紀伊国金剛峯寺(和歌山県)

何時もお世話になっている空海に逢うため、高野山に登ってきました。
以前の登拝は・・・10年前でした。
訪れたいと常に考えているのですが武蔵国からの距離を考えると、どうしても〝遠い〟という精神的ハードルが高くなっていました。

ところが、最近の〝大和国での遊び〟が楽しくなってきているので、奈良を滞在拠点とすることが常になりました。
心理的に〝奈良から向かう〟とすれば大阪が近くなり、とすれば和歌山も遠くなくなっていくのです。
この論理で、これから高野山に登る機会は増えていくことでしょう。

さて、今回は紀伊国高野山の金剛峯寺のお話をしましょう。
武蔵国を早朝に出立しまして数回休憩し、高野山の麓に辿り着いたのが16:00を過ぎた頃でした。
和歌山県橋本市の「向副」(むかいそえ)の交差点をナビ担当が「こっちです」と国道371号へと誘導しました。
以前の登拝ではカーナビ誘導で国道13号を通っていたのですがね。
以前と異なる道を通るのは楽しいと思ったので、国道371号を進むことにしました。
同乗者は〝酷道〟371号の険しさで不調を訴えてきましたが、楽しかったですよ。
ただ国道371号は所々で車の交差が困難な場所がありますのでね、ある程度の覚悟を以て乗り込んでくださいね。

さてさて、国道371号を選択したことにより「奥之院」側に到着しました。
「高野山大門」側から高野山を楽しみたい場合は、国道13号を選ぶとよろしいでしょう。
道路が整備されて運転し易いですからね。

 

金剛峯寺の前です。

10年も経っていると〝懐かしさ〟を感じでしまいます。
参拝客は結構な数でしたよ。
やはり人気観光スポットでした。

〒648-0294
和歌山県伊都郡高野町高野山132
TEL : 0736-56-2011(代)

 

門柱「総本山 金剛峯寺」の文字です。
10年前は白かったんです。
何時、黒くなったんでしょうね。

 

手水所には「五三の桐」(ごさんのきり)と「三頭右巴」(みつがしらみぎどもえ)が彫り込まれています。
 「五三の桐」は豊臣家から与えられたもの
 「三頭右巴」は高野山鎮守である丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の定紋
だそうです。

 

金剛峯寺「正門」に近付いていきます。
金剛峯寺公式HPによりますと、1862(文久2)年の再建と伝わりますが、1680(延宝8)年に落慶した「青厳寺上門」の可能性もあるそうです。

ネットで金剛峯寺「正門」で検索してみますと、
 〝1593(文禄2)年に再建された、金剛峯寺の建物で一番古い〟
という情報もあり、金剛峯寺公式HPとの相違があります。
時間に余裕がある時に調べてみますね。
また、近いうちに参詣する予定ですので。

 

元は羽柴秀吉の時代に建てられましたからね、攻められることは無いのに築地塀がぶ暑いのです。
突き破ることはできませんよ。

 

左右に「五三の桐」「三頭右巴」紋の提灯が提げられています。
嘗ては勅使・皇族や重職の僧侶のみが出入りできたといいます。
時代は移り変わったのですね。

 

「正門」を潜る際、見上げますと注連縄が掛けられていました。
神仏習合の考えが具現化されています。

 

「正門」を潜る際、下を見ていると柱の根元に金具が施されていました。
根元が腐敗しない様にとの工夫ですね。
音声ガイド標識の横っちょに枯れてはいましたが葉っぱがさされていました、
関係者/観光客の茶目っ気なのか?
こうした遊び心は素敵で楽しいですね。

 

礎石立の角柱だと金具の形状がちょいと変わりますね。
〝永久に支える〟っていう気概が伝わってきます。

 

営業(参詣時間)が終わると閉められてしまう門扉の様子です。
次回の参詣時に閉まっている画を撮ろうと思います。

 

 

金剛峯寺はもともと空海の甥・真然の住まいがあったところで、1131(天承元)年に覚鑁が大伝法院を建て、羽柴秀吉が大政所の菩提を弔うために木食応其に建てさせたものが基本殿となっています。
秀吉の時代は「剃髪寺」といったそうですが、後に「青厳寺」と呼称が変わったと謂います。
複数回の火災を経、現在の本殿は1863(文久3)年に建てられたものだそうです。
1868(明治元)年に政府行政官より「青厳寺」から「金剛峯寺」への改号が指導されたそうです。

