇9)年の「夜半之後ニ法隆寺ニ災ケリ、一屋モ余ルコト無シ、大雨フリ雷震ル」という記載ですが、最後の「大雨フリ雷震ル」は他の記事にも常套句的に用いられている情景描写だといいます。ですから落雷が原因で焼失したという解釈には深重になる必要があるというのです。また落雷であったならば五重塔でる可能性が高く、金堂に延焼が及ぶまで時間があったことも考えられるとのこと。

『日本書紀』には法隆寺火災の記事が2箇所あります。
① 669年 法隆寺に火災が発生
  「十二月、(中略)于時、災斑鳩寺。」

② 670年4月 法隆寺に火災が発生
  「夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。」

669年の記事を誤記とする考え方もありますが、特に根拠も無く朝廷の正式な歴史書をバッサリ「誤記」とするのはどうかと感じます。勿論、誤記である箇所は幾つもありますけれどね。武澤秀一氏は「短期間のうちに起きた一連の火災は、むしろ不審火の可能性があると見るべきではないか?」と興味深い示唆をされています。

 

話を戻しまして、670年の法隆寺全焼の記事について。
現在の法隆寺金堂「中の間」本尊・釈迦三尊像は被災痕跡が全く見られないこと、その上脇侍を加えると約500㎏の重量となるそうで、燃え盛る建物から搬出することは困難であることから、釈迦三尊像は創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)ではなく、最初から現在の法隆寺金堂に安置されていた。つまり670年の時点で現在の金堂が既に完成していて、その金堂の本尊として釈迦三尊像は安置されていたという可能性が高いということを武澤秀一氏は指摘されています。

時系列に沿って整理してみます。
 聖徳太子の没年:622(推古天皇30)年
 釈迦三尊像完成:623(推古天皇31)年
          →異論もあるが有力視されている。
           火災の被害をうけた痕跡がまったく無い。
 創建時法隆寺(若草伽藍)の焼失:670年
          →釈迦三尊像は火災に遭ったと考えられることが多い。
           光背頂部の折れ曲がりは物理的な損傷で、火災に直接結びつかない。
           造像当初からの物と推測される高く大きい木製台座にも被災の痕跡が認められない。

釈迦三尊像(623年完成)が焼失した創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)から搬出されたのであれば、共に並んでいたであろう〝もとからの本尊〟(607年完成:薬師如来坐像光背銘)はどうなったのか?現在の金堂「東の間」本尊・薬師如来坐像は様式から釈迦三尊像よりも完成は新しいことが判明しているので、〝もとの本尊〟は焼失してしまった可能性が高く、〝もとの本尊〟は新たに造り替えられた=現在の金堂「東の間」本尊・薬師如来坐像である。
武澤秀一氏の推論を、大雑把にまとめてみました。建築・美術史の観点に文献の表現解釈を組み合わせて、筋の通った考え方です。いわゆる〝謎〟とされていたことがらの幾つかは、解消されそうな指摘ですね。

現在の法隆寺金堂「中の間」本尊・釈迦三尊像は、創建法隆寺(いわゆる若草伽藍)の火災とは無縁の仏であり、670年火災よりも前に、現在の法隆寺金堂の完成と連動して〝金堂の本尊〟として安置された可能性が高いといいます。

更に釈迦三尊像の光背銘中「住イテ浄土ニ登リ、早ク妙果ニ昇ラセタマハンコトヲ。」という箇所をもとに「この願いは像と空間がひとつとなって生み出された上昇感と見事に一致している。木製台座は二段になっていて高く、銅製の釈迦像は宙に浮いているかのよう、その巨大な光背は垂直性が強調された意匠になっている。」と指摘し、「金堂の空間は、この釈迦三尊像を納めることを前提として設計されたと思われてくる。」とされています。
建築史家の観点として、一般人では及ばない分析・推測です。

武澤秀一氏『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書601 2006年)を読ませていただきながら、現在の法隆寺金堂「中の間」本尊・釈迦三尊像と「東の間」本尊・薬師如来坐像についてのことがらを抜粋・整理してみました。
時間の経緯を踏まえて考えることが円滑になるよう、略年表をつくってみました。

一般的な認識での法隆寺とは違ったものが幾つも見えてきそうな予感がします。
今回、法隆寺に関する書籍を何冊か取り寄せて色々と調べてみました。全ての読み終えた訳でもなく、また今回の記事は新書とはいえ武澤秀一氏の『法隆寺の謎を解く』を中心にいわゆる〝法隆寺の謎〟について学ぶことができました。確かに現在の「法隆寺」には異なる時代の文化財がひしめき合っているので〝難しい〟と思っていましたが、同時に〝深いなあ〟という気持ちも一層強くなりました。興味をお持ちの方は是非とも武澤秀一氏『法隆寺の謎を解く』をお読みください。法隆寺と政治との関連について大胆な推論・指摘が素晴らしいですよ。
予期せぬ〝法隆寺についての学び〟により、手元に複数の法隆寺関連書籍が集まりました。今後これらを丁寧に読み、理解・消化しながら〝斑鳩の地〟を訪れる準備を進めていきたいと考えております。

 

ご覧の如く、レプリカであっても本物に忠実なシルエットで造られています。二等辺三角形のピラミッド状のフレームを意識した立体性の強い造形です。

銘文と「薬師如来」という伝承で、法隆寺金堂「東の間」本尊・薬師如来坐像は「薬師如来」と見られている訳ですが、薬師如来ではい可能性も考えられています。
文献ベースで考える癖がついていると、こうした建築士・美術史的な観点からの鋭い指摘はある意味〝衝撃〟ですね。でも楽しい。

また法隆寺の仏像(フィギュア)を扱う機会に、法隆寺について考えてみたいと思います。春は遠くに遊びに行くことができなさそうです。
この期間を事前の調べ作業にあてて、夏あたりに〝斑鳩の地〟を訪れますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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