2021.8.21 東京国立博物館の常設展で模造「赤絲威鎧」と戯れてきました。

2021.8.21 東京国立博物館の常設展で模造「赤絲威鎧」と戯れてきました。

東京国立博物館に2度目の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」拝観に行ってきましたが、その話は別の機会として、今回は常設展(本館13室)に居る模造「赤絲威鎧」(あかいとおどしのよろい)のお話です。

モデルは武蔵国・御嶽神社(みたけじんじゃ)が所蔵する、畠山重忠(はたけやましげただ)によって奉納されたと伝わる国宝「赤絲威鎧(兜・大袖付)」です。ほぼ全ての部分品が揃い平安時代後期の大鎧の姿を伝える名品です。
現在、本館13室で展示されているのは、1937(昭和12)年に小野田光彦氏が制作した模造で、制作時・往時を偲ばせる鮮やかな糸と金具、革所(かわどころ)、漆塗部分が見事に復元されています。

 

まずは「星兜」(ほしかぶと)です。
〝星〟とは頭部を護る「鉢」(はち)の板金を繋ぎ合わせる鋲(びょう)のことで、板金の繋ぎ目にこの星が並び打たれていることから星兜と呼ばれるようになったそうです。
こちらは「鍬形」(くわがた)の無い兜になっています。

額を護る「眉庇」(まびさし)の上に、金色の「篠垂」(しのだれ)が据えられています、
左右に拡がる「吹返」(ふきかえし)は正面に「画韋」(絵韋とも:えがわ)を貼り、左右から飛んでくる矢の攻撃を防ぐ役割を果たしていました。

 

星兜を、斜め上から観てみます。
この状態でいると、顔面や首・胸元に矢が飛んできた時に無防備となってしまいます。
ですから戦場では、この姿勢で飛んでくる矢を見るようなことにはならないよう気をつけねばなりません。
星兜の頭頂部に金色の金具が据えられています。幾つもの金具の集合体(八幡座と総称されます)で、これは「頂辺」(てへん)の穴と呼ばれ、髻(もとどり)を出す穴でした。蒸れを解消する役割もあります。

 

側頭部から後頭部を護る「𩊱」(しころ)は、鉢の下縁を一周する「腰巻板」(こしまきいた)から下げていく部位で、まるで傘の様に拡がっている小札(こざね)を重ね繋いだ部分です。赤糸で威された4段が顔の横で大きく反り返り、正面に画韋を這っています。が吹返です。
𩊱の再下段が「菱縫板」(ひしぬいのいた)といい、首と背中の境目を護る機能を有しています。

鉢の左右に赤い紐が出ている箇所があります。これは「兜の緒」(かぶとのお)で、兜の内側から顎に二重に掛けて結び固定します。

 

星兜の後ろを斜め上から観ています。
頭頂部に「頂辺」の穴が見えます。なかなか大きな穴で、ここに流れ矢が入ったら・・・と考えれば、これは致命的な弱点でもあります。
八幡座のすぐ下に「総角付鐶」(あげまきつけのかん)という金色の金具があり、ここに赤い房付の「総角」(あげまき)が下げられています。
原則〝敵に背を見せない〟のが武士(もののふ)の心意気ですが、この状態では流れ矢が飛んできても後頭部・首の付根に刺さることは、まずありません。

 

水平方向からの矣は、余程運が悪くなければ通さないはずです。
下から見上げると隙間がある様に見えますが、大鎧を着用するような大将格は、背後を警護する部下が複数居ますので、この角度からの攻撃を受けることは非常事態を除けばありません。
また、この画像に見えていますが、大袖(おおそで)が前方に垂れてしまわぬ様に鎧の背中にある総角に左右それぞれ2箇所ずつ結ばれています。
鎧を着用すると左右に腕が出ます。その上に大袖が掛かります。後方で総角に結ばれていることで後方の隙間が狭まることになるのです。

 

