武蔵国龍穏寺(埼玉県)

以前、知り合いが「武蔵国(埼玉県)に龍が居るっていう寺に行って来ました。」と言っていました。
そのうち行こうか、と話していましたが、あれから2~3年程が経過してしまいました。
更に今年(2024/令和5)は「辰年」にございます。
12居る干支のうち、ちょいとお気に入りな年なので、それが原動力にもなり参詣してきました。

埼玉県越生町の龍穏寺(りゅうおんじ)です。
駐車場が第一・第二と2箇所ありまして、かなりの台数を停めることができます。
この時は、他に一台が停まっていただけで、我々が到着したのと入れ替わりでお帰りでした。
つまり、結果として〝貸し切り〟状態でした。

 

アスファルト舗装された参道です。
この様に判り易い案内が立てられています。

 

この道路の左手側、ガードレールの下は岩がゴロゴロと転がっている川でした。
数日前に降雪でしたので、彼方此方に雪が残っていました。

 

年末に訪れた大和国龍鎮神社の途中もそうでしたが(岩のでかさは比較になりませんがね)、彼方此方になかなか大きな岩がありました。
古い時代から、信仰の場とされていたことでしょう。
実際、修験者たちの修行場でもあったらしいですよ。

 

アスファルト舗装された道を歩むなぞ興醒めです。

小さな六脚の表門(総門)が見えます。
今回は雪が残っていましたのでね、次回は季節を変えて参詣しようと考えています。

 

ず~っと石畳が続いています。
画像掲載を割愛していますが、右手前には地蔵菩薩の石像が立っています。

 

「龍穏寺」の額が掲げられています。
807(大同2)年、桓武天皇没の翌年で最澄や空海が日本に戻ってきて活動し始めて数年が経った頃です。
残念ながら寺の名称や規模等は不明ですが「龍穏寺」のもととなる寺院が建立されたのだそうです。

 

この総門を潜ると、石畳が右に大きく曲がり

 

大きな楼門(山門)が見えてきました。

 

緩やかな上り坂の石畳の先に、この楼門(山門)があります。
この画像だとそれ程感じませんが、

大きく立派な楼門(山門)にございます。

楼門の右手側に
「龍穏寺山門」
という説明板が設置されています。


  天保十三年(一八四二)、当時五十六性道
 海大信が再建した。入母屋造、銅瓦葺きで、
 階下には仏法を守護する四天王が、階上には
 観音菩薩、八大神将と十六羅漢が祀られ、格
 天井には花鳥風月で彩られている。大工棟梁は
 和田村(現越生町西和田)の石井熊蔵ら、
 彫刻は上州山之神村(現群馬県太田市)の
 岸亦八である。山号「長昌山」の扁額は、同
 時期に再建された表門(総門)の「龍穏寺」
 と同じく。名筆大乗愚禅の墨跡である。
  天保十二年から十五年にかけて、龍穏寺の
 復興を成し遂げた道海は、大本山永平寺貫首
 に昇山し、弘化元年(一八四四)に示寂した。
  なお、門の正面に掛かる「安禅不必須山水」
 「滅却心頭火自涼」の揮毫は、当時に書院を
 構えていた東宮御所書道御進講、桑原翠邦
 (一九〇六~九五)による。
    平成二十八年三月
            越生町教育委員会
                             」

楼門(山門)の右手前ですが、

斯様に無骨な石灯籠ならぬ岩灯籠。
何時製作されたのかは判りません。
岩場に因んでいるのでしょう。

 

楼門(山門)に近付き、振り返って岩灯籠を見ています。
天照大神が微笑みかけています(笑)。
清々しい晴天だったのですよ、この画像では判り辛いですがね。

 

楼門(山門)の前に立ち、見上げます。

2階正面に山号「長昌山」の額が掲げられています。

 

気になる球体上の装飾が3つ重ねられています。
軽くネット検索してみたのですが、何なのかが判りませんでした。
機会があれば調べてみます(笑)。

 

楼門(山門)は十二脚門でして、外側の柱十本には緻密な動物の彫刻が施されています。

四隅には象、それ以外の6箇所には唐獅子が据えられています。

 

裏側にまわってみると梯子が掛けられています。
勿論、上りませんよ。
2階から境内を見渡してみたいんですけれどね。

門を潜る際、四天王に気を取られてしまい、天井を見上げることをしませんでした。
彩色が剥落している龍が描かれているそうです。
また龍穏寺への参詣をする理由ができました。

