陸奥国中尊寺(岩手県)その弐

去る如月、任務があって陸奥国平泉に出向いた折、中尊寺を訪れました
時間制限がありましたもので〝駆け足参詣〟となってしまいましたので、じっくりと時間をとって中尊寺を愛でて参りましたよ。
又しても任務がありましてな。とは謂っても去る弥生のことでしたがね。

中尊寺の近接駐車場は有料ですので、一番大きなところに駐めまして「月見坂」から金色堂を目指しました。

 

休日で観光客も多かったのですが、午前中早めの時間で参詣しましたのでちょいとタイミングをずらすと。斯くの如き無人の画像を撮ることができます。
とは謂いながら、全ての画像がこの様になる訳ではございません。
画像によっては〝消しゴムマジック〟を使用しました。
人の姿は消えても影が残っているという怪奇現象が垣間見えるものがあるかもしれませんが、怖くないものです。ご安心くださいな。

 

坂の入口には「関山 中尊寺」の碑と、地蔵が控えております。
「中尊寺に来た」感が高まってきましたよ。

 

なかなかな勾配を登っていきます。
足腰に不安をお抱えの方々は月見坂の入口からではなく、左手側の舗装された坂道を利用されるとよろしいでしょう。ただ趣はありませんがね。
同じく左手側の舗装された坂道を進むと直ぐに月見坂より一段高い舗装された坂道に繋がる道モあります。
上の駐車場まで車をご利用されてもよろしいでしょう。

 

逞しい杉の木の挟まれた参道です。
永きにわたり、多くの人びとの信仰を受けてきた場所である雰囲気が満ちています。

 

左手側に、横道らしきものが見えてきました。

 

「八幡堂」だそうです。

 

小道を進むと

こちらの堂(八幡堂)の前に出ました。
ここは朱印授与はありませんよ。

 

月見坂に戻り、坂を登っていくと

右手側に「総門跡」の碑があり、

 

直ぐ先に総門があったことを彷彿させるモニュメントがあります。
この時は車が停まっていましたが、何時ものことではありません。

 

「総門跡」を通過すると、左手側に「弁慶堂」の標識が見えてきます。

 

小道を上ると

弁慶かっ!?
顔出しパネルが立っています。
誰も居ない状態で撮ったのですが、木の葉・枝で偶然にも大口を開けた僧兵の表情に見えています。こいうのが怪奇現象なのです(笑)。

右手側を向くと

先に弁慶堂が見えます。
石敷の参道ですが、手前の両側に埋まりかけの穴があいています。
左側にチラ見えしていますが、どうも石製の鳥居が立っていた様です。

 

「弁慶堂」手前に売店(授与所)があります。
その手前で狛犬(阿吽)が迎えてくれます。

嶮しい表情なのですが、愛らしいのです。

 

こちらは1826(文政9)年に再建された通称「弁慶堂」と呼ばれているものです。
平安時代に五方鎮守・火伏せの神「将軍地蔵菩薩」を本尊とした杞愛宕宮がもとになっています。

 

組物の装飾がなかなか繊細です。

 

ほらっ、源義経の表情が見えますよ。
堂が江戸時代後期の再建ですからね。江戸時代人の想像武装をしています。

 

右手にまわりこむと長刀に体重をかけて立っている弁慶の姿が見えます。
「立ち往生」伝説の具現化したものですね。

源義経も弁慶も、別の場所で生涯を終えているのですが、奥州藤原氏との縁も深いということで「東物見」に対する場所へ弁慶堂が位置付けられているのでしょう。

弁慶堂は周囲をまわることができます。
軒先には上がりませんでしたが、横っちょから見てみました。

 

中尊寺の諸堂は、履き物を脱げば上がれるところもありますのでね。
次回、確認してみます。

 

売店(授与所)で「弁慶堂」朱印をいただきました。

「弁慶堂」朱印は〝書き置きのみ〟です。
朱印帳を出すと、おばちゃんが「書き置きなのよ」と声がけしてくれます。

 

弁慶堂の横から階段をおりて、参道に戻ります。

ちょうど、この画像の状態から180度開店しますと「東物見」と称する見晴台があります。
画像は撮っておりませなんだ。
1189(文治5)年に東国武士団が侵攻してきた時、ここからどの様な光景が見えたのでしょうかね?

