陸奥国鎮守府八幡宮(岩手県)その弐

年が明け、2026(令和8)年となりましたね。
昨年にも増して、彼方此方に出向き遊びまくってやります。

さて、年末は西国遠征を転回していたのですが、年が改まってからは蝦夷征討でした。
とは云っても軍事作戦ではありませんでしたがね。
折角、陸奥国へと出向いたのですから胆沢城に立ち寄らねば・・・と考えたのですが奥州市埋蔵文化財調査センターが休館でしたので、更に積雪・降雪とう状況もありましたので胆沢城巡回はなりませんでした。
でも、この時期、この地域に来ることはないので、「鎮守府八幡宮」を参拝しました。
夏の参拝は何度かしていますが、冬(雪)の鎮守府八幡宮は初めてです。

駐車場は満杯で、参拝客も多くおいででした。
入れ替わり立ち代わりってな感じの〝人の流れ〟でした。
これまで何度か参拝していますが、これ程の人が行き交う鎮守府八幡宮は新鮮でした。
この地域における信仰は相当なものであることが窺えます。


人の流れが途切れた時に撮った、石鳥居の正面です。

新しい注連縄が掛けられています。
新年という感じがしますね。

「八幡宮」ですから
  八幡大神
  応神天皇
  神功皇后
  市杵島姫命
が祀られています。


境内の中心にあたる場所には

堀で囲まれた、立ち入り禁止区域が存在します。
ネットで検索する限り、この場所についての具体的な情報はありませんでした。
地域史誌には当たっていませんが、次回の参拝時に宮司さんへ聞いてみようと思います。
可能な範囲で事前に調べてみますがね。

胆沢城は802(延暦21)年、坂上田村麻呂が蝦夷征討の拠点として築かれました。
建設の最中で蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)が降伏したということなので、北上川を最大限に活用して胆沢城の構築と蝦夷正当の軍事作戦を同時進行させていたことが推測できます。

坂上田村麻呂は胆沢城の北東に豊前国宇佐八幡宮から八幡神を勧請しました。
「鎮守府」は陸奥国の国府・胆沢城に置かれていた軍政機関で、坂上田村麻呂による正当事業の進展により胆沢城に移転したと考えられています。
征討軍の編成や軍備の補充、物資の補給、征討作戦の立案・展開という業務を担当する部署ですね。
ただ記録では具体的な時期が示されていないので、上限は坂上田村麻呂の胆沢城築城と同時期、下限は嵯峨天皇の治世になるといいます。



狛犬も雪化粧していました。

鎮守府八幡宮に到着したら小雪が舞い、本殿の辺りに居た時は晴れていて、境内から出るところで雪が強くなりました。
ですから、将に〝雪化粧〟という表現がピッタリな状態でしたよ。


境内で2本目の石鳥居です(参道入口の赤鳥居から数えると〝三の鳥居〟)。

参拝客が結構おいででしたの。
〝消しゴムマジック〟で人びとを消したのではありません(ホント)。
タイミングによって、人の流れが見事に途切れる時があるものです。
鳥居に立て掛けられた案内表示が年始の装いですね。

810(弘仁元)年、嵯峨天皇より宸筆「八幡宮寶印」を下賜されたそうですよ。
この「八幡宮寶印」は、鎮守府八幡宮の神宝となっています。
坂上田村麻呂が奉納した「封建」と「鏑矢」も神宝となっているそうですよ。



鳥居を潜り

拝殿に向かっていきます。
鳥居を潜ってから拝殿までの敷地は、それ程広い訳ではありません。
でも〝こぢんまり〟というサイズでもない、絶妙な空間です。
清浄なエリアですからね、心地良い雰囲気に包まれている感じ。
実際には無いのですが、ベンチがあれば昼寝しちゃいそうなのです。
武芸の八幡神を祀っているとは思えない安らぎの空間ですよ。



拝殿に近付いてみると

門松が置かれ、初詣仕様となっていることを実感しました。
南天は〝魔除け〟ですからね。

ねっ、参拝客の方々がいっぱいでしょ。
この様な状態なのに、人気(ひとけ)の無い拝殿の画像が撮れたことって不思議でしょ(笑)。


そんなに頻繁に来ることができないので(笑)