 

さて、門内の四天王ですが、

こちら「増長天」。

こちら「持国天」。

こちら「広目天」。

 

最後に「多聞天」。

ご覧の様に、安いスマホ搭載のカメラで撮影しているので、金網にピントが合ってしまいました。
四天王はそれぞれ善き表情をされていました。
少々ゾッとする感じでしたよ。
なかなかな力をお持ちの様です。
・・・四天王のお顔をそれぞれ画像に収めたいという気になっています。
ほら、こうして龍穏寺に再度参詣する必然性が生じました。
ここの四天王に〝呼ばれて〟しまいましたよ(笑)。

 

楼門(山門)を潜り抜け、またしても振り返ってみます。
もう習慣になっていますね。

すると逆光になっていますが、楼門(山門)の素敵な様子を収めることができました。
天照大神にも龍穏寺の再参詣を後押しされています(笑)。
季節を変えてね、また来ますよ。

 

楼門(山門)に左手側に進むと「熊野神社」が鎮座しているのですが、こちらはまた別機会に触れる予定です。
そのまま本堂に向かって参道を進んでいきますと

石造の観音像がお立ちでした。

 

緩やかな石段を上りきったところに本堂があります。
真っ直ぐ進めば良いものを、右手側に

 

鐘楼がありましたので、寄り道します。
何時になったら本堂に辿り着くことができるのでしょう(笑)。

 

立派な吊り鐘ですよ。
埼玉県指定有形文化財(工芸品)
 「龍穏寺銅鐘」
だそうです。

鐘銘は以下の通りです。

【 北西面 】
武州高麗郡越生郷長昌山龍穏
禪寺者太田氏道真道灌父子爲
徃夷大將軍前左大臣源義教公
普光院殿善山道惠大居士草創
之請無極惠徹禪師之地而月江
泰叟高濁双繼崇風大振其流分
于日域世称法窟衆常不減千指
而後受公命匡諸山規法令嚴密
今無怠矣二十四轉而山僧當主
此山雖古鐘存不足称器賓焉有

【 北東面 】
恨之歳久也予祇役在江府時堀
氏政昭息女同姓親知之帰法名
霊臺院殿懷金二十兩來請爲新
鐘助予亦加金若干兩乃命倕工
冶毘吾石練岩渓銅音玖秘宝投
入鴻爐化茲法器不肖魯鑄完無
齋毀宛轉猛虞負霊將飛騰抗希
聲遠流武野鎮耳得證入神受化
仰延皇祚俯道蒼生乃勒負鐘矣

【 南東面 】
     銘 曰
確乎法器     鉄腹空腸
般龍疑動     偃状如翔
獨歩天地     饒舌挙揚
漢庭毓徳     周室致祥
官家竣罪     緇林儔芳
深省斯起     進退時匡
芦發無尽     響散崑崗
齢侔億劫     慶溢長昌

【 南西面 】
寛文十二歳次壬子三月吉旦
長昌山龍穏二十五世大了愚門叟謹書
         冶工
          堀山城守清光

 

あら?下にも鐘がっ。
現在の銅鐘は、1991(平成3)年、新たに鋳造されたものだそうです。

 

置いてある銅鐘の龍頭(りゅうず)。
尾っぽの部分に旗挿が付いています。
どうも、こちらが1672(寛文12)年に鋳造された先代の吊り鐘だった様です。

1988(昭和63)年の強風で鐘楼が倒れてしまい、説明板には「引退を余儀なくされた」と記されています。
見た目には判りませんが、吊るには問題が生じたのでしょうかね。

 

下に置かれている先代の銅鐘に近寄ってみると、文字が彫り込まれています。
現在の銅鐘と同じ銘なのでしょう。
確認はしていませんがね。

 

そろそろ本堂に向かおうと進むのですが、

太田資長(道灌)が築いた江戸城の外濠に使われていた石が、紆余曲折ありまして龍穏寺の境内に収まっているのだそうです。

川越喜多院にも失われてしまった江戸城天守閣の一室が移築されているなど、本来の場所から移されたことで現在に伝存する貴重な遺物と遭遇することができました。
こうした遺物は大切に後世へと繋げていきたいものですね。

 