 

また参道を進んで行きます。

 

 

右手側に建物が見えてきました。

 

 

地蔵堂前の売店(授与所)です。

 

地蔵堂です。

 

地蔵堂に納められている地蔵菩薩のお姿。

 

「地蔵堂」の朱印です。こちらも書き置き朱印のみでした。

 

また参道に戻り、進むと左手側に

 

 

再建「薬師堂」がありましたよ。

2020(令和2)年に再建された、白木造の堂です。
木の香りが漂ってきそうな状態でした。あくまでもイメージですがね。
前の薬師堂は1885(明治18)年に改築されたものだったそうですが、雨漏りの損傷が著しかったことで再建されたそうです。

本尊は「薬師瑠璃光如来立像」だといいます。
堂は閉ざされていますのでね。
公開日は定まっていますが、その日に合わせた参詣は難しいのですよ。

 

薬師堂・横の売店(授与所)ですが、ここ最近の参詣時に開いていたのを見たことがありません。

 

参道を進むと、間もなく中尊寺・本堂へ、という場所にきました。

 

 

本堂・手前には小さいのですが、

「願成就院観音堂」があります。

 

比較的新しい堂ですね。
堂内に納められている観音菩薩像です。

 

参道に戻り、本堂を目指します。

中尊寺本堂の入口です。

門には
「中尊寺」
「陸奥教區宗務所」
の看板が掲げられています。

 

門を潜り抜けて振り返ると

 

錆びてはいますがね、侵入者を門の内側に入れない意思が感じられる金具が装備されています。

毎朝、扉は開けられ、観光客が立ち去ってからの夕刻に閉門しているのでしょう。

 

金具周辺を観察すると、現在でも開閉されていることが判ります。

 

礎石の上に柱が乗っていますが、礎石に形が合っていないことから移築されたことが判ります。

 

門の屋根の様子。

 

 

自然木の姿を残した梁の様子。

 

 

屋根瓦が乗せられていますが、何層にも部材が重ねられていますね。

現在は中尊寺本堂の「本坊表門」と称されていますが、もとは陸奥国一関藩の伊達宗勝(1621~1679)の邸宅の門でした。この門は岩手県指定有形文化財に指定されています。
伊達宗勝邸から中尊寺へは1659(万治2)年に移建されたといいます。

建造物を解体して、別の場所へ移して建て直す。
面倒なこと、手間がかかること(費用面からも)、新しいものを建てればよい無意味なこと・・・
など否定的な見解もあるでしょう。
然しながら、この門が伊達宗勝邸に建っていたなら、宗勝の改易を機に門は失われてしまったかもしれません。
伊達宗勝が一関藩主となった地縁で中尊寺へと移建され、現在に至っているのであれば、これは奇縁の賜物ですよね。
日本には〝○○にあった建物がここに移されて残っています〟という例が彼方此方にあります。
理由・事情はなんであれ、こうした先人達の考え・行動によって文化財が現在まで維持されているということに感動を覚えますよね。

 

中尊寺本堂の様子です。
弥生の時期でしたからね、積雪・降雪はありませんでしたが、未だアカマツには雪吊りが施されていました。

 

 

手水所の囲いは解かれていましたね。

水の流れが、春の訪れを物語っていますね。

 

鐘楼の側から本堂の全体像を観ています。

本堂内では法要がおこなわれておりましたので、そそくさと退散しました。
また次に参詣した時、仏を愛でれば良いのでね。

折角ですから、本堂の外側を廻って観ました。

本堂の右側にまわりこんでいきます。
本堂の正面入口の真横を右側から観ています。

 

本堂・右側の様子です。
観光客は、こちらに誰一人としておりませんでした。
突き当たりが「光勝院」という新しい建物です。

 

本堂・後ろ側の様子です。
ここで本堂まわりを一周するのは止めてしまいました。

 

本堂・軒下の様子です。
現在の本堂は1909(明治42)年に再建されたものなので、
建物の基盤はコンクリート製?それとも古式の土壇?

 

どっちなのでしょうかね?