 

しかも、新年の装いってのも珍しいのでね。
参拝客の姿が映り込まない様に撮影しました。



正面からだと見え辛いのですが、

 

向かって左側から回り込むと本殿の様子を見ることができます。

多賀城から胆沢城に鎮守府が移転したことは事実なので、この「鎮守府八幡宮」がある訳です。
歴史的に鎮守府将軍という令外官が存在しました。
記録上では「鎮守将軍」と表記されています。

近衛少将だった坂上田村麻呂は、796(延暦15)年11月30日)に鎮守将軍を兼任したそうです。

古代日本の律令国家において
 日本海側:鎮狄(ちんてき)将軍もしくは征狄(せいてき)将軍
 太平洋側:征夷(せいい)将軍もしくは征東(せいとう)将軍
が設置されていました。
これに、陸奥国多賀城へ軍政機関として鎮守府が設置され、この鎮守府の長官が鎮守将軍(一般的に鎮守府将軍)が存在したのです。

「征東大将軍」の初見は紀古佐美(きのこさみ)、
「征夷大将軍」の初見は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)
です。
坂上田村麻呂は797(延暦16)年、大伴弟麻呂の後任として「征夷大将軍」となりました。
坂上田村麻呂は804(延暦23)年にも「征夷大将軍」に任命されています。
『ウキペディア』の記事を参照すると坂上田村麻呂の「征夷大将軍」就任については
 1度目:797年11月27日(延暦16年11月5日)~801年12月7日(延暦20年10月28日)
 2度目:804年3月13日(延暦23年1月28日)~810年10月11日?(大同5年9月10日?)
となります。

陸奥出羽按察使兼陸奥守だった坂上田村麻呂は796(延暦15)年11月30日)に鎮守将軍を兼任していましたから、『類聚国史』によると800年(延暦19年)頃の坂上田村麻呂の肩書は
 「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」
となっていました。
つまり800年前後、坂上田村麻呂は
 征夷大将軍
 陸奥国出羽按察使
 鎮守将軍
と桓武朝における蝦夷征討/東北地方の統治を担う3つの令外官を兼ねていた訳です。
近衛権中将は律令官、陸奥守は国司ですからね。

坂上田村麻呂は、この状態で801年3月31日(延暦14年2月14日)に桓武天皇から節刀を下賜され、征討軍を率いて平安京を出立したのです。


現在の社殿は後世(1803=享和3年)の再建ではありますが、ちょいと離れた胆沢城とほぼ同時期に「鎮守府八幡宮」の歴史が始まったということは感慨深いことです。
境内の柔らかな雰囲気は、坂上田村麻呂が蝦夷征討を軍事一辺倒ではなく、律令国家の構成員としての教化(稲作を伝えて班田農民へと転身、結果として収奪の対象とするのですが・・・)にも尽力したことを伝えるものではないでしょうかね。


本殿の横っちょ、

 

神木が御座しますの。
鎮守府八幡宮境内社「若木社(若気社)」の神木だそうですよ。

 

 

3本の幹が捻れて絡み合って(いる様に見える)天に向かって伸びています。
推定樹齢は1150年と考えられているのだそうです。
雪が残っている状態で観るのは初めてですよ。

 

 

推定樹齢通りに考えると、残念ながら「若木社の神木」は坂上田村麻呂のことを知りません。
坂上田村麻呂が陸奥国胆沢城を中心として活動していた頃よりも60年程あとに生まれていますからね。

今後も「鎮守府八幡宮」に参拝はすると存じますが、雪景色の「鎮守府八幡宮」を訪れることは・・・判りませんね。
夏の暑い時期だと胆沢城近辺を散策しながら参拝する機会はあるでしょうが、陸奥国胆沢は雪国エリアですので積雪状態では胆沢城の散策はできかねます。
スケジュールを調整して、各季節における「鎮守府八幡宮」の表情を楽しみたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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