 

金剛峯寺本殿(本主殿)を斜めから観ています。
横長の建造物ですので、通常の撮影では収まらないのです。
屋根の上には防火用の桶が配備されており、これを「天水桶」と呼んでいます。

 

金剛峯寺の「大玄関」です。
勅使・皇族、重職の僧侶のみが出入りできるのだそうです。
内側から内部の様子を観察することができますよ。
重層の檜皮葺が見事で、歴史の重みが伝わってきますね。

 

破風に据えられた緻密な龍の彫刻。
防火・鎮火の呪いなのでしょうが、凄いですね。
まるで活きているかの様です。

 

ちょいとズレてしまいましたが、右側に見えるのが「小玄関」です。
立ち入ってはいけないところには「こうやくん」が立っています。

 

一般参詣入口です。

 

 

参詣受付で朱印をいただき、その横の大広間に立ち入ります(立入可能区域です)。
高野杉・霊木の切り株が据えられている間に、「金剛峯寺」の額が掲げられています。
1984(昭和59)年の「弘法大師御入定1150年御遠忌大法会」で掲げられたものだそうです。

 

本殿の長い廊下を進んでいきます。
左手側、「大玄関」の内側の様子を見ることができます。
緻密な彫刻が鏤められています。

3枚の画像を合わせたものです。
雰囲気を味わっていただければと存じます。

 

この透かし彫り、観てくださいな。
超絶の職人技ですな。

 

どこに着目しても、木材加工・組み合わせの妙技です。
流石に「大玄関」ですな。

 

ちょいと進んで、軒先に出てみました。

観光客、何方もいらっしゃいませんでしたのでね、そのまま歩みを進めました。
なかなかできない体験ですよ。
盆の時期限定の切子灯籠がつるされていますね。

 

切子灯籠が吊されているところです。
そんなに太くない紐で繋がれています。
この紐を通す木製の掛け具が梁に装着されていました。
欄間には鳥の彫刻が填め込まれていますが、鳥避けの金網がはられています。

 

切子灯籠の下を通り過ぎて振り返ると、切子灯籠が風に靡いていました。
些細なことですがね、心地好いのです。

 

中に戻って通路を進みます。

大広間の「持仏間」に面したところで観光客が立ち止まっています。

御誕生一、二五〇年記念
 本尊「弘法大師座像」
 特別開帳

と、筆書の説明が貼ってありました。

人が多かったということもあり、さらりの通り過ぎてしまいました。

 

振り返って見上げると「海老虹梁」と呼ばれる、高低差がある箇所に用いられる湾曲した梁です。

鎌倉時代あたりから、禅宗様建築に用いられる様になったということです。
滑らかな彫り濠も入っており、建物の穏やかさが際立ちます。

 

人が居たので「梅の間」も通り過ぎてしまい、「柳の間」の前に。

撮影禁止という表示があるので、廊下の端から遠慮気味に撮ってみました。
羽柴秀次が自刃した場所と伝わっています。
秀次は「殺生関白」と称されています(表現としては『大かうさまくんきのうち』が最初)が、後世(江戸期)に形成された俗説の類いです。
小牧・長久手での失態を除けば秀吉の一族としては真っ当な政治・軍事的成果を挙げています。
実子(捨丸・鶴松)を失った秀吉から関白職および豊臣氏長者を継承していますからね。
秀吉からの期待は相当なものだったことがうかがい知れます。
それも拾丸(後の秀頼)が誕生したことによって状況が変わっていくのです。

羽柴秀次は1595年8月20日(文禄4年7月15日)、金剛峯寺「柳の間」にて自刃。
家臣の雀部重政が介錯したそうです。
秀次の家臣ら4名が切腹したあとに秀次自身の自刃ということですから、「柳の間」は凄惨な光景だったことでしょう。

現在の金剛峯寺は幕末期の1863(文久3)年に再建された建物ですからね。
現在の「柳の間」で羽柴秀次が自刃した訳ではありません。
現在の「柳の間」は、全く血生臭さはありませんからご安心くださいな。

