せっかく摂津国多田神社に参拝したのでね、近隣の源氏関連社寺を調べてみました。
幾つかがヒットしたのですが、多田神社を出発するのが昼をだいぶ回った時間帯になっていた為、「満願寺」(まんがんじ)を参詣することにしました。
摂津国「満願寺」は奈良時代・神亀年間(724~728)の聖武天皇勅願による創建で、勝道(しょうどう)が開基と伝わっています。
源満仲が968(安和元)年に摂津国多田荘に館を構え、それ以来、満願寺に深く帰依したのだそうです。
知らない道をカーナビの誘導通りに進んだのですが、予想以上に時間がかかった印象でした、
駐車場に車を停め、いざ「満願寺」へ。
さほどキツくない石段(昭和の建造:女性の厄年に因んで33段)を登ると
明治時代初期に建てられた、和洋折衷(擬洋風建築)の山門が出迎えてくれました。
左側に変な物が映り込んでいますが、気になさらないでください。
手に持っていた物ですから、怪奇現象ではございません。
山門の全体像を写した画像が、これしかありませんでした。
ご了承くださいまし。
1868(明治元)年に神仏分離令が発せられ、「多田院」が「多田神社」へと転身せざるを得なくなったことで、鎌倉時代末期に制作された木造・金剛力士像を多田神社に置くことができなくなってしまいました。
そこで木造・金剛力士像が「満願寺」へ移されることになり、1881(明治14)年に当時流行していた「擬洋風建築」技法が採択された山門が建てられたのだそうです。
左右の屋根(金剛力士が納められている)、それぞれの中央の頂(いただき)に、相輪の代替として密教法具「三鈷杵」(さんこしょ)が据えられていました。
寺の入口に「三鈷杵」を据えることで、結界を張っているのだそうですよ。
左右それぞれの屋根の下には、鎌倉時代末期生まれの木造・金剛力士像が納められています。
この金剛力士像は、仏師「康俊」(こうしゅん)に手によるという説が有力視されています。
1966(昭和41)年に金剛力士像の解体修理が実施された際、阿形内部より「嘉暦」年号の墨書が確認されました。
「嘉暦」は1326~1329年間の元号(年号)です。
ところが墨書は意図的に削られていたことで、調査が難航したといいます。
1996(平成8)年9月、奥健夫氏が「兵庫・満願寺金剛力士像の作者について」(『佛教藝術』第228号)を発表されました。
1966(昭和41)年に撮影された赤外線写真/高精細記録写真、赤外線テレビカメラなどによる光学的調査、更に肉眼と学術的知見による精査の結果、「康俊」(こうしゅん)の判読に成功したのです。
同時代(鎌倉末頃)に仏師「康俊」(こうしゅん)は
1)大和国興福寺の「康俊」
2)山城国東寺の「康俊」
が存在したらしく、満願寺の金剛力士像を制作したのは山城国東寺の「康俊」なのだそうです。
現場では、あっさりと画像を1枚ずつ撮影しただけでした。
次回の参詣時には、もっといっぱい画像を撮りますよ。
中央に曲線を象っている、風変わりな山門です。
「神秀山」と山号が掲げられています。
アーチに竜(ドラゴン)が浮彫されています。
こうして、未だ先へと真っ直ぐの道が続いています。
意外と長い参道です。
夏だから?でしょうか。
風鈴が吊り下げられているところを進んでいきます。
風が流れておらず、ひとつも鳴っていませんでした。
別に、イイんですけれどね。
「入山料」を納める箱です。
歴史ある寺社の継続は大切なことです。
次代への継承を期して、100円玉を投じました。
緩く短い上り坂の先に本堂(金堂)が見えてきました。
この参道、秋になると紅葉で様相が一変するそうですよ。
秋に河内国を訪れることは難儀ですがね。
本殿(金堂)前に建てられているのが「宝鏡院塔」(ほうきょういんとう)です。
現在の満願寺本堂(金堂)の再建時(1798・寛政10年頃)に建てられた様です。
本堂(金堂)は寺務所兼納経所に声がけをして、拝観料300円を納めることで立ち入ることができるそうです。
次回の参詣時には、是非とも堂内を拝観したいと存じておりますよ。
本堂(金堂)に向かって左手側に進むと「三廟」(さんびょう)があります。
室町時代に建てられた石塔三基です。
寺の案内では
左 :幸寿丸
中央:美女丸
右 :藤原仲光
とされています。
左 :藤原仲光
中央:幸寿丸
右 :美女丸
という、異説もあるそうです。
美女丸は源頼光の末子で、寺に預けられたのだそうです。
勿論、僧侶にする目的だったそうですが、美女丸は素行が悪しきままだったといいます。
この状況に源満仲が激怒、側近の藤原仲光に斬首命令を下しました。
葛藤する父・藤原仲光に、息子の幸寿丸が〝美女丸の身代わり〟を申し出て、藤原仲光は源満仲に幸寿丸の首級を差し出しました。
美女丸は比叡山へと逃がされたそうです。
美女丸は比叡山で源信(げんしん)に師事し、源賢(げんけん)となりました。
『往生要集』開板では中心的な役割を果たし、『後拾遺和歌集』にも詠歌が撰集されています。
真ん中の石塔が、美女丸(満仲の末子)もしくは幸寿丸(身代わりとなった藤原仲光の子)、
左の石塔は、幸寿丸(子)もしくは藤原仲光(父)のもの。
真ん中の石塔が、美女丸(満仲の末子)もしくは幸寿丸(身代わりとなった藤原仲光の子)、
左の石塔は、藤原仲光(満仲の側近)もしくは美女丸(満仲の末子)のもの。
何れも三者の没を機に建てられたものではありません。
後世の供養塔にございます。
本堂(金堂)と「三廟」の中間に「源家の七塔」が配されています。
案内の立て札に
一、伊豆守 源国房
二、出羽守 源光国
三、下野守 源明国
四、下総守 源仲政
五、山縣三郎 源国直
六、摂津守 源行国
七、兵衛太夫蔵人 源国基
と、表示があります。
頼光系統の方々は馴染みがありませんでしたのでね、略系図をこさえてみました。
○数字が七塔の人びとです。
源国房は頼圀の息子ですが、兄・頼綱の養子となったそうです。
なかなか関連論文や著書が見つからないのです。
未だ、機は熟していない様です(笑)。
「満願寺霊園 登り口」の案内板がありました。
でも、特に縁がありませぬ故、進みませんでした。
「河越御所」は、余計なことはしないのです。
本堂(金堂)寄りの場所に、空海像がありました。
近寄って見たら
「河越御所」の知っている空海ぢゃないっ!