 

観光客の流れが途絶えたので、本堂の正面入口に寄ってみました。

簀の子で履き物を脱ぎ、堂上へ進むことができます。
本堂内・右側に法要の人びとがおいででしたので、写らぬ様に左側を観ています。

目線を上げると、重厚かつ重層の天井・屋根の様子が視界に入ってきます。

 

手間が掛かった建造物であることが判りますね。

 

本堂・正面からみて左手側に位置する売店(授与所)で朱印をいただきました。
朱印帳に書いていただいている待ち時間に、本堂を観た画像です。
観光客の数が増えてきました。

 

「中尊寺本堂」でいただいた朱印は、こちらです。

「中尊寺本堂」の朱印は朱印帳に書いていただけますし、書き置きも対応してくださいます。

 

朱印をいただいて、売店(授与所)の前を通り過ぎ、

この門を通り、本堂・境内から出ます。
この門の右手側に厠(手洗い)があります。
この先の讃衡蔵(さんこうぞう)までは厠がありませんので、ここを利用されるとよろしいでしょう。

 

参道に出ると、直ぐ左手側に

「不動堂」が位置しています。
画像には写っていませんが、碑の右側に大きな地蔵が立っています。

 

「不動堂」に向かっていきます。

観光客の姿はありません。

 

「聖不動尊」の額が掛けられています。
ここでの朱印授与はありません。
左手側にまわって不動堂の中に入り、祈禱の受付をすることになっています。

観光客が出掛け先で不動の祈禱を申し込みます?
相応の用意・覚悟をした者が、不動の祈禱を申し込むのですよ。
次の参詣で祈禱、頼んでみましょうかね。
頼みたい案件があるので(笑)。

 

参道に戻ると、不動堂の斜め右側に「願成就院」があったエリアになります。
池を背にした売店(授与所)があり、「目の御守」グッズが販売されています。
前回の参詣では、偶然にも日にち限定朱印(金色台紙)をいただきました。
この時は通常朱印をいただきましたよ。
ここ(峯薬師堂)では限定も通常も、書き置き朱印のみです。

 

峯薬師堂は、もともと金色堂の南方に位置する経塚山の下にあったものの天正年間(1573~1591)、織田信長・羽柴秀吉の治世に荒廃してしまったそうです。
暫く時間が経った1689(元禄2)年に、峯薬師堂は現在の場所に再建されたといいます。
峯薬師堂の本尊は平安末期の丈六薬師如来座像で、重要文化財に指定され讃衡蔵に安置されているそうです。

現在のこの堂(峯薬師堂)は、1982(昭和57)年に改築されたものです。

1988(昭和63)年、仏師・松尾秀麿氏の手になる前立本尊が現・峯薬師堂に納められたそうです。

 

現在の峯薬師堂の右・手前には

重要文化財「願成就院宝塔」が据えられています。
12世紀、平安時代の後期の造立と推測されています。
塔身部には梵字が刻まれていますが、何を意味しているのかは判別できません。
ご興味をお持ちの方は。ご自分でお調べください。

 

「峯薬師堂」前の売店(授与所)でいただいた朱印はこちらです。

 

またまた参道に戻りまして、ちょいと進むと

手側に少し上る小道があります。
ここを上ると

 

「大日堂」があります。

 

堂内に祀られている大日如来は、この様なお姿です。

 

うーんっ、大日如来ですからね。
光輝いていて然るべきですからね。

履き物を脱ぎ、堂上にあがらせていただきました。

「大日堂」というので大日如来が中心に安置されていますが、左右に脇侍といいますか色々と並べられていますね。
有名な設定(お話)ですが、大日如来が忿怒した姿が不動明王ですからね。
こうして大日如来とは別の仏が一堂に会しているというのは何の問題もありませんの。

 

「大日堂」でいただいた朱印はこちらです。

「大日堂」の朱印も書き置きのみとなっております。
大日如来は密教の中心仏ですからね、天台宗も密教化しましたから大日如来の恩徳をいただくために、こちらの朱印を頂戴することをお勧めしますよ。

 

