ここ数年、河内国壺井によく遊びに行くようになり、壺井八幡宮→通法寺跡や源氏三代の墓という〝河内源氏所縁の地〟を堪能するようになりました。
河内国壺井八幡宮/壺井権現社を参拝した記事は、これまで何度か公開しています。
河内国通法寺跡は、先日初めて公開しました。
「源氏三代の墓」とは云われていますが、通法寺跡の境内に源頼義の墓があり、そこから歩いて直ぐの丘の上に源頼信の墓と源義家の墓が位置しています。
今回は、源頼信の墓を訪れた時のお話ですよ。
通法寺跡の端っこ、丘に近い所に源頼信・源義家の墓への案内があります。
源頼信・源義家の墓へと向かいます。
この丘の上に、源頼信と源義家が居るんですよ♪
2023(令和5)年8月に訪れた時の画像を用いています。
ご覧の如く凄く青空だったんですよ。
源頼信・源義家に逢うのは、初めてでした。
通法寺跡から迷うこと、ありませんよ。
だって一本道だもん。
そして近いもん。
夏でしたからね、草木ぼうぼうでした。
様子を撮影しそびれていました。
これ以前に到来した嵐の被害により、この碑の右側からの登り口が崩落していて通行止めでした。
通行止めってことで、源頼信・源義家には逢えずじまいか?
・・・いやいや、武蔵国河越から出向いていますのでね。
諦める訳にはまいりませぬ。
それほど悩むことなく、導かれる様に迂回していましたよ。
一般的な登り口を通過し、奥へと歩みを進めていきます。
初めて来たんですよ。
丘の形状に合わせて、通路がありましたもん。
登り口の通行止めなんて、気にすることはありませんでした。
二股に道が分かれていましたが
確か、右側を進んだと思います。
左側は丘の周りに繋がっているはず。
進むとね、
道は、こんな状態だったんです。
大丈夫、怖くありませんでしたよ。
だって、ご覧の如く〝天照大神の恵み〟が降り注いでいましたもん。
それにねっ、道があるということは
たくさんの人びとが通っているってことですからね。
この道を進めば、源頼信・源義家に逢えるのですから。
そうして進んでいると
〝何か〟が見えてきましたよ。
近付いたらね、
板製の渡橋でした。
ここを真っ直ぐ下っていくと、丘から脱出することになります。
返りは、この道を下っていきました。
この渡橋の下、潜れるんですよ。
左手に登り坂(上に繋がる途)があります。
この時(2023年)は、一般的な登り口が通行止めだったことから、こうして迂回ルートを採ったのですが、足腰に不安を持たれる皆様は迂回ルートを採れば難無く源頼信・源義家のもとに向かえますよ。
ただ、この渡橋の脇の登り坂をクリアしなければなりませんがね。
案内の石碑が立っています。
先程の渡橋、下からの視点で
右側に源義家の墓が
左側に源頼信の墓が
あります。
それぞれに案内板が設置されていますので、間違うことはありませんよ。
源頼信と源義家のどちらを先にするかは、ご自由に♪
「河越御所」は先に源頼信へ逢いに行きました。
渡橋の上に立っています。
源頼信の墓に向かっています。
背後に源義家の墓が見えているんですよ。
では、源頼信の墓に向かって進みます。
どんだけ、盛りの奥へと進むのか?
ここを道なりに右へと進んだら
源頼信の墓に到着しましたよ。
そんなに遠くはありませんでした。
嬉しくもあり、感動的でもありました。
源頼信との初対面でしたよ♪
縦方向のパノラマ画像を撮りました。
青空が凄く濃いのっ!
周りを歩くことができる円墳状の墓でした。
頭頂部に石柵が設置されています。
とてもではありませんが、登っていくことはできませんよ。
だって、草木がぼうぼうですもん。
源頼信は藤原道兼(道長の兄)に臣従した様ですね。
『今昔物語集』によると、主人・道兼のために藤原道隆(道兼・道長の兄)を殺害すると放言し、20歳年長の兄・源頼光に窘められたといいます。
若い頃は血気盛んな武者だった様です。
源頼信の母は、藤原致忠の娘です。
藤原致忠は殺人事件を起こして流罪に処されていますし、その子・藤原保昌は武芸に優れ、その弟・藤原保輔は大盗賊「袴誰」ですからね。
武門の家ということで、武人の血がハイブリッドされるという家庭環境(笑)もありますのでね。
源頼信は、藤原伊周(道隆の子)との乱闘事件も起こしています。
『小記目録』によると従者同士の小競り合いらしいのですが、藤原実資の『小右記』には当該記事が無いため詳細は不明です。
『今昔物語集』の逸話からすると、藤原道隆‐伊周父子には良い感情を持っていなかった可能性があります。
藤原兼家(道隆・道兼・道長の父)が、花山天皇を退位させた時も
「なにがしかがしといふいみじき源氏の武者達」(『大鏡』)
と源満仲の息子たちという括りで摂関家の側近的な存在として機能していたことが推測できます。
ただ、兄の源頼光(摂津源氏)・源頼親(大和源氏)とは異なり藤原道長との距離感はあった模様です。
『本朝世紀』の994(正暦5)年3月6日条によると、平安京内外の盗賊の大捜索にあたり、源頼信は「武者」の一員として動員されており、ある程度の武力を有していたことは確実視されています。
でも、この頃は源満仲の第3子という傍流の域をでるものではなく、本家(源満仲‐頼光)に諸事依存する様な状態であったと考えられています。
因みに、横っちょ手前には「大僧正龍光」の墓がありましたよ。
桂昌院が帰依しで、徳川綱吉が生類憐みの令を出すきっかけをつくった坊主(僧)です。
この後、源義家の墓に向かい、先程の渡橋を降りて下り坂を通って丘から出ました。
次は、2025(令和7)年3月に源頼信へ逢いに行った時の画像です。
ちょいと曇天ですね。
実際には明るくて、晴れていた様な印象でしたよ。
通法寺跡から、源頼信・源義家の居る丘へ向かいます。
冬が開けた春の時期でしたからね、
石碑は姿を現していましたよ。
そして、2023(令和3)年8月時点で通行止めになっていた登り口は
復旧していました。
通路(登り階段)は修繕されていましたが、
道の無いところでは、木や竹が倒れていました。
通行止めになった崩落は、かなり深刻だった様ですね。
手摺りもありますので登り易いのですが、ジグザグ曲がっての角度がある坂ですので、なかなかへばってしまいます。
ゆっくりと登っていきましょう。
ブルー・シートが掛かっているのは、土砂崩れを防止するためでしょうか?