誰ぢゃ(笑)。
本堂(金堂)の前を通り過ぎ
この道を、ちょこっと入って左手側に
「坂田金時の墓」がっ!
うぉっ!〝源頼光四天王〟のひとりぢゃん♪
手前の3つの円形表記、画像を撮って文字おこししたら・・・ウキペディア「金太郎」のほぼ引用ぢゃね~かっ!
上:坂田金時の誕生
天暦十年五月に誕生したという。
彫物師十兵衛の娘・八重桐が京にのぼって宮中にいた坂田蔵人と結ばれ懐妊したときの子供とされる。
八重桐は故郷の足柄山に帰り金太郎を産んだが、坂田蔵人が病気で亡くなってしまったため、京へは戻らず、故郷で育てることにした。
成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとる剛力の持ち主として、母に孝行する元亀で優しい子供に育った。
右:坂田金時にまつわる話
天延四年三月二十一日(九七六年四月二十八日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となる。
名前も坂田金時と改名し、京に上って頼光四天王の一人となる。
なお、他には渡辺綱、卜部季武、碓井貞光が四天王に名を連ねる。
永祚二年三月二十六日(九九〇年四月二十八日、丹波の国、大江山(現京都府福知山市)に住む酒呑童子を退治する。
酒呑童子は都に出てきては悪いことをするため、源頼光や四天王たちが山伏姿に身を変えて、神変奇特酒(眠り薬入りの酒)を使って退治した。
左:源頼光(源満仲の長男で摂津源氏の祖)
源頼光は大江山の酒呑童子、怪盗鬼幸丸、妖怪土蜘蛛などを退治した伝説的な英雄です。
天暦二年~治安元年(九四八~一〇二一)に実在した平安中期の武将で、摂津、伊予、美濃などの国主をつとめ、後に左馬権頭となって、正四位下を賜りました。
配下の坂田金時、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武とともに頼光四天王と呼ばれました。
その筆頭とされる嵯峨天源氏の渡辺綱は嵯峨天皇の皇子である左大臣源融を遠祖として、渡辺氏の祖となりました。
最初は〝源頼光四天王〟のひとり、ってことでテンションが上がったのです。
でも「坂田金時」と逢ったことが無く、イメージが掴めずにいました。
しかしながら、〝古の武士〟(いにしえのもののふ)であることは判りましたのでね。
敬意を以て、対峙させていただきました。
凄い緊張感でしたよ。
「対峙」とは言っても対決した訳でなく、武人として向き合っただけです。
「河越御所」は、相手を感じていただけです。
だって、見えないんだもん♪
因みに『御堂関白記』によれば、下毛野公時(しもつけののきんとき)という随身が藤原道長に仕えていたことが判るのだそうです。
「河越御所」内で『御堂関白記』(大日本古記録)を探したのですが、見付けることができませなんだ。
最近、散らかし放題になっているのでね。
『今昔物語集』には「公時」という郎党が、源頼光の家来として登場するのだといいます。
漢文を読まねばなりませんのでね、また別の機会にしましょうね。
〝天照大神の恵み〟が射してきましたが、かなり強い圧迫を受けているところです。
強い/弱いぢゃないのですが、大和国室生の龍(親分)の圧力を受けた経験がありますのでね。
落ち着いて対峙できましたよ。
するとね、急に緊張感が解けて〝笑顔〟を見せてくれたのです。
「坂田金時」さん?
何を言っているのかは解りませなんだが、とても楽しそうに語っていましたよ。
どんな話だったか聞きたかったんです。
興味ありますからね。
何やかんやで15時を過ぎていました。
名残惜しかったのですが
「また、参詣しますからね。」
って伝えたら、喜んでくれたみたいです。
挨拶をして手を振ったら、手を振り替えしてくれましたよ。
良好な関係ができたみたいです♪
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