またしても参道に戻って進むと、先の方には讃衡蔵・金色堂前の広場が見えてきます。

慌てることなく手前から見ていくと、右手側の高台に小さき「鐘楼」がございます。

階段はありますが、上がっていくことができないようになっています。

「鐘楼」内には、1342(康永2)年に鋳造された梵鐘が安置されているそうです。
鐘身には、1337(建武7)年に中尊寺の諸堂塔が大火災によって失われてしまったという文字情報があるといいます。
鐘の撞座(つきざ)は長きにわたる打鐘(だしょう)によって窪んでしまい、撞かれることは無いそうです。

 

そして参道を進むと、讃衡蔵・金色堂前の広場に到着しました。
博物館「讃衡蔵」(さんこうぞう)の画像を撮りわすれていました。
「讃衡蔵」入口横で讃衡蔵と金色堂の共通入場券を購入します。大人は800円となっています。
複数回訪れると〝「讃衡蔵」は寄らずに「金色堂」だけ拝観したい〟と考えてしまいますが、中尊寺の塔頭(諸堂)に伝えられた寺宝が「讃衡蔵」で一覧することができます。
中尊寺側からすれば「讃衡蔵」内の文化財と「金色堂」は、同列の宝物(ほうもつ)なのです。
「どちらか片方だけ」という訳にはいかないのでしょう。
中尊寺を訪れる際、窓口で「金色堂だけ・・・」などと口にせぬ様にしましょう。後ろで待っている方々がおいでですからね。

 

「讃衡蔵」に入ります。
歴史的に受け継がれてきた諸仏、金色堂に納められていた奥州藤原氏当主の遺品・・・。
展示されている文化財は、いずれも当代の一級品揃いです。
事前に書籍等で下調べをして、館内にて本物(物によっては模造品)を目の当たりにして往時の奥州藤原氏の威勢に想いを馳せると楽しいでしょう。
・・・とは言いながら、混雑具合やその日の予定等々があるでしょうからね。
案外短時間で〝流してしまう〟ことでしょう。
単独行動が可能であれば「讃衡蔵」だけで2時間ほどは楽しみたいと考えております。

「讃衡蔵」でも朱印はいただくことができます。
入口で朱印帳を預けると札をいただき、出口のところで札と朱印帳を交換するシステムになっています。

 

頼んだことはありませんが、書き置きも対応してもらえるでしょう。

 

「讃衡蔵」を駆け足で拝観し、売店で土産物を見てまわります。
その後、「讃衡蔵」の前にある

「阿弥陀堂」に立ち寄ります。

 

 

「阿弥陀堂」と呼ばれていますが、堂の柱には「彌陀堂」と掲げられていますし、「阿弥陀堂」でいただいた朱印にも「彌陀堂」の表記になっています。
「阿弥陀堂」の朱印も書き置きのみとなっております。

 

広場前には「辨財天堂」がございます。

 

堂内の辨財天のお姿は、この様になっております。

暗くて見辛うございますなぁ。
次回の参詣時には、もっと明るき大きな画像を撮ってきましょうぞ。

 

「辨財天堂」でいただいた朱印はこちらになります。
「辨財天堂」の朱印は書き置きのみとなっております。

 

いよいよ「金色堂」へ・・・。
と向かったのは良いのですが、観光客の数が多いこと、多いこと。
混雑した状態の金色堂は楽しむことができませんのでね。

 

鎮守「白山神社」へと向かうことにしました。
そちらを廻っている間に、人の流れが変わりますからね。
赤い鳥居の方へ歩みを進めます。

 

これまで何度も中尊寺を参詣しましたが、「能楽殿」を観た記憶がありません。

度善き、ということで「白山神社」の参道に立ち入りました。

 

新しい鳥居でしょうか?
それとも塗りが新しいだけなのでしょうか?
注連縄も掛けられていますね。

 

「白山神社」参道の様子は撮影していません。
だって、観光客の数が多かったんだもん。

 

おぉ、舞台が見えてきました。

 

なかなか大規模な舞台です。

 

説明板に1853(嘉永6)年に「伊達藩主」によって建立されたとあります。

調べてみますと、この「伊達藩主」とは仙台藩13代藩主/伊達氏29代当主であった伊達慶邦(だで よしくに)ということでした。ペリーの来航による開国、幕末期の混乱から戊辰戦争の敗北による生活状況の激変という時代の大変革期を生きた人物でした。
「伊達」は一般的に「だて」と読みますが、歴史上では「だで」と読むのが正しいのです。
一般の方々は無理して「だで」と読まなくても大丈夫ですよ。