 

拝観経路を進んでいきます。

「書院上段の間」にございます。

こちらが「上々段の間」。

 

こちらが「装束の間」にございまする。

この小窓から見上げると

折上式格天井となっております。
この空間は書院造ですよ。

 

次は「圍爐裡の間」です。

手前の案内表示には

「圍爐裡の間
 一名土室ともいゝます
 向うの壁には弘法大師
 御自筆の愛染明王
 がまつゝてあります
 こゝにも髙野獨得の
 圍爐裡があります   」

という説明がありました。
囲炉裏の上部に小さな愛染明王が御座します。
向こう側に見える黒い掛軸、空海自筆の愛染明王像ということですが遠くて暗くて様子が判りません。
次回の参詣で確認してみます。

 

台所は立ち寄り、画像も撮りましたが割愛します。

 

奥殿に向かいます。

「真然廟」の前に辿り着きました。

 

真然(しんぜん/しんねん)は讃岐国出身で佐伯一族、空海の甥と伝わっています。
空海の弟子となり、高野山二世として寺の運営にあたったそうです。
訪れて知る、高野山の歴史です。

 

売店に立ち寄り、書籍を購入しました。
そしてまた通路を進みます。

左手側に気配を消した人影が・・・

 

・・・「こうやくん」でした。
立入禁止箇所に「こうやくん」が立っています。
全く威圧感がありませんからね、「あっそ、立入禁止ね」と自然に受け入れることができます。

 

方向を転換し、この通路の突き当たりが「新別殿」です。
1984(昭和59)年の弘法大師御入定1150年にあたり参詣者の接待所として新たに建てられたものです。
大広間は169畳敷きだそうです。
勿論、数えていませんよ。

広間の壁には様々なものが飾られています。

おや、見慣れない像が・・・

立札に説明書がピンで留められていました。
読んでみると・・・

「    恵果和尚 座像

  安置の座像は、弘法大師空海の真言密教の師
 である恵果和尚(746年~805年)です。恵果
 和尚は、中国唐代の僧で不空三藏に従って密教
 を究め、真言第七祖と仰がれる僧です。
  入唐して長安(現在の陝西省の省都西安市に
 相当)の都に入られた空海は、青龍寺の恵果和尚
 に合いに行かれました。
  恵果和尚は空海に会われるや「我、さきより汝
 の来るのを知り、待つこと久し」と大層喜ばれ、
 空海に真言密教を授け、遍照金剛(へんじょうこ
 んごう)の法号を贈りました。そして「早く日本
 に帰って真言の御法(みのり・仏法 仏の教え)を
 広めよ」と遺言され、お亡くなりになりました。
  この座像は、平成27年(2015年)高野山開
 創1200年大法会を記念して中国の青龍寺か
 ら寄贈されたものです。              」

うお~っ!
師匠っ!!
空海のお師匠さんじゃないですかっ!!!

以前の参詣時、新別殿にはおいでではありませんでした。
青龍寺の恵果和尚の座像が高野山に寄贈されていたなぞ、知りませなんだ。

恵果和尚の前に座り、色々と感謝の気持ちを伝えました。
当然、声になど出しておりません。
何人もの観光客の方々が像の説明書をチラ読みし、立ち去っていきました。
〝空海のお師匠〟を前にして、感動していましたよ。
誰にも共感されることは無いでしょう、善いのです。

いやぁ~、恵果和尚に逢えたのは今回の大収穫でした。
また、逢いに行きますよ。

大満足して本殿を後にしました。

 

今一度、金剛峯寺本殿(本主殿)の様子をご覧いただきましょう。

帰りになると、あれだけ居た観光客の姿が見えなくなりました。
本殿全体を撮影する絶好のチャンスです。

この画像を撮り終えたら、また観光客の姿で本殿に集まってきました。
勿論、観光客の動向を統制していた訳ではありませんからね。

 

「大玄関」の対面にある「鐘楼」、向こうに「正門」が見えますね。

 

 

「鐘楼」を正面から見ています。

 

10年振りの金剛峯寺、楽しかったですよ。
また近いうちに参詣する予定です。

 

 

 

 

 

 

 

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