秋の山城国から帰って参りました。
今年も夏の影響で、未だ未だ紅葉にはほど遠い状態でした。
極月(12月)上旬あたりに〝紅葉が見頃〟と現地の方が仰っておりました。
また、その頃に上洛もしくは南都(大和国)に出向く予定がありますのでね、楽しみにしておきましょう。
さて、東寺に参詣してきましたでな。
「大宮通」(京都府道114号)に面している「慶賀門」です。
「慶賀門」の右側に駐車場入口があります。
京都駅から徒歩だと、この「慶賀門」から入るのが一般的ですね。
「慶賀門」前に「史蹟 敎王護國寺」の石柱が建てられています。
「教王護国寺は」宗教法人の登録名ですと。
正式名称は
「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」
または
「弥勒八幡山総持普賢院」
と謂います。
「河越御所」サイトでは「東寺」で表記しています。
「慶賀門」前に立って撮影しています。
勿論、観光客の流れが途切れたところで撮っていますよ。
外国人がこの門内で何かを見ながら立ち止まっていたので、撮影する態勢をとっていました。
気付いた1人が仲間に移動する様、促しました、
日本に興味を持って旅行しているのは構わないのですが、立ち止まるに相応しくない場所や座るべきところではない場所に座っていたりと〝西洋人のやりたい放題〟に直面しているので、強めの態度を示しましたよ。
駐車スペースに車は少なく、徒歩の観光客が多かった様です。
曇天でしたが、歩いてまわっているので、このくらいが丁度良いのです。
「慶賀門」から入ったかの如き書き出しでしたが、実際は何時も「八条通」に面している「北総門」から入っています。
「六孫王神社」からの帰り道で「東寺」に寄るパターンが出来上がっていますのでね。
小さき門ですが、重要文化財に指定されている鎌倉時代後期に建てられた門ですよ。
柱を観ると、年季が入っているのが判ります。
部分的に朱色を塗っていたことが推測できますね。
若しかすると、黒く塗られていた箇所があったかもしれません。
左側の門扉板です。
部分的に修繕が施されていますが、朱塗りであったことが判ります。
左側の門扉板、下部を観ています。
地面に近いですから、塗料は剥落してしまいますね。
修繕も衣装を凝らしています。
右側の門扉板です。
朱く塗られていたことが判りますね。
鎌倉時代後期に建てられたことを鑑みれば、極めて良好な状態であります。
左側の門扉板、下部を観ています。
地面に近いので彩色が剥落しています。
下地として白色が塗られていたのでしょうか。
修繕した貼板の形状が異なっていますね。
左右のどちらが先に張られたのでしょうね。
因みに「北総門」は「四時二十分」に閉門される、と表示がありました。
端っこですからね、最初に閉められるということでしょう。
この「北総門」から「北大門」までの細い参道、「櫛笥小路」(くしげこうじ)と呼ばれています。
各時代の人びとによって京(みやこ)の町並みは姿を変えてきました.
戦禍・罹災からの復興が主でしょうが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)による〝改造〟によって京(みやこ)は大きく変わってしまった様です。
「東寺」五重塔は京(みやこ)の入口を示すモニュメントと位置付けられましたし、寺社の配置換え、町割りの変更・・・・と、在りし日の平安京の姿がだいぶ様変わりしたのです。
そうした変革を経ても、この「櫛笥小路」は平安京造営以来の位置・道幅であると謂います。
そっか、だから何時もココを通っているんだ(笑)。
「北大門」の手前、左手側に「善如大龍王」の石柱が。
何度も目にしていたのですが、意識したのは今回は初めてです。
そりゃぁ、大和国宇陀の山奥で遊んでいると「善如龍王」とは知り合いになりましたからね。
でも、山城国東寺では「善如大龍王」ですからね。
今後、東寺に参詣するに新しいテーマができましたよ。
さて、「北大門」を潜り抜けて。
何時もの参詣ですと左手側に進み、立体曼荼羅を愛でるのですが、今回は右側②進みました。
それは何故かと申しますと・・・
「宝物館」が開いていたからです。
東寺「宝物館」は常時開館している訳ではありませんので、開館は貴重なのです。
たくさんの文化財が展示されていますが、注目なのが巨大な千手観音像と、羅城門の2階に据えられていたという「兜跋毘沙門天」が居りますの。
じっくりと「兜跋毘沙門天」の姿・サイズを目に焼き付けてきましたよ。
多くの方々がお気付きで無い様ですが、「宝物館」売店は、有料区域入口の売店とは異なる商品を扱っています。
勿論、同じ商品もありましたよ。