 

「能楽殿」の左側にまわると、強い陽射しが向かってきました。
ちょいと視線を上げたところ、

 

画像に彩光と、エメラルド・グリーンの光の点が写っていました。
これは怪奇現象ではなく、瑞祥です(笑)。

 

さて、「金色堂」に向かおうか・・・と思う訳ですが、間もなく昼飯時を迎える時間帯となっていました。
すると「かんざん亭」の看板が。

同行者が以前訪れた時に昼食をとった、ということを言っていましたので、そのまま向かいました。
観光客の皆さんに先んじで入店したため、ゆったりと昼食を楽しむことができました。
皆で色々といただいたのですが、今回はこちらを採り上げますね。

 自然薯入りティラミス

ほらっ、ティラミスが乗っている皿に「堂」が表現されています。

ここに至るまで、諸堂に参りましたからね。
これは観音堂かな?不動堂かな?大日堂かな?阿弥陀堂かな?

 

 

・・・「金色堂」に決まっていますがな(笑)。

 

画像を撮ったりしていましたからね、このティラミスを喰らうのに結構時間が掛かりましたよ。
皿の上の「金色堂」の姿を崩すのに抵抗がありました。

 

でも、そのままにする訳にはいかないのでね、

意を決して「金色堂」を食しました(笑)。

 

美味しく昼ご飯をいただき、本物の「金色堂」に向かっていきます。

弥生も下旬で温かく、道沿いの梅の木で花が咲いていました。
日頃、なかなか四季の移ろいを感じることがないのですが、こうして何時もと異なる環境に身を置くと、それぞれの季節特有の事象が素敵なものと感じることができました。

 

「白山神社」の参道を「金色堂」前の広場に向かって進んで行きます。

観光客の流れに変化が出ていますね(笑)。

 

鳥居前で、両脇の神木(?)を入れて縦のワイド写真を撮りました。

 

「金色堂」の手前、「釈迦堂」がありましたので立ち寄りました。

これまた新しい「釈迦堂」でした。
「釈迦堂」での朱印授与はありません。

 

 

大変、お待たせ致しました。
やっと「金色堂」のエリアに足を踏み入れました。

 

偶々、観光客の姿が途絶えたところを画像に収めました。

 

人影の無い画像を撮ることはできるのですが、

他の観光客の方が写真を撮ることも考慮して、〝移動は迅速に〟と駆け足で金色堂に迫り、立ち止まることの無い様に心掛けました。

こうした心掛けでおりますと、観光客の多き場所にても長くはありませんが無人の如き状態が生じまする。

 

コンクリートの壁に覆われていますが「金色堂」の前方に向かいます。

 

この黒い扉の向こう側に「金色堂」があるのですよ。
楽しき気が昂揚してきます。
「金色堂」は何度拝観しても楽しいものですからね。

 

「金色堂」の覆いの入口は奥の、こちらになっています。
この様に覆堂内での禁止事項が明記されています。
金色堂の有様は、脳内にしっかりと記憶するつもりで拝観しますが、書籍やDVDなどでイメージを補います。
撮影は禁止されていても案外、世の中に「金色堂」の姿に触れる要素は多うございますのでね。

 

覆堂の中に入って、「金色堂」の朱印をお願いしました・・・が、この時は朱印帳を持参することを失念していました。
これも「金色堂」に御座します阿弥陀如来のお導きでございましょう。

中尊寺「金色堂」朱印帳を購入するといただける、限定の見開き朱印がこちらです。

一緒に売店(授与所)で国宝「華鬘」の金属しおり(800円)も購入しましたよ。

 

金色堂では、
 中央が初代・藤原清衡
 入口側が二代・藤原基衡
 出口側が三代・藤原秀衡
の廟堂となっています。
何れも阿弥陀如来を中心にした構成が共通しています。

金色堂は解体修理を経、金箔も貼り替えられているのですが、金色に下品さがありません。
寧ろ気品漂う金色であり、藤原清衡の願いであった極楽浄土と繋がっているかの様な佇まいです。
中尊寺「金色堂」は創建当時の姿、創建した藤原清衡の想い(藤原基衡・藤原秀衡の志も含む)、そして阿弥陀如来の法力が見事に揃った素晴らしき「聖域」ですね。