太田資長(道灌)の銅像が立っております。
狩猟の場に出た軽装備の装いです。

 

正面からだと気付きませんが、横から見ると弓が長いこと。
日本の弓は「長弓」と呼ばれ、身長の1.5倍程のサイズが普通です。
中国やモンゴルで見られる「短弓」は取り回しが容易ですが、命中精度が低いと言われます。
それに対し「長弓」は大きいので取り扱いに慣れが必要ですが、命中精度は高いとされています。
とは言っても、弓は修練具合によって命中精度が変わりますのでね。

 

やっと、本堂が見えて参りましたよ。

それにしても、何?この綺麗な蒼天。
龍穏寺に参詣することを一週間ほど前に決めた訳ですが、しっかり天照大神が晴天にしてくれました。
何時ものことながら、感謝感謝ですな。

 

いよいよ、本堂の入口です。

・・・が、ここを素通りします。
何故かって?
だって、向こう側(左手側)に

「太田道灌之墓」という表示が視界に入っちゃったんだもん。
そりゃ、行かねばなりますまいて。

それ程険しくはないのですが、真っ直ぐな石段でした。

日当たりが良かったものですから、石段の雪は溶けていました。
息が乱れる様なことはありませんでしたよ。
だって、普段からとても過酷な状況を踏破していますからね。

石段を上りきって、直ぐでしたよ。
この先で芝刈りがおこなわれていましたので、歩みはここで止めておきました。
次回は、この先まで探検するかもしれませぬ。

左手側に墓の説明板が、右側には石塔が並んでいます。

画像1枚に全体を収めるため、ワイド写真で撮りました。
強過ぎる天照大神の恵みによって、却って見辛くなってしまいました。
致し方ありませんね、文句は言えないので。

太田資長(道灌)の墓だそうです。
関東戦国時代における抗争で、扇谷上杉氏の家宰として活躍しましたが、主君・上杉定正によって暗殺されてしまいました。
父の太田資清(道真)が子息・資長(道灌)の分骨を龍穏寺に納めたのだそうです。

太田資長(道灌)の墓としては、
 首塚:大慈寺   (神奈川県伊勢原市)
 胴塚:公所寺洞匡院(神奈川県伊勢原市)
が知られています。

今回の龍穏寺参詣は、〝ドラゴンに逢えるかも・・・〟というのがきっかけでした。
事前に色々と調べて訪れるということは、殆どしていませんのでね。
思いがけぬ太田資長(道灌)との遭遇は、嬉しいアクシデントでした。
全く知り合いではありませんけれどね(笑)。

もう、本堂へ向かわないと・・・。

墓がある丘から本堂を見ています。
駐車場に車を停めてから2時間ちかくが経過しています。
良き天候で、暖かかったですからね。

 

今度こそ、本堂に来ましたよ。

 

額の1文字目が解りません。
それは、そうと

文字の向きがばらばらと、天井が斬新でした。

 

ここまで前置きが、かなり長くなってしまいましたからね。
「さぁ、本堂に入るべ」

と立ち入ろうとしたところ、立入禁止に加えて写真撮影禁止の表示が・・・。
写真撮影はね、承服できますよ。
道内立入禁止かぁ・・・・。
その分、楼門や太田資長(道灌)の墓を満喫しましたからね。
        (実は境内の熊野神社も楽んだのです)

 

致し方ありませんので、朱印をいただき本堂をあとにします。

 

最後に「経蔵」を見て回りました。
中に入ることはできませなんだが、

外壁の彫刻が、とても繊細でした。

真ん中からちょいと右にずれたところ、弁財天?のお姉ちゃんが居ました。

 

2時間兆、はしゃぎまわりましたのでね。
「経蔵」見学は雑になってしまいました。
次回の参詣では、しっかりとペース配分を考えてまわりますね。

 

駐車場までの帰り道、アスファルト舗装の坂道を下っていきました。
えっ、〝龍に逢えたか〟って?
気付きませんでしたが楼門(山門)の天井、境内の熊野神社に複数の龍の彫物/銅鐘の龍頭がありました。
でも、今回は皆様がイメージしている龍には逢えなかったと認識しております。
まあ、別の場所ですが大和国龍穴神社の例もありますのでね。
これから何度か参詣しているうちに、逢えるんぢゃないでしょうかね。

 

 

 

 

 

 

 

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