案外、広範囲にわたって掛けられていました。
不安ではありませんでしたがね。
他にもシートが掛けられている場所がありました。
登るのには、問題ありませんでしたよ。
画像では、勾配が緩やかに見えますが、
ジグザグ斜めとは云え、
登り坂の角度はキツいんです。
急いで登るとゼーゼーになりますよ。
慌てず、緩りと登ってくださいね。
この石段を登り切ると
源義家の墓の後ろ側に出ます。
源義家の墓については、また別の機会にね。
源義家の墓の横を通って、板製の渡橋のところまで来ました。
源頼信のもとへと向かいます。
一度、通っていますからね。
不安な気持ちはありませんの。
源頼信の墓に向かう通路以外は、私有地なのでしょうかね?
昨夜網が掛かっていましたのでね。
この突き当たりを右に曲がると・・・
源頼信の墓が見えてきました。
夏の草木ぼうぼう状態の時とは、また印象が異なります。
一度、来ていますのでね。
〝源頼信との再会〟になりました。
画像には写していませんが、八幡宮の息子を同行したのですよ。
子孫ではありませんが、源頼信が創建した八幡宮の家に生まれましたのでね。
何とも云えない〝大仕事を成し遂げた〟感で胸がいっぱいになりましたよ。
この画像では判り辛いのですが、
後方に周り込むと、円墳状の頭頂部に石柵が配置されています。
石柵まで辿り着けませんよ。
登れる状態ではありませんのでね。
源頼信は、平忠常の乱後に上野国・常陸国・美濃国の受領を歴任し、最晩年に河内守に補任されたことで河内国に進出したことが有力視されています。
源頼信と河内国との繋がりは、案外時間が浅いことになりますね。
次は、2026(令和8)年2月に通法寺跡から源頼信へ向かいました。
大阪歴史博物館での特別展「河内源氏と壺井八幡宮」を拝観するために摂津国・河内国を訪れた時ですよ。
これまた晴天でしたよ。
登り口は、問題無く通ることができました。
急いでいた訳ではありませんが、登ってきながら息はゼーゼーになってしまいました。
登っている途中、
〝天照大神の恵み〟が差し込んできました。
とても心地良かったんですよ。
土砂崩れ防止のためか、ブルー・シート等が残っていました。
登っていくことに、何も障害はありませんでしたよ。
偶々撮った画像に、天照大神が写り込んでいました。
こうした後押しによって、「河越御所」の遠征は楽しいものになっています。
源義家の墓の横を通り、源頼信の墓に向かいます。
源義家の墓の前から、渡橋の肩を見ています。
こんなに判り易い道筋になっているのですよ。
3度目になりますと、〝また来たよ〟ってな感じになります。
勿論、源頼信への敬意を以ての墓参りですからね。
未だ〝通う〟までには至っていませんが、心安らぐ墓参りにはなっています。
「河越御所」が〝通う〟と認識するのは、5回以上訪れないとなりませんのでね(笑)。
また、源頼信に逢いに来ちゃいました♪
この時は、完全単独行動でしたからね。
「河越御所」は〝見えもしない〟ですし、〝聞こえもしない〟鈍感なのです。
そんな「河越御所」ですが、この時の墓参りでは源頼信からメッセージを受けた感じ(笑)。
言語化が難しいのですが、「よく来たな」と喜んでくれたという印象でした。
源頼信に〝お爺ちゃん〟的な親しみが湧いてきましたよ♪
源頼信は敵対したり名誉を毀損する者には容赦しませんでしたが、源頼信の威厳に屈した者には極めて寛容な態度を示しました。
坂東で発生した平忠常の乱の平定も、こうした硬軟の姿勢を巧妙に使い分けによるところが大きかったことでしょう。
特別変わったモノが写っている訳ではありませんが、墓参りできて良かったなと感じています。
草木が生えているので、蝋燭・線香をあげるのは危のうございますよ。
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