ずーっと「金色堂」で奥州藤原氏3代と楽しんでいたかったのですが「また来るから」と覆堂から出てきました。

 

出口の正面にまわったら、優しく温かい陽射しに包まれた様でした。

奥州藤原氏3代と善き関係が築けた様です。間違いありません(笑)。

因みに、覆堂の後ろ側は

この様になっています。

 

覆堂の右手側にある緩やかな坂を上ると

「経蔵」があります。
中尊寺創建時の古材をリサイクルして再建されたといい、重要文化財に指定されています。

本尊は「騎獅文殊菩薩」で四眷属像を伴っています。
国宝「紺紙金字一切経」も、かつてはこの経蔵に納められていました。
共に現在は「讃衡蔵」に安置されています。

現在の「経蔵」には前立(レプリカ)の「騎獅文殊菩薩」が安置されています。
「経蔵」内には平安時代の彩色文様が確認できるそうですが、この時は気付きませんでした。

 

「旧覆堂」に向かって行くと、この様な社(やしろ)がありましたよ。

「関山天満宮」だそうなっ!
「河越御所」は菅原道真と業務提携をしておりますので(笑)、ここは参拝せねばなりません。

 

小さき社ですがね。規模の大小ではなく、菅原道真と繋がっていることが大事なのです。

案内板を見ると
①鎌倉時代、菅原道真の子孫・五条為視(ごじょう ためみ)が勅命を受けて陸奥国平泉へと下向・滞在していた時に生まれた乙王丸(後の中尊寺経蔵別当・行栄)へ京都北野天満宮から勧請した天満大自在天神を授けたことに始まるといいます。
②またこの場所は、源頼清(頼信2男・頼義弟)が陸奥守であった時、衣関に鎮守府の弓矢を納めて関の神社をつくった場所でもあったといいます。

①・②共に文献で確認できませんでした。
今後、時間があったら調べてみますね。

 

下りてきてから、縦のワイド写真を撮りました。
距離は短いのですが、その割には急勾配でしたよ。

 

また「旧覆堂」へ向かって行くと

松尾宗房(まつお むねふさ)の銅像が立っていました。
「芭蕉」の名で有名な、忍びの爺さんです。

あまり構っている時間が無いので、画像を撮っておしまいでした。

 

やっと「旧覆堂」が見えてきました。

 

 

窓には鳥が入らぬ様に網が張られています。

 

入口では蔀(しとみ)が上げられています。
下の方は左右の木柵と同形式で、観音開き式の木柵となっています。
毎日、寺僧が交代で観光客が来る前に開け、観光客が帰ってから閉めているのでしょう。
係の職員かもしれませんがね。
夜のうちに小動物が入らない様に、居着かない様にという対策ですよね。大事なことです。

「旧覆堂」には正応元(1288)年の棟札が伝わっており、
  正応元年大歳戊子初冬日奉修覆當堂
という墨書がなされているそうです。

1288(正応元)年、征夷大将軍の源惟康(みなもとのこれやす:惟康王・惟康親王)が執権の北条貞時に命じて金色堂の覆堂が「修覆」された様です。
現在のコンクリ-ト製覆堂が造立されるに当たって、金色堂の解体修理及び発掘調査がおこなわれ、その結果、金色堂が上棟されて大凡50年経ってから極めて簡素な屋根式の覆いが造られ、その後、次第に増改築がなされ、現在の旧覆堂が形成されたことが判っています。

藤原清衡が金色堂を竣工させたのが1124(天治元)年です。
金色堂は前九年・後三年合戦での戦没者を供養するため、そして藤原清衡自身の遺体を納める廟堂として造立されました。
1124年から大凡50年後とすれば、1175年前後頃となりましょう。
後白河法皇の院政下、平清盛を中心とした平氏政権が栄華を誇っていた頃ですね。
源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵する、ちょいと前の時期となります。

 

さて、旧覆堂の中に入ると堂内中央に「柱」の如きが見えますが、

頭頂部が屋根や梁を支えていませんよ。
ワイヤーで繋がれています。

これは1986(昭和61)年4月20日に開催された
 藤原秀衡公・源義経公・武蔵坊弁慶八百年御遠忌特別大祭
を機に立てられた回向柱(えこうばしら)、角塔婆(かくとうば)とも呼ばれるモニュメントです。