胸部に注目してみましょう。

左胸にあるのが3段構成の「栴檀板」(せんだんのいた)。
右胸にあるのが1枚構成の鉄板「鳩尾板」(きゅうびのいた)。
胸から腹に掛けて画韋が貼られている部分が「弦走韋」(つるばしりがわ)といいます。
弓で矢を射る際、
 ・開いてしまう脇と胸を防御する。
 ・栴檀板は弓射や太刀を振る際に妨げとならぬ様に屈伸する構造。
 ・弓を引き易い(弦・矣が引っ掛からぬ)ように、鳩尾板が小さめになっている。
 ・胸や腹の小札上に弦走韋を貼り、弓の弦や放った矢、腕が引っ掛からぬようにする。
という機能を有していました。
しかしながら、矢を放った後の弓の弦は身体の外側をまわるので、弦走韋は鎧の形状維持を補強する役割があったと考えられています。
因みに大鎧を着用すると、想像以上に胸の前で弓を引かねばならなくなります。
現在のアーチェリーの様に弦を胴体に付けることができず、兜の吹返もあるので顔に近付けることもできません。
大鎧を着用するならば相当難儀な態勢で、弓射・騎射をせねばならんのです。

 

中央が胴体を護る正面の様子、左が左の大袖、右が右の大袖の様子です。
大袖は平安時代後期~鎌倉時代前期あたりまで6段が多く見られました。縦長の四角形をとっており、飛んでくる矢を防ぐ盾としての機能に重点が置かれています。大鎧には例外無く大袖が付いています。上の画像の様に、𩊱の再下段「菱縫板」と大袖上部「冠板」(かんむりのいた)が重なるので隙間が最小限となります。至近距離の決闘状況でなければ、矢は放射線軌道で飛んでくることが多いので、これで防御することができます(100%完璧ではありませんが)。
因みに、映画などで描写される〝矢の雨を降らせる〟ような攻撃は中世前期の段階ではありませんでしたからね。

 

腰回りに注目してみましょう。

左の画像では、右脇腹から腰にかけてを防御する箇所が分割できるようになっていることが判ります。
これは「脇盾」(わいだて)といい、「壺板」(つぼいた)と称される鉄板で右脇・右腰下を護る部位です。壺板の部分には弦走韋と合わせた画韋が貼られています。

右の画像では、正面の弦走韋が左脇腹の前部まで繋がり、途中から小札の連結に切り替わっています。

鎧を着用する者の視点から、正面→左側面→背面をグルリと囲む一体化した構造になっており、こちらを装着したら、先に身に付けた脇盾の金具に引合緒(ひきあわせお)・胴先緒(どうさきお)を通して結び付けます。これで胴体の全方位が防御できるようになります。
左側から攻撃されたり、敵に左側を向けることが多いことから、若干左側の装備が頑丈な構造になっている鎧も多いそうです。
因みに、この模造大鎧は左脇を覆う部分に「脇板」(わきいた)が備え付けられていますが、それは鎌倉時代後期からのことで、平安時代の大鎧には脇板は付かないそうです。

 

腰・大腿部を護る「草摺」(くさずり)が大鎧なので前後左右4面に付けられています。

 

騎馬の際、跨がる鞍の前後の突起(前輪・後輪:しずわ)があるため、前後の草摺は左右に比べると短めになっています。

腹巻(はらまき)や胴丸(どうまる)の草摺は細分し、動き易くなっています。
時代が下った当世具足も同様ですね。

いやぁ、大鎧、欲しくなってしまいましたねぇ。

 

この模造「赤絲威鎧」は、8月22日まで東京国立博物館・本館13室で展示されています。この場所には8月24日から石井善之助氏による模造「紫糸逆沢瀉威鎧」(むらさきいとさかおもだかおどしのよろい)が配置される予定です。

この模造「赤絲威鎧」は、東京国立博物館ではもう観ることができなくなる訳ではなく、不定期で展示物の入替があるので、しばらく経ったら別の場所(展示室)で逢うことができるでしょう。

待ちきれない方は、武蔵御嶽神社宝物殿に国宝「赤絲威鎧」を訪ねて行かれるがよろしいでしょう。土・日曜、祝日の開館(月~金曜は閉館)となっていますので、注意しましょう。