宝物館限定の土産を購入しましたが、また「宝物館」開館時期に合わせて東寺を参詣し、別の限定品を購入する計画を立てました。
朱印をいただく為に「食堂」(じきどう)に立ち寄ります。
ここ2~3年の参詣では、1回の参詣で3種類の朱印をいただく様にしています。
だって、空海の膝元で筆を握っているおばちゃんたちの〝筆の運び方〟が素晴らしいのです。
とても〝朱印ひとつ〟だけでは、その素敵な〝筆の運び方〟を楽しむことができません。
3種類だと、梵字+文字の変化も充分に楽しむことができます。
4種類以上になるとね・・・、3種類が丁度良いのです。
今回は
「愛染明王」
「毘沙門天」
「三面大黒天」
をいただきました。
「愛染明王」は最近、高野山金剛三昧院モデルのTanaCOCOROサイズを特集しましたからね。
「毘沙門天」は、詐欺ヤロウ(注)が執拗に「河越御所」サイトの画像を盗むので大がかりに潰してやろうと計画しているのでね。
(注:「河越御所」が標的としているのは詐欺未満のコソ泥ヤロウですがね。)
「三面大黒天」は「河越御所」の念持仏ですから。
こうして、参詣時々の情勢によって頂戴する朱印を決めています。
同じ朱印を続けていただくこともありますがね。
有料区域に向かう前、
秋の「不二桜」に立ち寄ります。
まぁ、秋ですからねぇ・・・・。
次回は春の参詣を予定していますのでね。
「宝物館」と共に、こちら(花を纏った「不二桜」)も愛でることとしましょう。
有料区域入定ゲートを通過し、
池に姿を映している「五重塔」です。
外国人観光客がいっぱい居りましたよ。
今回は、このくらいの接近で止めておきました。
次の訪問場所があったので、時間に追われていたからですよ。
また、別の機会に東寺「五重塔」を愛でますね。
「五重塔」に向かう途中、重要文化財「東大門」があります。
だいたいの観光客は素通りでしたがね。
別名「不開門」(あかずのもん)と呼ばれています。
1336(延元元)年5月、足利尊氏は湊川の戦いで楠木正成を討死にさせ、新田義貞を撃破して入京しました。
後光厳上皇を報じての入洛で6月14日、東寺に布陣したそうです。
後醍醐天皇方は京への物流を封鎖した為、足利軍は兵糧攻めに遭うこととなります。
6月30日、新田義貞が東寺への総攻撃を仕掛けました。
足利軍は東寺の各方面に出張っていましたが、じりじりと後醍醐方の軍勢に圧され、東寺東大門から境内へと撤退します。
足利軍は撤退完了後に東寺南大門を閉ざし、門には新田軍が射掛けた矢が尽き立ったそうです。
足利尊氏は、新田義貞の挑発に乗らず東大門を閉めたままで凌ぎきりました。
この戦闘により、東寺の東大門は「不開門」と呼ばれる様になったそうです。
次の東寺参詣時、東大門の外側を観察してみますね。
この画像は、東大門の内側の様子です。
手前に〝立ち入り禁止〟の簡易柵が設置されているので、これ以上は近付くことができません。
五重塔を回ってから、「講堂」に向かいました。
時間の制約があったため「金堂」には寄らず、立体曼荼羅に向かって行くのです。
「講堂」に入る前、外観を愛でます。
1965(昭和40)年に長く、そして固く閉ざされていた講堂・金堂の封が解かれました。
立体曼荼羅を直に拝むことができる時代に生きていて、心底幸せを感じますよ。
金堂の裏側から、「金堂」の正面を観ています。
持っていた携帯電話搭載のカメラでは、端っこが入りませんでした。
次は工夫してみますよ。
「講堂」に近付いていきます。
緑色の網・黒い格子の向こう側に空海を知らない、室町時代生まれの大日如来が御座します。
立体曼荼羅21体のうち6体が後補の像となっています。
立体曼荼羅の中心・大日如来は1485(文明18)年に焼失、七条仏所の康珍が1493(明応2)年~1497(明応6)年と4年掛かりで造像したそうです。
大日如来の姿が見えそ・・・いや、見えませんね。
残念っ。
「講堂」に入ると、立体曼荼羅21体が勢揃いしていました。
東寺「講堂」の立体曼荼羅は、何度でも体感したくなる群像です。
写真だけでなく、フィギュアもありますからね。
〝これぞ密教だっ〟という空海からのメッセージが伝わってきます。
不可能でしょうが、1泊してみたいです。
勿論、明るくした状態でですよ。
当然なのですが、空海は〝凄い密教僧〟ですよね。
当サイト内のすべてのコンテンツについて、その全部または一部を許可なく複製・転載・商業利用することを禁じます。
All contents copyright (C)2020-2024 KAWAGOE Imperial Palace Entertainment
Institute / allrights reserved