縦のワイド写真に収めましたよ。

上に梵字が据えられ、
 奉建寳塔疑藤原秀衡公源義経辨慶八百年遠忌菩提舎也
の墨書が施されています。

 

左手にまわってみると

やはり上に梵字が据えられ、
 願此香奉十方 以為微妙光明壹
と墨書されています。

 

更にまわりこんでみると、裏側にも梵字の下に

 

 告昭和六十一年四月廿日 中尊寺
と墨書されています。

 

もう一面、この角塔婆の正面からみて右手側。
ワイド写真の撮影に失敗しておりました。
次の参詣時に撮り直しますね。

 

記録で追っかけていませんが、旧覆堂は何度かの増改築(1288年も含む)を経、室町時代中期に現在の姿になったと推測されています。
角塔婆の画像にも見えていましたが、比較的単純な構造からも室町時代中期を遡るものではないのだそうです。

外側に出て観ると、木組みの様子がこんなに間近で体感することができます。
礎石ごと、移されたのでしょうね。

 

罅が入ったり、虫喰いが見られたりと柱の根元は傷みやすいですからね。
埋木がなされています。

 

こうして使われている木材に注目すると、悠久の歴史を感じることができます。

 

木肌が顕わになっていますが、木の継ぎ目を注視すると赤い顔料の痕跡を確認することができます。
朱塗だったのでしょうね。
朱は腐敗防止、虫除けの効能がありますのでね。

 

朱塗の覆堂内に金色堂が収まっている様子、想像すると楽しいですね。

 

通路に従って進むと「大長寿院」の前に着きます。

 

門を潜って振り返りますと、

中尊寺本堂の「本坊表門」を意識している造りに見えます。
木材の形状をそのまま活かした梁は共通していますが、時代によって入手できる木材も変わりますからね。
かなり細い木を使っています。本堂「本坊表門」と比較してですよ。
現在は日本国内での調達は勿論、海外からも巨木の輸入には厳しい制限がありますので、歴史的な建造物の復元も新しい巨木を使用することが難しくなってきています。
決して予算をケチったなどというものではありません。

 

んっ?

訪れたのは春(弥生)でしたが、梁に旧夏の面影が残っていましたよ。
しかも、仲良く2体分。
蝉の本体はとうに朽ち果てているのでしょうが、こうして門の梁に抜け殻が残っていることで、蝉2体が此の世に「生」を受けたことを認識することができます。
普段だと、この様なことは感じたりしませんが、中尊寺境内に居るから気付くことができた奇縁ですね。
また夏に参詣する予定ですが、それまで健在なのでしょうか?
「健在」は、この2体分の抜け殻にかかっていますよ。

 

誰が始めたのかは知りませんが、

彼方此方に小石が乗せられています。
観光客が願いを込めているのでしょうかね?

 

製材された梁に墨書がありまして、
「山門 修理」

「平成四年四月吉日」
と、1992(平成4)年に竣工したことが記されています。
山門修理に関わった大工の皆様のお名前も記されています。
だいぶ新しい門なのです。

 

大長寿院の建物です。
朱印の授与はしていない様でした。

「元三大師秘法」の祈禱をしてもらえる様です。
祈禱内容としては
 家内安全
 身体健全
 交通安全
 厄除開運
 縁談成就
 子宝天受
 商売繁盛
 受験合格
 栄職達成
があげられています。

「河越御所」の祈禱を依頼したいのは「怨敵討滅」ですので、受けてもらえそうにありません。

 

 

この画像は月見坂で散見される〝根っこが合わさった杉の大木〟です。
縁結びの象徴ともいうべき現象ですが、中尊寺の月見坂では、この様な状態が複数あり、特段信仰対象とされている形跡はありません(探せばあるかも知れませんが)。

中尊寺が山の上に建てられたからこそ、源頼朝率いる東国武士団の攻撃を受けることなく、現在も奥州藤原氏の栄華を感じることができます。
じっくりと時間をかけて山の上で遊ぶと、善き想い出となることでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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